ならず者ロリータ

Mystérieux Boy

第1話 ドラッグ&セックス

 夜の帳の中に優しい水音が響く。フランス式庭園の高い垣根に囲まれたプライベートプールは青くライトアップされ、夜の闇に幻想的な光を落としている。ここは俺が住む豪邸。聞こえてくるのは俺と彼女が戯れる水音と、どこからともなく響くコオロギの声だけ。


 垣根に囲まれているから、邸宅からこのプールは見えない。庭園の外は森。二人きりの空間で俺達は遠慮のないキスをした。バービー人形のように整った顔と抜群のスタイル、そんな歴代最高の良い女がプールの中で舌を絡めてくる。——はっきり言ってこれだけでイキそうだ。


「ねえヤコフ、今日はここ、誰も来ない?」

「ああ。この時間プールは誰も使わない」


 そう言いながら俺は彼女の腰を自分の元に引き寄せた。その手を下へ移動すると、Tバックの水着からはみ出た、張りのある丸い尻に触れる。美しい庭園、プライベートプール、空には星、ムードは最高潮だろう。

「硬くなってる」

 彼女が意味深に笑う。

「そうだろうね。君のせいだ」

 背の高い彼女が俺を見下ろす。——正直に言うと俺は少しばかり背が低いが、その小さな欠点を差し引いてもお釣りが来るほどの色男だと思っている。

 雰囲気が出来上がってきたとき、彼女は思わぬ一言を言った。

「ヤコフ、今日はいつもより刺激のあることしてみない?」

「何?」


 俺は手を止めた。マンネリにならないよう工夫して来たつもりだが、俺達の愛の営みについてリクエストがあるなら、できるだけ彼女の期待に応えたい。


「コカイン(コーク)打とうよ。イったとき、もっと楽しい」

「あー、俺はそういうのやらないんだ。持ってないし」

「嘘ばっかり。MDMA(エクスタシー)でもいいわ。一緒に気持ち良くなろうよ。どう?」


 彼女がその手のセックスを希望したのは予想外だった。しかしいくら愛する彼女のためとは言え、これだけは断らなくてはなるまい。

「君の体を壊す。それは薦めないよ。それに、俺達にはそんな物なくても充分だと思わない?」

 雰囲気を戻そうと、諭しながら彼女の瞳を優しく見つめた。


「いい子ぶっちゃって。貴方がドープ売り捌いてるの知ってるんだから」

「何のこと? 売るわけないじゃん」

 彼女は俺が嘘つきとでも言わんばかりの表情で見ている。沈黙が訪れた。

「俺達ならドラッグなんか無くても最高の気分になれる。他のことなら何だってするよ。ね?」

 そう言ってキスをすると、再び彼女の頬が緩む。更にキスをしながら、水着のアンダーに手を伸ばし指を滑り込ませる。滑りのある柔らかい何かに指先が包まれ、同時に彼女の甘い声が聞こえる。彼女のふっくらとした唇から出る喘ぎ声が最高にエロい。


 自然な流れで、俺達は甘美な時間に突入する。

「あぁ……ヤコフ!」

「すごくいい」

「言って……! 私の名前を言って!」

「綺麗だよ、ナディヤ」


 そういった瞬間、彼女はとたんに冷たい表情になって、俺の体を引き離すように押した。

「誰よナディヤって」

 ——あっ。

 しまった、と心の中で呟く。

「違うんだ、マリアって言おうとして舌を噛んじゃった」

「はーん、マリアって言おうとして浮気相手の名前を呼んだわけね」

「違う、ごめん、昔の女の名前」

 しかし彼女の瞳から先ほどまでの熱が冷めていくのが分かった。取り繕おうとブロンドの髪へ手を伸ばす。

「……ヤコフ、私達やっぱり合わないと思うの。なんだかちょっと違う。ごめんなさい」

 そう言ってプールから上がる彼女を慌てて追った。

 彼女は水着の上からタオルで体を拭くと、そのまま薄手のワンピースを被って歩き出す。何処へ行くか聞くまでもない。


「待って、本当に謝るから。そうだ、今度のデートでグッチの新作のバッグ買ってあげる」

「ううん、もうそんなことしてくれなくていいわ」


 彼女は振り向くことなく、ひたすら入り口の門へ向かって歩く。

「……マリア!」

 送迎に用意したベンツに乗り込む彼女を呼び止めた。デートするようになって二ヶ月。追うのは格好良く無い。だが、失うにはあまりに惜しい女だった。


「俺たちまだ始まったばかりだし、至らないところがあったと思うけどこれから取り返せる。体の相性も結構良かったし、贅沢だってさせてあげられる。本当にこんなことで終わりなの?」


 彼女は黒い革張りのシートに腰を下ろすと、先ほどの情熱が嘘だったかのように冷めた眼差しでこちらを見た。


「んー、ぶっちゃけ今までちょっと演技してた」

「は……、どういうことだよ!」

 思わず言葉を荒げてしまった。

「じゃあね、浮気男。ママにでもしゃぶってもらえば」

 ベンツの扉が閉まり、車が走り去る。彗星が過ぎ去るように、あっという間に俺の自慢の彼女はいなくなってしまった。


 ——今まで演技してた……演技してた……演技……


 最後の言葉が頭の中でエコーする。

 気落ちして俯きながら、自分が住む豪邸へ足を運んだ。


 邸宅へと続く煉瓦の小道の両脇に、足元を照らすライトが転々と続く。彼女の言葉が何度も頭の中で再生される中、そのライトに導かれるようにゆっくりと歩みを進めていた。

 ふと、誰かの足元が目に入る。顔を上げると、クリーム色の髪色をした青年——兄さんがいた。本当の兄じゃない。俺が所属する組織の兄貴分だ。この豪邸は、組織のヘッドと数人の幹部や側近が同居するアジトでもある。俺達は表向き実業家だが、闇組織ルーベンノ・ファミリーであることは、この界隈では有名だ。

 俺も一つ年上の彼も、二十代になったばかり。若いが、いずれは二人ともボスの座を継ぐであろうアンダーボスだ。俺に比べれば大したことはないが、彼も顔は良い。性格はかなり異なる。

 明らかに自分に用があって来たであろう彼の第一声を遮って、俺は叫びながら駆け寄った。


「兄さん! たった今マリアに振られた!」

「それがどうした」

 これまで短期間に代わる代わる違う女を連れ込んできた俺の習慣のせいで、もはや振られたくらいで同情は買えない。

「あのルックスといいボディといい、あんな良い女にもう出会えないよ! あんたも見てるだろ?」

「あの、あからさまなシリコンの胸が?」

「シリコンの何が悪い!」


 彼は軽く肩をすくめた。この辺りに好みの差が出ている。


「まあ、そもそも俺が名前を呼び間違えたせいなんだけど、そんなことで怒って帰る? その前にドラッグやりたいって言ってくるから断ったことも関係あるのかな。良いセックスだと思ってたのに、あっちは物足りなかったみたいだし。良いと思ってたのは俺だけなの? 何より俺はイケメンだし金もあるしテクも上手い、どこが足りないって言うんだ?」


 動揺のあまりつい早口で捲し立てる。

「足りないのはお前の頭だ、安心しろ」

 兄さんは励ますように肩を組んでポンポンと叩く。そのまま邸宅の玄関へ向かって歩いた。


「行くぞ、今から例の件についてパパと打ち合わせだ。……でもその前に、それは何とかしろよ。ジルもいるんだから」


 兄さんの視線は俺の股間を指している。見下ろすと、スイムウエアの下で"息子"が突っ立っているのがはっきりと分かる。確かに、清らかなる我等が妹、ジルには見せたくない。ジルはヘッドが身の回りの世話をさせるために側に置いている女の子で、俺達にとっては妹同然だ。


「ああくそ! マリアのこと思い出したらまた元気に……! 何か逆のこと考えないと」

 目を閉じて考える。

「顧問の爺さん達が全員でサウナに入ってるところを想像した。……もう大丈夫」


 気を取り直して俺達は屋敷へ戻って行った。



 ここ東ヨーロッパに位置するアジャルクシャン連邦共和国には、昔から闇組織が蔓延ってきた。国は何度も物資不足と飢餓に見舞われ、弱者への救済などなく、国民の不満は溜まる一方だった。その不満につけ入るように、闇のマーケットが繁栄してきた。そしてソビエト崩壊後、自由な市場経済の中で闇組織は勢いを増し、社会の至る所にまで入り込んでいる。

 アジャルクシャン連邦は五つの地域で構成されるが、ルーベンノファミリーはそのうちの一つ、キベルジア共和国に拠点を置いている。

 俺達にとって組織は、国の欠けた部分を補い国民の不満を埋める存在でもあった。孤児だった俺は毎日が凍死と餓死と隣り合わせだったが、命を繋いでくれたのは、ルーベンノファミリーが提供するシェルターとヤミ輸入による食料の配給だった。だから俺は今ルーベンノファミリーにいる。いつか俺達こそが光になると信じて。


 ヘッド——俺達はパパと呼んでいる——との打ち合わせ内容はこうだ。実は最近、新興勢力として名を馳せている外国の組織、ディアマンテ・ローザからコンタクトがあった。

 俺達は南米のカルテルと直接の繋がりがなく、いつもロシアンマフィアから南米産のコカインを仕入れていたのだが、ディアマンテ・ローザは彼等よりも一割安い価格でコカインを卸すと言う。上手い話ではあるが、ディアマンテ・ローザについては情報が乏しい。まずは関係を深め、信頼できる相手か見極めなくてはならない。


「私達は純度98%以上のコカインしか仕入れない。安いからと言って、純度の低い粗悪品をつかまされては困る」

 パパが膝上のペルシャ猫を撫でながら言う。

「ごもっともです」

「最初の商談の方法が決まった。再来週、ノリフで開かれるパーティーに支部の代表が出席するらしい。会うには絶好の機会だろう、ヤコフ」 


 再来週、アジャルクシャンの首都ノリフで、政財界の有力者が大勢集まる独立記念パーティーが開かれる。他の闇組織のボスも出席するし、元々俺は出席を予定していた。


「接触の目印として、先方は互いに”ミッドナイトブルー”を身に着けることを提案してきた。接触の際のキーワードは”バレエ”だ」

「構いません。向こうは俺を知っているんですか?」

「ああ。お前のことは情報収集済みだった。お前は相手からの接触を待っていれば良い」


 俺の顔が知られているのは無理もない。何しろ表ではビジネスマンとして、顔と本名を堂々と出しているのだから。


「支部代表の名はロリータ。私もその者に直接会ってはいない。彼女の表の顔も名前も、新興勢力ゆえに明らかになっていない」

「初めての商談ですからね、失礼のないよう気は配りますよ」


 無事に会えたとしても、彼女の表の顔を詮索しないこと、裏の顔が明るみにならないよう気遣うのが礼儀というものだ。


「他の組織がまだこの商談を嗅ぎ付けていないといいがな。知られては何かと面倒だ。ノア、目を光らせておけ」

「はい」


 ノアとは兄さんのこと。

 打ち合わせを終え、一杯のウォッカを引っ掛けるためにキッチンへ向かう。

 それにしても、ロリータにバレエ、随分とファンシーなキーワードだ。

 ディアマンテ・ローザについては一つ分かっている大きな特徴がある。それは、”女だけ”で構成されるマフィアだということだ。


 ロリータ——想像もつかないけど、いったいどんな女性なんだろう。

 ロリータ——俺の光、下半身を燃やす炎。俺の罪、俺の魂。ロ、リー、タ。舌先が歯の内側を三歩踏み、はじく。ロ、リー、タ。

 彼女は時にローと名乗るかもしれない。時にはローラ、時にはドリー、時にはドロレスかもしれない。でも俺の目の前では、間違いなくロリータでいるだろう。

 

 ——案外十代くらいのすげー可愛い子だったりして。


 と、あり得ない妄想が膨らんでいく。


 豪邸はキッチンも広い。木材をあしらった壁に、大理石の天板。調理場は部屋を囲むようにコの字型に配置されていて、大人数分の調理も楽々だ。今は薄暗い。

 棚から瓶を取り出し、グラスに注いで立ったまま飲み干す。飲む理由は、マリアのことを忘れるためだ。

 そのシンクの足元に、白い毛玉がうごめいているのを発見した。無数のダイヤモンドがあしらわれた首輪が光る。先ほどまでパパの膝上にいた猫、アイシャだ。俺の顔を見ると「ミ゛ャー」とダミ声で、空の餌箱を前足で差し出してくる。

「もう食べたんだろ。ジルが毎晩決まった時間に餌をあげてるの、俺は知ってるぞ」

 アイシャが鳴くのを無視して二杯目を注いだ。

「ミ゛ャー。……ミ゛ャーミ゛ャーミ゛ャーミ゛ャー」

「うるせえ」

「ミ゛ャーーー!」

 アイシャはテーブルの上に飛び乗り、あろうことか俺のグラスを床に叩き落とした。ウォッカの入ったグラスは音を立てて砕けた。

「な、何すんだよこのbi*chが!」

 この信じられない暴挙に憤慨するも、アイシャは何食わぬ顔だ。


「おいおい俺のボス気取りか? 舐めた態度とってんじゃねえぞ。さっきもパパの膝の上で偉そうにしやがって! いいか、俺が忠誠を誓ったのはパパだ。お前じゃない。パパのお気に入りだからって調子に乗るとどうなるか」


「その辺にしてあげて、ヤコフ」

 背後からカナリヤのように清らかな声がした。助け舟を此れ幸いと、俺の横をすり抜けて逃げ出すアイシャ。

「貴方が飲み過ぎないようにって忠告してくれたのよ」

 ジルがクスクスと笑っている。ギリシャ彫刻のような顔立ちに、エメラルドグリーンの瞳をした比類なき美少女。ただし、ボスが娘のように可愛がっている彼女に手を出そうなんて命知らずは、この組織にはいない。

「いやいやジル、絶対こいつは俺のこと馬鹿にしてる」

 そう言いつつ、ジルの前では汚い言葉を使うのがはばかられる。口を噤むしかなかった。

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