海月の光はもう届かない
位月 傘
☆
「こんばんは、人魚さん」
「やっほぉ、二本足ちゃん」
私には無い尾びれで水面をばしゃんと叩く彼は、玩具でも見つけたかのようににぃっと笑った。暗闇の砂浜に足を取られながら波打ち際へ近づく。すっかり夜のとばりは落ちているというのに、いつもここは月明りで不自然なほど照らされていたから彼の姿はすぐに見つけることが出来た。
水面から顔だけ出したこの人魚としか形容のできない男と知り合ったのは偶然であり、一目で恋に落ちるようなドラマチックな出会いがあったわけでもない。なんとなく寝付けなくて散歩をしていたら、彼はまるで私を待ち受けるように海から私を瞳で射抜いてきた。
断じて運命などではない。だがこの時の奇妙な高揚感を――今思えばただの恐怖心だったのかもしれないが――忘れることは、きっと一生ないのだろう。
息を止めて立ちすくむ私のことなど気にも留めないように、彼はいっそ恐ろしくなるほど美しい笑みを湛えて、凡庸な言葉を吐いた。
「はじめまして」
「あ、なたは」
「あはは、怖い?それとも見惚れちゃった?」
月明りがそのまま溶け込んだような金の瞳が弧を描く。思わず腰を抜かしてへたり込むと、彼は心底愉快そうに声をあげて笑った。これがこの笑うと存外子供っぽい人魚との出会いだった。
それからほぼ毎晩、引き寄せられるようにこの場所にやってきている。彼はいつもここで、まるで待ち構えていたかのようにそこにいた。お互いの名前も知らないし、どうしていつもここに居るのかとか、そんな馬鹿げた質問はしたことがなかった。思い入れも何もないこの人魚との会話は、知らず知らずのうちに心の拠り所のようなものになっていたのかもしれない。
「ねぇ、二本足ちゃん、どうしてここに来たの?」
「……うーん、なんとなく眠れないから散歩に」
「へぇ、あ、またなんか持ってきた?」
「飴ならあるよ」
ポケットを探って友人からもらった飴をそのまま海に向かって放り投げる。彼はなんなくそれを掴むと、包装をぽいと海に捨てて中身を口の中に放り込んだ。気に入っているのかいないのか分からない顔で、彼は海を漂っている。海から出している顔や時折見える上半身はどこからどう見ても人間のそれだが、何を想ってか静寂を切るように水面を叩く存外長い尾が全てを否定する。
「ずっと思っていたんだけど、水の中で生きてるのに陸でも呼吸できるの?」
「出来るよ、なんでか教えて欲しい?」
無言でうなずくと、彼はまた楽しそうな、どこか加虐的な微笑みを浮かべながら水面を叩いて揺らした。彼はいつだって何が楽しいのか笑っていた。声をあげるほどのものは、数回しか見たことがないけれど、いつだって声は楽し気だった。
「また明日、来たら教えてあげるよ」
「……別に、教えてくれなくても会いに行くけど」
「あは、そう?でも俺が覚えてたら教えてあげる」
「それはどうも」
手持ち無沙汰になってポケットを探るが、当たり前の様に何もなかった。相変わらず月明りがスポットライトの様に照らすこの海はまるで演劇の舞台のようであったけれど、誰に見られている訳でもないのでそのまま砂浜に座り込んだ。
静かな夜に会話する分には特に問題はないが、彼と私の物理的な距離は友人と呼ぶにはいささか離れた位置にあった。海から出れない彼と、陸を生きる私なので当然といえば当然だ。それでも少しでも近づきたくて海面の高さに体を近づける。
「貴方って、仲間とかいるの?」
「いないよ、俺はこの海で一人ぼっち」
「昔から?」
「そう、ずぅっと昔から」
それは随分と寂しくはないのか。そう口には出さなかったが、彼は私の考えを察しているかのように美しく微笑むだけだ。意味のない問いだ。少なくとも私にとっては、この時間に寂しさを覚えることなんてなかったのだから。
「もう帰るね。おやすみなさい、人魚さん」
「またねぇ、二本足ちゃん」
名残惜しいが立ち上がって砂を払う。歌うように告げられた声に、もしかして人魚なんかじゃなくてセイレーンの類なのではと時々思う。そうであれば夜な夜なこの場所へ向かってしまう事象にも説明がつくというものだ。
海に背を向けて砂に足を取られながら歩きだす。背中に視線をひしひしと感じて、なんだか笑ってしまいそうだった。最初の頃は勘違いかと思っていたが、彼はあの海から私の姿が見えなくなるまで、もしかしたら見えなくなっても私の背を見つめているのだろう。
それは間違いなく好意で、そしてきっとそれだけでもないのだろう。だから私は、この帰り道が一番むず痒くて、そしてなんだか恐ろしかった。
「こんばんは、人魚さん」
「あ、ホントに来たんだ二本足ちゃん」
「来るって約束しましたからね」
濡れないであろうぎりぎりのところで足を止めて座り込む。今日行かなかったら、もう二度と会えない気がしたのは間違いではないだろう。
本当に来たのかと言いながら、来ることが当然だという声音だった。ばしゃんと水面が揺れる。
「約束だもんねぇ、教えてあげようか」
「別に、いいんですよ」
彼は何をとは言わなかったし、私も何がとは言わなかった。ばしゃんとまた水面が音を立てる。細められた黄金色の瞳が私の姿を捕えた。たったそれだけだ。それだけで私は息の一つだって満足に吐けなくなってしまう。
「ねぇ、二本足ちゃん。俺の事手放したくないのに、本当にいいの?」
珍しく彼は砂浜ギリギリまで近づいてきて、上半身を水面から出す。ここまで近くで姿を見たのは初めてで、ついじっと見つめてしまう。正しく白魚の如き肌だが、貧弱という言葉とは正反対の体躯はただの人間風情には威圧的なものだった。
「二本足ちゃんは、俺と居るのが好きなんだもんねぇ?でも自分は受け入れてもらいたいのに、俺の事は受け入れたくないの?」
「わ、わたし」
「そんなに悩まなくたって大丈夫だよ、二本足ちゃん。結局二択なんだから」
ただの二択だなんて、良く言えたものだ。話を聞く聞かない、彼を受け入れる受け入れない、明日からここに来る来ない、これはそういったものの二択だ。
息が詰まる、頭が痛い、耳鳴りがする。私にとっての孤独とは総じてそういうものだった。苦しくて辛いもの。それが普通の事、いつもの事、ただの日常。
だから良く効く薬みたいなものが手に入ったとして、手放したくないのは当然の考えだ。たとえそれが毒であっても、強固な意志を持っているわけでもない私は、根本的な治療より一時的な逃避を願う。
「――教えて、貴方のこと」
「あは、いいよ」
あっさりと快諾され、止めていた息を吐く。ひとまずどうにかなったことに安堵する。明日からの事を考えるような余裕がある人間であれば、とっくにここに来てはいないだろう。
「俺はねぇ、ずぅっと昔に悪いことしたから天罰が下ったんだよ」
「元々人だったの?」
「さぁ?そもそも人間ってなに?足あること?鱗がないこと?陸で息をしていること?」
なんともコメントしづらい話だ。ここで議論するには私の知識も倫理観も足りないし、そもそも議論など彼は欲していない。
所詮彼にとって過去の話であり、特別苦い思い出でもないのだろう。ただやはりこの生き物は人とは違うものなのだろうなと改めて理解する。もしくは長い間独りで過ごしているとこうなってしまうのだろうか。
「なんで陸でも息が出来るのかなんて、俺は知らない。何回か陸のやつらに変なとこに連れて行かれて調べられたけど、なーんにもわかんなかったみたい。俺が陸で分かったのは俺みたいな姿のやつらが他にもいる事だけ」
相変わらず笑みを浮かべてはいるが、珍しく楽しくもなさそうな声音で彼は話していた。そして私は自分で尋ねておいてなんだが、彼の生態よりも別の事の方が気になっていた。
「他にもいるんだ、人魚って」
「目移りしないでね、二本足ちゃん。なんかそいつら海の底に居るらしいから、浅いところで彷徨ってる俺とは会ったことないけど」
「なんで貴方は深いところに行かないの?」
「あはは、二本足ちゃん、深海ってね、寒いんだよ。おまけに暗いし、そんなところで来るかもわかんない奴待つくらいなら、俺は陸で石投げられた方がマシだっただけ」
そこで初めて、私たちにとっての本題に触れた。彼にとっては友人とか家族とか仲間とか、そういうものは今重要じゃないのだろう。
孤独であるのかとは問わなかった。相変わらずはちみつ色の瞳は零れ落ちてしまいそうなほど溶けていた。どこまでも、この男は私と同じなのだろう。苦しみの果てにある安寧よりも、目の前にあるごちそうに飛びつく生き物だ。所詮傷のなめ合いだ。
獣のようだと言われてしまえばそうかもしれないけれど、真に獣であるならばこんなことにはなってはいない。
「俺の話はまた今度してあげる。明日は二本足ちゃんが話してね」
それだけ言うと初めて彼は私より先に海に潜って帰っていった。深海は暗くて寒いと言っていたけれど、それなら彼はどこまで深いところにいるのだろうか。それは私が掬い上げられるほどだろうか。
意味もなく海を見つめて、すぐに立ち上がって砂を払う。いつも通り背中に視線を感じて、思わず笑ってしまいそうだった。
「悪いことをしたって言ったけど、いったい何をやらかしたの?」
「えー、今日は二本足ちゃんの話聞こうと思ってたのに」
今日も今日とて月明りの下にやってきた。顔を合わせるようにしゃがみ込んで相槌を打つ。そんなことを言われたって、私には特別に話すような何かは無い。それに自分の話をするよりも、彼の話を聞く方がずっと面白いだろう。
私が彼の話を聞くのをためらったのは、彼の過去を知りたくなかったからではない。彼にとって昔の事なんて、私があげた飴くらいどうでもいいものなのだから。所詮雑談だ、天気の話みたいなものだ。そして私が真に恐ろしいのは、そのあとに続くであろう本題についてだった。
「盗んだんだよ、確か。誰かのものを。もうあんま覚えてねーけど」
「姿を変えられるくらいの怒りを買ったのに、覚えてないの?」
「怒りを買ったって言ってもさぁ、他人の逆鱗なんて触れてみなきゃわかんねーじゃん。多分俺には分かんないことで怒るやつだったんだよ」
ばしゃんと海面が揺れた。こんな会話、意味はないのだ。私がもっと深いところに手を伸ばしてしまうのが恐ろしいから、時間稼ぎをしているだけ。
いつまでたってもどっちつかずの自分は浅ましい。それでも無遠慮に手を伸ばすには得体が知れなくて、手放すにはあまりに惜しかった。
既に頷いてしまった今となっては、全て今更の話でしかないが。
「私の話は、明日話すよ」
「えー、まぁいいや」
言葉だけなら不満気なものだが、音はそうでもなかった。ばしゃんと海面が鳴る。そこで漸く、鈍感な私は気づいたのだ。あぁ、初めて会ったときからずっと、そちら側へ誘われていたのだと。
「こんばんは、人魚さん」
「こんばんは、二本足ちゃん」
今日は随分と離れたところに居るようだ。遠くて見えない、というほどではないけれど、いつもに比べたら少し声を張らないといけないかもしれない。もっとも、彼にそんな様子は無いが。
「私の話を、するんだっけ」
「そうそう、どうしてここに来たの?二本足ちゃん」
水面が異形のもので叩かれる。なんだか、この問答も今日が最後のような気がして、立ったまま靴を脱いだ。
境界に足を踏み入れる。湿った砂浜の上にある足元に、時折水が被る。夜の海は酷く冷たい。
「特別な意味はないの。ただ、そう、何となく寝付けなくて、そうなると夜は特に嫌な考えが、頭の中をぐるぐる回るから」
彼は何も言わずに微笑んでいる。こうしていると本当に、彼が人ではないのだと実感させられる。
ばしゃんと、音がする。こちらへおいでと手を叩く音だ。一歩踏み出す。足首の上まで波が私を攫う。寒い、しかしそれはいつものことだ。
「なんだか昔から、酷く渇いていて、どうしてか分からないけれど」
また一歩踏み出す。今度は膝のあたりまで海の中へ入った。服が濡れて肌に張り付く。気持ちが悪い、しかしそんなものはなんてことない。
ぽっかりと胸に穴が空く、とは不思議な言葉だ。それなら元々穴にあったはずのものは、いつどこに行ってしまったのだろう。無くなる瞬間に痛みはあるのだろうか、それとも穴なんて初めから存在していないのだろうか。
なにかが、私の中の何かが渇きはじめたのはいつからだろう。誰かに奪われている訳でも、自分で水を切っている訳でもない。ただ外界の光は着実に私の内を焦がした。だから穴が空いてしまったのかもしれない。
光に晒されて渇いたこれは、いつかきっと無残に崩れ去るのだろうと分かっていた。別にそれで構わなかった。だって水を求めて、結局見つからなかったら、疲弊するだけだ。それなら最初から、後で傷つくくらいなら最初から穏やかに諦めていたい。
水面を叩く耳なれた音が、不自然なほどに明るい月の下で響く。依然として彼は微笑んだまま、いや、むしろ一層笑みを深めて此方を見つめていた。黄金の瞳が煌く。もしかしたら、彼の瞳こそが月なのかもしれない。
「でも貴方に会ってから、なんだか――」
乾いたものは戻らない。一度割れてしまった花瓶は、つなぎ合わせても同じ価値はない。でもそれは、直さない理由にはならない。
足を一歩踏み出す。海面を叩く音は無かった。恐ろしいほどの静寂だ。ふと恐怖心が蘇ってしまいそうなほどに。
足を止める。今ならまだ戻れる。そう思った刹那、足に何かが巻き付き、海へ引きずり込まれる。思わずつんのめって水の中に全身が落ちると、足に巻き付いていたものがするりと上半身に回され、より強い力で海に、彼の所へ引き寄せられた。
無理やり引きずり込んだと思えば、足も着かないところまで来たら呆気なく拘束は解かれ、代わりにもっと暖かいものが私の体を固定する。思わず閉じていた瞼をあげると、金の双眸が私を捕えた。こんなに近くで彼を見たのは、初めてだった。
「二本足ちゃん、これ飲んで」
口の中に放りこまれたそれは硬質で、ともすれば口の中を傷つけてしまいそうだった。私は彼がそう言うから、迷わず飲み込んだ。痛みはない、寒さも無い。
「あは、二本足ちゃん、二本足じゃなくなっちゃったねぇ」
こんなに近くに居るのに、明確な形は分からなかった。もしかしたら見えているけれど、名前を知らないのかもしれない。ただもう、ほんとうに、今となってはどうでも良いことだ。結局逃げられないし、離れられない。それなら得体のしれないものでも、怯えるより受け入れたほうが楽だ。
彼は笑っていたし、私もなんだか声をあげて笑ってしまった。私にとって彼は海であり、彼にとって私は太陽だった。いつか私が渇ききって崩れ去らないように、彼が海の底で凍えて暗闇に吞まれないように。きっとそれだけのために、私たちは産まれてきたのだ。
海月の光はもう届かない 位月 傘 @sa__ra1258
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