夜の川で

「アレク様、気持ちいいですよっ」


 ティリスが無邪気にぱしゃぱしゃと翼で水を叩きながら、川の水を手ですくって、自らの顔に掛けている。

 月明りが僅かに水面とティリスの美しい肢体を照らしていた。角を生やし、蝙蝠の翼を持つ少女の水浴びは、まるで絵画のような美しさと儚さがあった。それと同時に決して覗き見てはいけない背徳感があって、彼女から慌てて視線を逸らして、自らの体を石鹸で洗う。ちなみに石鹸も隊商キャラバンからの寄贈品の中にあった。助かる。

 ティリスも俺も、もちろん一糸纏わぬ姿で川に入っている。彼女の肢体は散々見ているが、こういう環境になると、緊張するというか、何というか。見てはいけないものを見ている気持ちになってしまうのだ。

 ちなみにティリスは、普段は魔力を用いて体を自浄しているらしい。水浴びや石鹸などがなくても体を綺麗にできるそうだ。彼女の髪がいつでもさらさらで、いつでも良い匂いをしているのには、そういう裏があるらしい。もともとの体質的なものもあるのだろうが、なるほど、これはずるい。人族の女が聞いたら、おそらく全員が口を揃えてそう言うだろう。体臭を気にしなくていいなど、羨ましい限りだ。

 ただ、その自浄作用があれば、本来彼女に水浴びは必要ないはずである。ではなぜ今入っているかというと……多分、俺に付き合ってくれているのだ。川に着いてから、わざわざ服を洗うついでに、とよくわからない口実を作り、一緒に水浴びをすると言い出したのだ。

 何だかまた気を遣わせてしまったな、と少し後悔する。彼女は俺が気付いていないところで、常に俺に気遣っているのだ──と思っていたが、実際水浴びをしてみると、彼女の方が楽しそうだ。もしかすると、ただ水浴びをしてみたかっただけなのかもしれない。


「恥ずかしくないのか、お前は」


 彼女の方をちらりと見て訊いた。白い肌と濡れた銀髪が視界に入って、胸が高鳴った。


「……ほんとは、ちょっぴり恥ずかしいです」


 月明りが、ほんのり赤くなったティリスの顔を照らす。俺の視線に気付いた彼女は、はっとして両腕で自分の胸部を隠し、翼を前方に広げて自分の肢体を覆った。


「お前な、自分は翼で隠せるくせに、ずるいぞ」

「こ、これだって私の体ですからっ」


 言って、彼女は俺に背を向ける。

 全く……恥ずかしいなら、付き合わなくていいのに。

 小さく嘆息して、彼女がいる川の中央部に向かう。少しずつ川が深くなって、腹のあたりまで浸かった。さすがに夜の川は冷たい。


「寒くないのか?」

「私はそんなに……アレク様は寒いですか?」


 結構水は冷たいのに……もしかすると、魔族は体感温度の調整もできるのか? 


「水が冷たいからな」

「それでは……」


 ティリスがもぞもぞと水の中を動いて俺の前まで来たかと思うと、ぴとっと抱き着いてきた。そのまま彼女は背中に腕を回して、ぎゅっと抱き寄せてくる。彼女の体温だけでなく、柔らかい果実まで押し付けられていた。寒さからか、その果実の先端はいつもより少し硬くなっていた。

 その柔らかい果実を想像すると、別の意味でも一気に体が熱くなってしまう。ついでに顔も熱い。水の中で体をくっつけ合うと、どうしてこう、普段より変な気持ちになってしまうのだろうか。ティリスと肌を合わせるなど、もう珍しい事でも何でもないのに。


「どう、ですか?」


 銀髪の魔族が恥ずかしそうに訊いてくる。暗くてよく顔が見えなくても、彼女が顔を赤らめているのがうっすらわかった。きっと、普段より恥ずかしいのは彼女も同じなのだろう。


「ああ、暖かいよ。ありがとう」

「それなら……よかったです」


 彼女は俺をもっと引き寄せるように、両腕に力を込めた。俺もそれに応えるように、彼女の背中に両腕を回して、川の中で抱き締め合った。二人でくっつけると、確かに夜の川でも寒くない。


「ティリス」

「はい」


 名前を呼ぶと、彼女は顔を上げた。

 ほんのついさっき、この子が賊を一人で惨殺していたというのが信じられないくらい、そこには無垢で可愛らしい女の子が目の前にいる。

 水に濡れた銀髪と白い肌が彼女をいつもより艶やかに映していた。でも、紅く頬を染めて、恥ずかしそうにしているところからは幼さも感じ取れる。

 水面の月光を反射させて、紫紺の瞳はいつにも増してキラキラ光っていた。その瞳を見ているだけで、胸がきゅんと締め付けられ、苦しくなる。

 こんなに美しい娘が、どうして俺を求めてくれるのだろうか。どうして俺にここまでしてくれるのだろうか。

 はっきり言って、ティリスへの疑問は、多く残っている。ただ、彼女はそれを言おうとしない。彼女が言おうとしないのならば、訊くつもりはなかったのだが……一つだけ、確認しておきたい事があった。


「なあ……ティリス。一つ訊いていいか?」

「何ですか?」

「前に、『魔王にすら体を許さなかった』って言ってたけど……お前が追われてた理由って、それか?」


 勇気を出して訊いてみると、彼女は驚いたように顔を上げてから、慌ててまた顔を伏せた。表情を悟られたくないのか、俺を抱き寄せ、首元に顔を埋めている。

 そして、こくりと小さく頷いた。


「もちろんそれが全てではありませんけど……でも、それが発端だったのは、間違いありません」

「やっぱりか」

「でも、もういいんです」

「もういい、とは?」

「私は今、こうしてアレク様と出会えました。それだけでも幸せなのに、こうして抱き締めてくれています。もう、それだけでいいんです」


 私の望みはそれだけでしたから、とティリスは付け足して、鼻を啜った。


(もうこれ以上は訊かない方が良いんだろうな)


 何となくそれを察して、彼女の肩に腕を回して、力一杯に抱き締めてやる。もうそれ以上は言わなくていいよ、という意思を込めて。

 彼女もそれ以上は何も言わなかった。ただ、腕に込める力を少し強くして、俺を離さないよう、抱き締めていた。

 腕の力を緩めて、彼女の頬を手で覆う。潤んだ紫紺の瞳から、雫がはらりと零れた。その雫を指で拭ってから暫く無言で見つめ合って、どちらともなく目を閉じて顔を寄せ、唇を重ねた。

 夜の川の中で、月光に照らされながら、有翼の魔族と口付けを交わす……そんな、まるで何かの御伽話のような時間。

 ──このまま時間など止まってしまえば良いのに。

 そう思った時だった。


「くちゅんっ」


 可愛らしいくしゃみが聞こえてきた。目の前の上位魔神ティリスが、顔を赤くして鼻をこすっている。


「お前も冷えてるんじゃないか……もう出ようか」

「はい……」


 恥ずかしそうにはにかむ彼女を見て、やっぱり俺は、自らの心が安らぐのを感じるのだった。

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