方針と復讐


 明け方になるにつれ、気温がぐっと下がってきた。例え2人でくっついていると言っても、2人とも一糸まとわぬ姿のままである。思わず体をぶるっと震わせると、それに気づいた上位魔神ティリスが、その大きな片翼で俺を覆うように包んでくてた。蝙蝠のような翼は何だか変な感触ではあったが、そこには確かなあたたかみがあった。

 そして更に、そんな俺を守ろうとするように、彼女が両腕に力を入れ、ぎゅっと抱き締めてくれた。その体温と柔らかな肌の感触が、悔恨の傷を癒してくれるように感じた。


「アレク様は……どうしたいですか?」

「え?」


 俺が落ち着く頃を見計らっていたのか、彼女が唐突に訊いてきた。


「どうって?」

「その人達に復讐したいですか? それとも……もうどうでもいいですか?」

「それは……」


 復讐なんて、考えた事がなかった。自分には何の力もなくて、ただ明日どう生きるのかだけで頭が一杯だった。

 でも、今の俺は違う。今の俺には──上位魔神ティリスがいる。


「私個人としては……その人達を赦せそうにありません。アレク様がそうしてずっと苦しんでいたのかと思うと、今にも四肢を引き裂いてやりたい気持ちになります。でも、それは私の個人的な感情なので、ご主人様マスターが望まないのであれば」


 私は何も言いません、と銀髪の彼女は付け加えた。

 俺の事で怒ってくれる人が身近にいると思うと、それだけで気が楽になった。それと同時に、どうして俺がこんな想いをしなければならなかったのだろう、という気持ちにももちろんなる。

 勇者マルスさえいなければ、俺達は平穏に暮らせていたはずなのに。きっと、お金が貯まればシエルと二人で店を出して、それなりに平和に人生を全うしていたはずなのに。

 しかし、その未来はもう途絶えてしまった。今の俺に残ったものは、勇者達から与えられた数多の悔恨と、シエルに裏切られ捨てられたどうしようもない喪失感だった。

 俺の生活が壊れた全ての元凶は……間違いなく勇者マルスにある。俺が未来を全て失ったように、あいつの未来も奪ってやりたい、壊してやりたい──そう思わなくもなかった。

 本来の俺は、例えどれだけそう願っていても、復讐する力などなかった。きっとどこかで野垂れ死ぬか、死ぬまで敗北感に打ちひしがれて卑屈に生きるか、そのどちらかだっただろう。

 でも、もし、それが叶うなら──


「なあ、ティリス……もし、俺が復讐したいと思ったとしても、力を貸してくれるか?」


 女を寝取られて嫌がらせをされた復讐だなんて、自分でも器の小さい男だなと思う。それでも俺は、あの苦痛が忘れられなかった。

 これから勇者マルスの活躍を聞くたびに嫌な思いをするだろう。毎回その名を聞く度に、俺はその敗北感と屈辱を思い出すだろう。それを死ぬまで続けろというのか。

 それは嫌だった。例え矮小な存在だと言われても……このまま引き下がれるほど、俺は聖人ではなかった。


「もちろんです、ご主人様マスター。私は、ご主人様マスターのサーヴァントなのですから」


 何でもお申し付け下さい、と銀髪の美しいサーヴァントはにこりと微笑み、俺の手を両手で取った。そしてその手を胸の前まで持っていく。

 彼女の胸からは、人族と同じく、とくんとくん、と鼓動が伝わってきた。角や翼があるからといって、何も変わらない。


「もし、ご主人様マスターが望むのであれば、私はこの力をご主人様マスターの為に全て用います。勇者達を滅ぼせと言うのであれば、喜んで滅ぼします。彼らに呪いを与えよというのであれば、生きているのが嫌になるような呪いを与えます」


 ティリスは俺の手を握り、その宝玉のように美しい紫紺の瞳で、しっかりと俺を見据えた。


「私はアレク様の為なら……なんだってしますから。だから、アレク様のしたい事だけ言って下さい」


 そう言うと、まるで女神のような優しい微笑を俺に向けてくれた。

 魔族なのに、魔神なのに、全くその種族に見合わないほど美しい笑みだった。胸が締め付けられて、俺が独りではないと教えてくれる、優しく慈愛に満ちた微笑み。

 彼女に与えた名を呟いて、自身の額を彼女の額にこつりとぶつけた。さっきとは違う涙が流れそうになったからだ。

 出会ったばかりの俺に全てを差し出して、こうまで言ってくれる。彼女がいなければ、きっと俺の心は孤独と悲しみで潰れていたのかもしれない。

 でも、ティリスがいる。それだけで俺は心強くなれた。自分にも自信が持てたような気がした。きっとそれは、彼女が俺の存在そのものを認めてくれているように感じるからだ。


「あいつから、全部を略奪したい。俺がやられたのと同じように。一緒に手伝ってくれるか?」

「はい、もちろんです」


 ティリスは俺の願いを聞くと、嬉しそうに頷いた。

 今ぱっと思いついた事だ。勇者マルスを、一人にする。俺と同じように、全てを失い、孤独を味わせる。あいつから全てを奪えたら、きっと俺の心は満たされるだろう。

 勇者マルスのパーティーは、シエルの他にも、剣聖・賢者・聖女に選ばれた三人の絶世の美女で構成されている。剣聖ルネリーデ、賢者アルテナ、聖女ラトレイア……三人とも人族の中ではトップクラスの才能を持つ女達だ。彼らならば、本当に魔王を討伐できるのではないかとルンベルク王国中から期待されている。

 だが、この女達もシエルと同じくマルスの情婦だ。それだけならまだしも、聖女ラトレイアはマルスと一緒になって特に俺の事を虐げてきた。剣聖ルネリーデと賢者アルテナはそれほどではなかったが、彼女達も俺を助けようとはしなかった。見て見ぬふりをしていたのだ。俺が使えない奴だと思っていたのは彼女達も変わりないだろう。

 そんな彼女達を、勇者から引き剥がす。勇者はたった独り、孤独になるのだ。マルスに己の無力さを思い知らせる──きっとその時、俺は初めて勇者から味わった屈辱から解放されるのだ。


(勇者に復讐する、か。何もなかった雑魚テイマーのこの俺が? 全く、酷い冗談だ)


 俺は自分の中で芽生えた感情に自嘲の笑みを浮かべた。

 それと同時に、今まで奴らにやられた事が脳裏で蘇ってくる。散々奴隷のように扱われた。情事の後掃除もさせられた。そしてシエルを奪われ、その嬌声を毎晩聞かされた。

 気が狂いそうな日々を送っていた。あの日々を思い出すと、何もなかった、では済ませられない。


「私はアレク様のサーヴァントです。ご主人様マスターの望みの為なら、なんでもします」


 ティリスは俺を優しく抱き寄せてから、続けた。


「私が乗り込んで一掃してもいいですけど……でも、きっと一人一人剥がしていく方が、勇者の心には傷を負わせられるかもしれませんね」

「だな……それでいこうか」


 無力感を徐々に味わわせるのであれば、それが良いだろう。


「そうとなれば、誰から行こうかな」

「私はその方々の事はわかりませんけど、要と思われるのは聖女ではないでしょうか?」

「……確かに」


 聖女ラトレイアは性格こそ最悪だが、回復師・強化術師としてはルンベルク王国内で他の追随を許さない。彼女の治癒魔法ヒール強化魔法エンハンスがなくなっただけで、勇者のパーティーは大幅に戦力ダウンするだろう。また、聖女の代わりを国内で見つけるのはおそらく難しい。聖女ラトレイアとは、それほどの逸材なのだ。


「そうだな……聖女ラトレイア。聖女のくせに、真っ先に勇者の正妻気取って俺に散々嫌がらせをしてきた馬糞まぐそ女だ。まずはあいつからいこうか」


 俺に頼み事をされたのが嬉しかったのか、彼女は俺の額にキスをして、「わかりました」と微笑んだ。


「あと、ティリス……もう一個だけお願いがあるんだけど」

「なんですか?」

「……もうちょっとこうしてていいか?」


 照れを隠すように顔を伏せると、そのまま彼女の胸に顔を押し付けた。


「はい……もちろんです」


 ティリスは優しく頷いて俺を抱き寄せると、さっきと同じように、ゆっくりと頭を撫でた。

 彼女の鼓動を聴いていると、それだけで心が落ち着ていくる。こんなにも心地よい眠気に襲われたのは、いつ以来だろうか。

 まるで寝かしつけられる子供のような童心を自らに抱きつつ……そのまま彼女の胸の中で、睡魔の底にいざなわれていった。

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