美しい魔神が舞い降りた夜

 夜更けになった頃、そろそろ眠ろうかと思った時だ。

 彼女は空から唐突に舞い降りてきた。

 その姿を見た瞬間、俺は震えあがって腰を抜かした。彼女はここにいてはいけない存在だったのだ。

 そこには、銀色の髪に、山羊のような角と蝙蝠のような大きな翼を持つ女がいた。紫紺の綺麗な瞳に、白く美しい肌 。そして、体の細さも相まってか、服の上からでも十分わかるほど、小ぶりながも形の整った双丘がその存在を誇示している。

 この世のものとは思えない美貌、とでも言えようか。彼女は悪魔的な美しさを持ち合わせていた。

 魔族と思わしき女は黒い薄手のローブを靡かせて、俺の前に降り立った。

 角と翼を持つ人型の魔物など、俺は一種類しか知らない。

 ──魔神デーモンだ。彼女は弱い俺でもわかるほど、強い魔力に覆われていた。おそらく、上位魔神グレーターデーモンか、はたまた魔神将アークデーモン……少なくとも、下位魔神レッサーデーモンの比ではない。

 彼女が近寄ってきて、死を覚悟した瞬間……なぜか、俺は彼女に抱き締められていた。

 そして、彼女は俺の耳元で、呟くようにこう言った。


「やっと……見つけた」


 泣きそうな声だった。

 まるで、何年も会っていない恋人を見つけたかのような、そんな喜びと感動に満ちた声。


「お願い……助けて」


 彼女はそう懇願するように言って──俺に口付けてきた。

 全く状況など理解できない。これで理解できたら、俺は占い師にでも転職したほうが良いだろう。

 状況は全くわからなかったが、俺は彼女が纏う匂いを懐かしいと感じていた。どうしてかはわからない。彼女と口付けていると、俺まで涙が流れていた。

 そして、美しい銀髪の魔神もまた、涙を流していた。

 俺達はしばらくの間、互いに涙を流しながら、唇を重ねていた。

 唇を離すと、彼女はハッとして恥ずかしそうに俯いていた。

 今更ながら、俺も──例え魔物とは言え──こんなに美しい女性とキスしていたという事実を認識して、一気に恥ずかしくなる。唇を重ねていた時に感じた謎の懐かしさや悲しさは、もうない。

 どうしていいのか黙っていると、彼女はゆっくりと顔をあげて、恥ずかしそうに微笑んだ。


「あなたの……お名前を教えて下さい」


 俺の〝今の〟名前とはどういう事だろうか。


「……俺はアレク。悪いが、俺は生まれてこの方ずっとこの名前で生きてきた。この名前しか知らない」


 そう答えると、彼女は「ですよね」と口を隠して上品に笑った。

 魔族でも貴族などの階級があるのだろうか。この魔神の仕草からは、気品が感じられた。


「アレク様は……テイマーですよね?」


 彼女はいきなり俺を様付けで呼び、職業を言い当ててきた。


「テイマーなのは間違いないが……どうしてそれを?」


 今、俺の周りには俺をテイマーと証明するものがなにもない。彼女がそれを見抜けるわけがないのだ。


「わかりますよ。それだけ色香を放っていれば。きっと、凄く高位なテイマーなのでしょうね」


 色香? 高位なテイマー? この女は何を言っているのだろうか。全く理解できなかった。


「待ってくれ。何を言っているのかわからない。俺がテイマーである事には変わりないが、俺はこの世界で最も下位と言ってもいいほど、ダメなテイマーなんだ。せいぜい俺と契約を結ぶのは、スライム程度だ」


 彼女が何を思って俺を高位なテイマーと言ったのかはわからないが、正直に話した。ただ、こうして上位、いや、支配者クラスの魔神と世間話をしている事それ自体が信じられない。

 それに、さっきキスまでしてしまったし……これは何か? 魔神が人を殺す前にする儀式なのか?


「そうなんですか? 私の目には、全くそうは映りませんけど」


 魔神は、まるで町娘のように愛らしく笑い、首を傾げた。


「アレク様、あなたは最高位のテイマーです。それは私が保証します。だって、私はあなたの……この香りを辿って、ようやくここまで辿り着けたんですから」 


 彼女は言いながら身を乗り出し、まだ腰が抜けたままの俺に、鼻先が触れるのではないかと思うほど顔を近づけて、すんすんと鼻を鳴らす。


「……狂っちゃいそうなくらい、とっても良い匂いです」


 美しい魔神は頬を染めて、そう言った。

 彼女の吐息が頬に当たって、一気に心臓がどきりと跳ね上がる。彼女は俺をとても良い匂いだと言うが、人間の女なんかよりも、彼女の方が遥かに良い匂いだ。

 いくら女だと言っても、初対面で、しかも魔神だと言うのに、それで劣情を掻き立てられてしまっている。


「い、意味がわからないぞ……何を言っているんだ」

「わかるものはわかるんです」

「どうして」

「だってあなたは……上位魔神グレーターデーモンの私でさえも、従える事ができるからです」


 そんなバカな。殺す前に冗談を言っているのだとしか思えない。

 そして、やはり彼女は魔族の中でも支配者級の上級種族……上位魔神グレーターデーモンだった。普通の冒険者が会える魔物ではない。

 それに、俺が上位魔神グレーターデーモンを仲間にできるならば、俺は今までテイムに失敗しなかっただろうし、マルスからもパーティを追放されなかったはずだ。

 俺はスライムより少し強いゴブリンですら仲間にできなかった。こんな俺が、魔王直属の配下と言っても良いような上位魔神グレーターデーモンを従える事ができる? 冗談にもほどがある。


「ああ、でも……そうですね。確かに、普通のやり方をしていては、無理だと思います」

「なんだと……?」


 普通のやり方? 普通に倒して、力で圧倒して、認めてもらって契約するのではないのか?

 それ以外の方法を俺は職業ギルドでも聞いた事がなかった。職業ギルドとは、その職業について教えてもらったり働き口を斡旋してもらう場所だ。とは言え、ルブローデの職業ギルドには、テイマーは俺とギルドマスター以外にいなかったのだが。


「アレク様は、特定の魔物に対して、特定の方法を用いてしか、従えられないんです」

「どういう、事だ? 特定の魔物で特定の方法だって? それは何なんだ?」


 それを訊いた時、銀髪の魔族は、少し恥ずかしそうに視線を逸らして、言った。


「あなたは……女性の魔物しか従えられないんです」


 そして、美しい上位魔神グレーターデーモンが次に言った言葉に、俺は耳を疑った。


「そして方法は、その魔物と一儀に及ぶ事……その、体を交える事、です」

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