第20話 優樹菜の過去①

 市民プールからの帰り道。

 時間的には午後十二時過ぎだろうか。

 今日は久しぶりの晴天で日差しが強い。そのためか、ジリジリとした暑さが襲い、プールに入った後なのにもう汗をかいてしまっている。

 これじゃあ、帰ったらすぐにシャワーを浴びないといけないな。

 まぁ、市民プールとはいえども、何が混入しているかわからない。だから、汗をかいてなくてもそのつもりではあったけど……。


「今日はありがとな。おかげでほとんど泳げるようになったよ」


 サウナの後は、再び優樹菜にいろいろな泳ぎ方を教えてもらった。

 その結果、金槌だった俺がたったの数時間で平泳ぎやバタフライといった泳ぎを取得することができた。

 このことについて正直、自分ですら驚いているレベル。

 長年、泳げないことに対して諦め掛けていたのに優樹菜の指導でここまで出来るようになれるとは想像すらしていなかった。

 やはり優樹菜の指導力はすごい。本当に学校の先生など指導する立場に将来なった方がいいかもしれない。

 そんな優樹菜はどこかくすぐったそうな表情をする。


「い、いえ、お兄ちゃんにもともと才能があっただけです。私は本当に何もしてませんから」


 そう言いつつも、前髪をちりちりといじり始める優樹菜。

 この仕草をした時は、大抵嬉しい時だ。

 俺はそんな優樹菜のことを微笑ましい目で見る。

しっとりと濡れた髪と時折見え隠れするうなじがとても艶かしい。

 そんな煩悩を俺は振り払うかのように目線を前に戻した。

 もうすぐで家に到着する。

 そう思っていると、自宅の前に見知らぬ男性が立っているのが見えた。

 年齢は四十代くらいで身長は俺より少し高く、スポーツ刈りでいかつい顔つき。

 服装は上下黒のジャージ姿でサンダルを履いている。

 両手をポケットに突っ込みながら、俺の家をじっと凝視……風貌的にはちょい悪みたいだが、全体を見ると、不審者そのものだった。

 一瞬、親父か母さんのお客さんだろうかとも考えたのだが、それならそれでなぜインターホンを押そうとしないのかというところに疑問が出てくる。

 俺は大体三十メートルのところで足を止めた。


「お兄ちゃん、どうしたの?」


 優樹菜も足を止め、俺が視線を向けている方向を見る。

 すると、なぜかすぐさまに俺の背中に隠れた。

 ――何かあったのか?

 優樹菜は俺のTシャツをギュッとシワができるほどに掴んでいる。その手は小刻みに震え、怯えていることが容易にわかった。


「おっ、優樹菜じゃないか! 久しぶりだなぁ!」


 男が俺たちに気がつくと、近づいてきた。

 俺は警戒態勢に入る。優樹菜の様子を見る限りでは、この男と何かあったことは間違いないはずだ。

 それがもし過去の出来事で、優樹菜の表情を奪った人物であるのならばなおさらこいつを近づかせるわけにはいかない。


「あの、俺の妹に何か用ですか?」


 俺は割って入ることにした。

 本当ならここから走って逃げた方が賢明だと思う。

 が、優樹菜を連れて逃げ切れるかと問われると、それは無理だろう。


「アァ? 誰だテメェ? 優樹菜には兄なんていねーぞ?」


 眉間にしわを寄せ、上から見下してくる。

 俺はその圧倒的な迫力に少し体を後退させてしまう。


「お、俺は……義理の兄だ」

「義理? あー。あいつ再婚したんだったな。忘れてたわ」

「そ、それで優樹菜に何の用なんですか?」


 俺は声を冷たくして、男を睨みつける。

 が、この男からしてみれば、俺の精一杯な警戒なんて通用しない。

 嫌な笑みを浮かべながら、舐め回すような目つきで優樹菜を見つめる。


「そうだなァ。今日のところはとりあえず様子を見にきただけだからなァ。用っていうもんじゃない」


 男はそれだけを言うと、踵を返し、俺たちの元から去って行く。


「優樹菜、また会おうな。いつか一緒に暮らせるまで」


 べっとりと耳に張り付くような笑い声を上げながら、男の姿はやがて見えなくなった。

 優樹菜は相変わらず、俺の背中に隠れたまま、体を密着させている。

 そのためか、震えがまだ治っていないのが直でわかった。


「とりあえず……中に入ろう」


 まずは優樹菜を落ち着かせなければならない。

 一番安全な家の中に入って、落ち着くまで待とう。

 それからあの男が誰なのかを聞けばいい。

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