ⅩⅢ

 ポップコーンを消費し終わる頃にはすっかり陽が傾き、空は水色と橙のグラデーションを成していた。自動ドアが開くと、生温い風が押し寄せてくる。昼間の暑さが幾分か和らいだのは助かるが、息苦しくなるような纏わりつくような湿った空気は、それはそれで不快だった。

「ねえ、なんか人多くない?」

 駅も目前という頃、ソラがふと口を開く。駅に流れていく人の数は、心なしか来た時よりも多い気がする。しかもよく見てみると集団の中に浴衣を着ている人が目立つ。

「あー…花火大会、今日だったっけ」

 夏のメインイベントと言っても過言ではないだろう花火大会。毎年自宅からそう遠くない距離で行われているが、今年は行く気もなかったのですっかり忘れていた。

「花火大会かー、絶対電車混んでるね…」

 露骨に嫌そうな顔をしたソラの懸念通り、駅のホームも電車内も浴衣を纏った人々で混み合っていた。行きよりは空いていることを心のどこかで期待していたが、寧ろ圧迫感が増している気がする。鮨詰めとまでは行かなくとも四方を人に囲まれた空間では外の景色を眺める余裕もない。

 酷く長く感じた十数分の乗車時間を経て最寄駅へと降り立つと、花火大会の会場へと向かう人々を誘導するアナウンスが駅中に響き渡っていた。とりあえずもう少し静かな場所へ、と駅を出て待ち合わせ場所にしていた広場の辺りまで歩くと、前から見知った姿が歩いてくるのが見えた。

「あれ、優太。てかやっぱお前ら付き合ってるんじゃん!」

 僕たちに気づいたらしい修也が驚いたように声を上げる。隣にいる女子が彼女だろうか。修也はラフな格好をしているが、隣の女子が浴衣を着ているのをみると、花火大会に向かうのだろう。

「いや、ただの友達だよ」

 少なくともお互いにそういった感情はないのだ。言ったところでどうせ都合のいいように解釈されるのだろうが、一応否定しておく。

「隠さなくていいって、あ、俺の彼女のゆいな。唯、こいつが優太」

「1組の人だよね?2組の五十嵐いがらし唯です、よろしく!」

 浴衣姿の女子が眩しいほどの笑顔を見せる。活発そうな姿が修也とお似合いだと思った。

「佐川優太、よろしく」

「唯ちゃんと田中くん付き合ってたんだ!?」

 どうやら知り合いだったらしいソラは驚いた表情をしている。照れたように笑う修也の彼女にこれが恋する乙女というやつか、と一人納得した。

「お前らも花火見るんだろ?どうせなら一緒に行こうぜ」

「いや、もう解散するとこだ」

 たとえ目的が花火大会だったとしても付き合いたてホヤホヤのカップルの邪魔はしたくない。

「えー!折角だしダブルデートしようよ!」

「お、いいじゃんダブルデート」

 ソラと女子同士の話に花を咲かせていたはずの五十嵐唯が無邪気に恐ろしいことを言い出した。修也もやたらと乗り気である。これ以上誤解を受けるのは避けたいし、昼間の暑さのせいで大分体力を消耗しているので正直帰りたかった。どう言い訳をしてこの場を離れようかと考えを巡らせていると、ふいにソラが口を開く。

「あんず飴あるかな」

「え?」

 さっきあれだけポップコーンを食べたばかりなのにもう食べ物のことを考えているのか。

「あるよ!屋台いっぱい出てるし絶対ある!ほらいこ、決定!」

「よし、はぐれるなよー」

 何を言い出すんだという目でソラを見ているうちに僕達の花火大会参戦が決定してしまっていた。拒否の言葉を発する間もなく、花火に心躍らせるカップルは背中を向けて人の流れる方へと歩いていく。

「優太?置いてくよ?」

 不思議そうに僕を見るソラにため息が漏れる。いっそ置いていってくれとさえ思うが、一人だけ帰るわけにもいかなくなってしまったので、『花火大会に行ってくる』とだけ親にLINEを飛ばし二人の後を追いかけた。


「うわ〜、やっぱ混んでるね〜」

「座るとことかは探せそうにねえな」

 駅から続く人混みはメインの会場が近づくにつれてその密度を増していき、会場は朝から陣取りをしていたのだろう人々のビニールシートがびっしりと敷き詰められていた。

「空ちゃん屋台あっちにでてるみたいだよ!」

 五十嵐唯の指の先では、少し開けた場所にカラフルな屋根の屋台が立ち並んでいる。。人波に流されないように固まって向かうと、屋台の群れは思っていたよりもずっと先まで続いていて、焼きそばやお好み焼き、チョコバナナなどの定番メニューから、金魚すくいなどの屋台までもが出ているようだった。

「私あんず飴買ってくるね」

 いち早く目当ての屋台を見つけたらしいソラが、でかでかとあんず飴の文字が書かれた屋台の列に並ぶ。こうしてみるとお腹が空いていなくても何か買いたい気分になった。

「食べ物以外もでるんだな、金魚すくいやろーぜ!」

 修也は金魚すくいの屋台を見て目を輝かせている。

「いらないよ、飼えないし」

「えー、俺はデメキンとるぞ」

 一瞬不服そうにした修也だったが、そう意気込むと金魚すくいの屋台へと向かっていく。各自が思い思いの屋台へと向かい、僕も何か買おうと辺りを見回すと、少し離れたところにヨーヨー釣りの屋台が見えた。他の屋台と比べて混んでおらず、生き物でないので怒られる心配もしなくていいし、丁度いいと思ってヨーヨー釣りの屋台へと向かう。

「お、やってくか?百円だよ」

 屋台の前に立つと退屈そうに店番をしていたおじさんが声をかけてくる。

「一回お願いします」

 百円玉とこよりを交換して水槽と向き合うと、色とりどりの水風船がぐるぐると回っている。できるだけ輪ゴムが水面に出ている輪っかを狙って針金を引っ掛けると、思ったよりも簡単に釣り上がった。

「うまいじゃん」

 背後からの声に振り返ると、いつの間に来ていたのかあんず飴を片手にしたソラが立っていた。

「たまたまだよ。ソラもいるか?」

 こよりはあまりダメージを負っておらず、もう一つくらいなら取れそうだった。

「たまたまの割には自信満々じゃん。じゃあ、あの青いやつがいい」

 ニヤリと笑ったソラが深い青色をした水風船を指差す。色まで指定されるとは思っていなかったが、まあなんとかなるだろう。

 先程よりも少し沈んだ位置にある輪っかに意を決して針金をかける。こよりが水面に触れて一気に水を吸い上げたのがわかった。意を決してゆっくりと腕を上げると、水面から離れた、と思った瞬間にこよりが急に軽くなり、ばしゃんと大きな音を立てて水風船は再度ぐるぐると回る群れの中へと戻っていった。

「ごめん」

 針金部分を失ったこよりを摘んだまま、振り返らずに言う。なんとも言えない空気が流れた。数秒の沈黙の後に背後からぷっと吹き出す音が聞こえる。振り返るとソラが笑いを堪えるようにあんず飴を持っていない方の手で口を押さえていた。

「いいよいいよ、惜しかったね」

「いや、これは取れてたよ」

「え?」

 再度前を向くと、屋台のおじさんが青いヨーヨーを摘み上げている。

「水面から完全に離れたら取れたことになるんだよ。お嬢ちゃん、よかったね」

「あ、ありがとうございます」

 ソラはポカンとしながらも差し出されたヨーヨーを受け取る。

「いやー、若いっていいねえ」

 ニコニコと笑うおじさんは完全に何か誤解しているようだったが、まあいいかと思った。僕からも礼を言ってその場を離れると、打ち上げの開始時間が近づいているのか、鑑賞場所に戻るのだろう人の流れができていた。

「唯ちゃん達どこ行ったんだろうね」

「別れた時は金魚すくいやってたんだけどな」

 二人と合流しようと人混みの中を探すも、それらしい姿は見つからない。奥の屋台の方まで行ってしまったのだろうか。ポケットの中でスマホが震え、画面を見ると探していた修也からのLINEが届いていた。


[修也:悪い、たぶんめっちゃ離れた。戻れなさそう]


 誘ったくせにはぐれるなよ、と内心突っ込みながらも了解とだけ返信する。

「修也達戻って来れなさそうってさ」

「えー、もう始まっちゃうのに…どうしよっか」

 きょろきょろと辺りを探していたソラが困ったような顔で言う。

「どっか落ち着けそうなとこ探すか?つってもこの人の量じゃ望み薄いよな」

 ビニールシートの敷き詰められた会場を思い出す。この人混みでは腰を落ち着けるどころかパーソナルスペースが守られる場所さえ見つけることは難しいだろう。

「うーん……あ、いい場所知ってるかも。ついてきて」

 ソラはそう言うと人の流れとは逆方向に歩いていく。流れに押されないように慌てて後を追い、しばらくすると人も疎らな住宅街へと入り込んでいた。打ち上げの時間が迫り、焦るように早足になるソラに行き先もわからないままついていくと、その足は公園の入り口でやっと止まった。

「また公園か」

 何となくこうなる気はしていた。ソラの言ういい場所なんて十中八九公園だろうと思う。それにしてもどこまでの公園を網羅しているのかと言いたくなるようなそのレパートリーの多さには驚かされる。

「うん、空いてるしあそこなら見えるかなって」

 そう言って青いヨーヨーのぶら下がった指を向けた先には、秘密基地のような形をした遊具があった。頂上には見張り台のようなものがついている。入り口に設置されていたゴミ箱にあんず飴が刺さっていた割り箸を捨てると、ソラは器用に見張り台へと登っていく。見よう見まねで秘密基地を登り、見張り台に立つと、思っていたよりも地面がずっと下にあるような気がした。

「やっぱりここなら見えそうだね、間に合ってよかった。花火見るの小学生の時以来だなあ」

 ソラが打ち上げ場所の方角を見つめながら言う。

「家から見えないのか?去年は修也と見にきたけど、うちの家族ははずっと窓から見てたぞ」

「いいなーそれ、特等席じゃん」

 遠くの空で小さな光の玉がひょろひょろと昇っていく。一瞬その姿を消したかと思うと、まだ薄らと青を残す空に巨大な花を咲かせ、数秒遅れてバンという大きな音が鼓膜を震わせる。

「わ、始まった」

 花火の光に照らされたソラの横顔には歓喜の表情が滲んでいる。最初の一発を皮切りに幾つもの光が昇っていき、夜空をカラフルに彩っていく。会場に響くBGMは、静かな公園の中でどこか遠い世界の音のように聞こえた。

 打ち上がる花火が増えていくにつれて、スクリーンのような空は灰色に煙っていく。その中でも赤や緑の光はしっかりと弾け、遠く離れた僕達の顔にもその色を写した。

 クライマックスが近づくと、光の打ち上がるペースが激しくなり、すっかり濃紺に塗りつぶされた空に無数の花が咲く。一際大きい花が打ち上がり、少しの間余韻に浸る。瞼の裏にはまだカラフルな光が焼き付いているようで、かすかに聞こえていたはずの音楽が止んでいることにしばらくしてから気づいた。

 目蓋を上げて隣を見れば、まるで時が止まっていたかのようにソラは柵に手を置き花火の上がっていた方を見つめたままの姿でいた。

「そろそろ帰ろうか」

 そう声をかければ、ソラの顔がゆっくりとした動きでこちらに向けられる。月明かりが照らしたその姿に、僕は驚かずにはいられなかった。ソラの大きな瞳から涙が頬に一筋の線を描いている。

「ソラ…?」

 戸惑いを隠せずに名前を呼べば、ソラは一瞬はっとしたような表情を見せ、掌で顔を拭う。

「ごめん、ちょっと、色々思い出しちゃって」

 思いもよらない出来事になんと声をかけるべきか迷っていると、再び遠くを見つめるようにしたソラがポツリと語り出す。

「前はね、毎年ママと花火大会来てたんだ。浴衣着て、あんず飴食べて」

 下に広がる公園よりも、周囲を囲む住宅よりもずっと遠くを見つめて追想する表情は、どこか苦しみを感じているようにも見えた。

「でもね、死んじゃったんだ、ママ。私が小6の時に。心臓の病気だったの」

 ソラの頬に、再び大粒の涙が伝った。顎から落ちた雫が木製の足場にじわりと小さな丸い染みを作る。戸惑う心とは裏腹に、ひどく冷静な思考が 今までに感じていたいくつかの小さな引っ掛かりを細い糸で繋げていくようだった。三者面談に父親が来ていたこと、母親のことを聞いた時に言葉を濁らせていたこと、そして、後悔。

「しばらく入院してたんだけど、死んじゃうなんて思ってなくてさ。ああ、結構ダメージ受けてたんだな」

 それはそうだろう、と思った。両親が健在の僕には当たり前のように家にいる親がいなくなってしまうなんて想像もつかない。辛い、なんて一言で形容できるような単純な感情でもないのだろう。

「意識してたわけじゃないけど、それから花火見るのも避けてたのかもしれない。だから、久しぶりに花火見てなんか色々思い出しちゃった」

 ゴシゴシ効果音がつきそうなほど目元を拭ったソラは、くるりとこちらに体を向けると涙の跡が残る顔で笑う。

「あーあ、ごめんね変な話しして。話すつもりなかったのに、なんでだろ…優太がベンチみたいだからかな」

「…だから、なんだよベンチみたいって」

 ようやっと出した声は少し掠れていた。

「うーん…いつも変わらずそこにあって…疲れたら座れる場所みたいな、そんな感じ?」

「なんだそれ、僕は人間だよ」

「わかってるよ、雰囲気がそんな感じってこと。優太ってあんまり突っ込んでこないし、独り言みたいについ色々話しちゃうんだよ」

 ソラの説明はよく分からなかったが悪い印象というわけでもなさそうなのでまあいいかと思いつつ、目元が少し腫れている事以外はいつも通りに戻ったソラに安堵する。

「遅くなっちゃったね、帰ろっか」

 小さく鼻をすすると慎重に足場を下っていく。会場に集まっていた人々も大方掃けたようで、疎らに下駄の音が響く道で手を振って其々の帰路についた。


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