Ⅻ
何もない日々は飛ぶように過ぎ去り、約束の日はあっという間にやってきた。試写会の行われる映画館は電車で数駅ほど行ったところにあるため、駅で待ち合わせることになっていた。空はあの時とは対照的に雲一つない快晴で、待ち合わせ場所に決めた駅前の広場では同じく待ち合わせをしているのだろう人々で溢れかえっている。遅れないようにと少し早めに家を出てきたはいいが、8月の炎天下での待ち時間はとてつもない苦行である。時計は未だ待ち合わせの15分前を示していて、いっそ雨が降っていてくれたらよかったのにとさえ思う。耳を塞ぎたくなるような蝉の声はコンクリートから立ち昇る熱を助長しているかのようだ。こんなことなら待ち合わせはどこか室内にしておくんだった。今からでもLINEを飛ばしてどこか室内に避難しようかと思い始めた頃、待ち侘びた人物の声が聞こえた。
「おはよ、あっついね」
思えば太陽の下で私服の空を見るのは初めてだった。今日はいつもの制服でも、雨の日の黄色いポンチョでもない。エメラルドグリーンのワンピースが青い空によく映えていた。
「おはよう、溶けるかと思ったよ。早く行こう」
日差しから逃げるように駅舎へと急ぎ、タイミングよくホームへと入ってきた電車に乗り込む。夏休みシーズン、しかも休日の車内は家族連れが多く混み合っていたが、人の放つ熱に負けじと唸る冷房のおかげで背中を伝っていた汗が一気に冷やされていく。電車に乗るのなんていつぶりだろうと思った。車窓に流れる景色は次々に街を置き去りにしていき、いかにもという大きなスーツケースを持った集団を見ているとたった十数分の乗車時間でも小旅行をしているような気分になる
目当ての駅に着くと、大量の人がどっとホームへと流れていく。みんな行き先は大体同じなのだろう。半ば人並みに流されるようにして駅から数分程歩くと大型のショッピングモールに着く。自動ドアを潜り涼しい室内の空気に触れると、やっと生き返ったような心地になる。
「やっと着いたー」
道中口数の少なくなっていたソラも同じことを思っていたようで、襟元をパタパタして必死に冷たい空気を服の中へと送り込んでいる。
「死ぬかと思った」
「ほんと、ちょっと暑すぎるよね」
「インドア派には堪えるよ。既にヘトヘトだ」
「映画観ながら寝ないでよね。映画館、こっちだよ」
慣れた様子で歩くソラについて行くと、賑やかな専門店街のエリアとは一線を引いたように独特の雰囲気を放つ映画館に辿り着いた。チケットカウンターらしき場所には長蛇の列が伸びている。
「わー、流石夏休み。余裕持って来てよかったね、チケット引き換えなきゃいけないんだ」
肩にかけたバッグからハガキを取り出したソラが列の最後尾へと向かう。最近公開した子供向けの作品の影響か、長い列を形成する人々のほとんどが小さな子供を連れた家族だった。
「映画館、よく来るのか」
「うーん、たまに…かな。最近は全然来てなかったかも」
慣れているようだったからよく来ているのかと思えば、そうでもなかったらしい。
「優太は?」
「僕はあんまり。観ようと思ってても大体気づいたら公開終わってるんだよな」
「わかる。観たかったの終わっちゃうとますます足が遠のくよね」
外から見るとかなりの長さに思えた列は意外にもスムーズに進み、窓口から声がかかる。
「2人でお願いします」
ソラがカウンターにハガキを置くと、引換済みのスタンプが押され、ラミネートされた座席表が出される。座席が選べるようだった。
「席どの辺がいいとかある?」
「みえればどこでも」
「うーん…じゃあ無難に真ん中あたりとかかな」
2人分のチケットを受け取り、カウンターから離れる。チケットに印字された上映時間までは、まだ30分以上余裕があった。
「15分前に開場だっけ…まだ時間あるね、どうしよっか」
「飲み物でも買ってこようかな。ソラもなんかいる?奢るよ、この前のお礼」
「え、ほんとに?じゃあポップコーン食べよ!2人で食べられるし」
「了解」
コンセッションからも長い列が伸びていたが、チケットカウンターほどではなかった。15分あれば丁度いいくらいだと思う。メニューが書かれた看板の前に行くと、ドリンクやポップコーンの他にも様々な軽食が書かれていて驚いた。まるで映画館とは独立したカフェみたいだ。
「塩とキャラメル、どっちにしようか」
隣を見ると、顎に手を当てたソラが考え込むようにうーんと唸り、数秒の後に閃いたように顔を上げる。
「あ、両方食べれるやつにしようよ!」
「いいけど、食べ切れるのか?」
半分に仕切られたバスケットに溢れんばかりのポップコーンを詰め込んだ写真の下には、ハーフ&ハーフ※Lサイズのみ、と書かれている。胃袋のキャパシティはともかく、上映中の2時間で食べ切ろうとすればタイムアタックにもなりかねないと思った。
「2人だし、なんとかなるよ。残ったら出てから食べればいいし」
「飲み物は?」
「アイスティー。あ、でもそれくらい自分で出すよ。」
「いいって、ほら、ペアセットの方が安くなるし」
「…じゃあ、ミルクとガムシロありで」
「オッケー、買ってくる」
暫く悩んでいたが渋々と言った様子で了承したソラを置いて列に並ぶ。丁度いいタイミングで人が少なくなった列があったので、カウンターに着くまでに然程時間はかからなかった。注文をしてから5分程で2色のポップコーンが詰まった巨大なバスケットと、2つのドリンクカップがカウンターに並べられる。トレーに乗せられたそれらを受け取ると、思っていた以上の質量が腕にのしかかってきて、無事に座席まで辿り着けるか少し心配になった。
「わ、めっちゃポップコーン!」
ポップコーンを落とさないようにと慎重に足を踏み出し、ソラの待っている場所へと戻ると、開口一番に意味のわからない反応をされる。
「ザ•映画館って感じ!ポップコーン持って映画観るの久しぶりでなんかテンション上がるな〜。ありがと!」
「どういたしまして」
どういう感じだよ、と思ったが、”こういう感じ”なのだろう。確かに山と積まれたポップコーンを映画館以外で見かける機会はなかなかないかもしれない。早速山の頂上からキャラメル味のポップコーンを摘み上げ、口内に放り投げているソラはとりあえず満足しているようなので細かいことはどうでもいいか。
「優太、ドリンク何にしたの?」
ソラが2つのカップを覗き込みながら言う。
「コーラ」
「へー、意外。ジュースとかあんまり飲まなそうなイメージあった。縁側で緑茶とか飲んでそうなのに」
人をなんだと思ってるんだ。余生を謳歌する老人か。まだ14歳だぞ、と眉間に皺を寄せて睥睨すると、冗談だって、とケラケラ笑っていた。
「じゃあこっちが私のだね、スクリーン行こ」
トレーからアイスティーの入ったカップが取り上げられると、腕にかかっていた負担が大分軽くなった。
入り口でチケットをもぎられ、スクリーンへと足を踏み入れると、既に消灯し、予告編の上映が始まっていた。足下の誘導灯だけを頼りに階段を上り、チケットに印字された席を見つけ出す。途中でポップコーンが数粒転がっていったような気がするが、ばら撒いていないだけ良しとしよう。ようやっと着いた座席で、手探りで掴んだポップコーンを口に含むと、疲れを癒すように仄かな塩味が舌の上で広がった。
主題歌と共にエンドロールが流れ、何人かがゴソゴソと席を立つ音が聞こえる。エンドロールの最後の文字がスクリーンの外へと出て行くと、座席の照明が一斉に点灯し、上映の終了を告げた。席を立った人々がぞろぞろと出口へ流れて行く中で、隣を見ればソラが腕を伸ばして大きく伸びをしていた。席の間に置いたトレーには、案の定ポップコーンがまだ半分ほど残っている。
「とりあえず、出ようか」
ふかふかの座席に沈んで余韻に浸っていたい気持ちもあったが、片手でも持てるほどに軽くなったトレーを手に出口へ向かう。ロビーに戻ると、幸いソファに空席があったので、そこで残りのポップコーンを消費することにした。
「なんか、結構削られてたね」
「そんなもんだろ、全編を2時間に収めるのは無理があるし」
「でも、臨場感?迫力?はあった。結末わかっててもドキドキしたもん」
「音楽がよかったな」
「たまには映画もいいもんだね、雰囲気結構好きかも」
ポップコーンを咀嚼する音の中に、ポツリポツリと会話が紛れる。小説でしかできない表現があれば、映画にしかできない表現もある。真夏日の外出にはキツいものがあったけど、たまには映画館に足を伸ばしてみるのもいいかもしれないと思った。
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