言葉を発することもなく、数十分は歩き続けただろうかという頃、入り組んだ住宅街を野良猫のように迷いなく進む背中が不意に止まる。あまりの急停止に前を行く黄色にぶつかりそうになった。

「到着」

 辺りを見回すとそこは初めて見る公園で、よく訪れる殺風景な公園とは違って色とりどりの花が咲き乱れる花壇があちらこちらに設置されている。視覚を楽しませるその光景は、住宅街から隔絶されてまるで華やかな庭園を見ているかのようだった。

「綺麗でしょ。ここ、お気に入りなんだ」

 突然目の前に広がった光景に呆気に取られている間に、ソラはそこが定位置だとばかりにブランコへと移動していた。

「こんなとこあったんだな」

 隣のブランコに腰を下ろすと、雨で冷やされたプラスチック製の座面の温度が衣服を蝕むように伝わってきた。濡れたズボンが肌にべちゃりとくっつく感覚に眉を潜めると、黄色いフードの影からソラが笑っていた。

「ほんとは人に教えたくなかったんだけど、優太だけ特別ね」

「そんなに需要があるとも思えないけどな」

 球技ができる広い公園ならまだしも、中学生にもなって住宅街にあるボール禁止の看板が建てられた公園で遊ぼうなんて思うヤツはなかなかいないだろう。少なくとも僕の知っている限りではいないはずだ。

「で、どうしたの?」

「え?」

 こちらを見ずに突然投げられた問いにきょとんとする。

「さっきはなんか心ここにあらず、って感じの顔してたからびっくりしたよ。いつも傘刺してるのにずぶ濡れだし」

「ああ、大したことじゃないよ。怒られたり転んだり財布忘れたりいろいろあってちょっとうんざりしてただけだから。あ、そうだ、レインコートのお金」

「いいよ、あげる。プレゼント。百均だけど」

 今度でもいいか、と言おうとした口が開ききる前にソラが食い気味に被せてきた。たかが百円、されど百円だ。なんだか申し訳ない気持ちになる。

「じゃあ今度なんか奢る。借りにしといてくれ」

「えー、いいのに」

「僕がよくないんだ」

 僕がキッパリとそう言うと、不満げながらもソラが折れた。

「わかったよ、楽しみにしてる」

 小さな庭園のような公園に降る雨は段々と弱まってきていて、バタバタと忙しなかった雨音もいつからかそのボリュームを落としていた。視線の先では花壇に咲き乱れる花々が柔らかい雨を受けて微かに揺れている。

 暫くの間の後、足元の水溜りを見つめたソラが再び言葉を紡ぎ出した。

「雨ってさ、なんか特別な感じしない?いつもの世界と違うって言うか…」

 なんとなくわかる気がした。雨粒に遮られて視覚や聴覚が鈍くなると、世界から隔絶されたような気がするのだ。

「煩いのに、静かだったり、陸にいるのに、水に浸かったような気分になるんだよね」

 水に浸かったような気分、というのはよく分からなかったが、水分に囲まれているという点ではあながち間違ってもいないのかもしれないと思った。

「だから、雨の時って色んなこと考えちゃうんだ。優太もそうなってるのかも、ってちょっと心配した」


『優太はさ、どうしようもなく後悔してることある?』


 いつかの家型の遊具の中で見たソラの姿がフラッシュバックする。ソラの言う色んなことが何なのかはわからないが、あの時の、何処かへと遠くへと向けられていた焦点と何か関係があるような気がしてならなかった。少し気になったが、僕なんかが簡単に踏み込んでいいようなことではないだろう。

「優太?」

 名前を呼ぶに我に帰る。気づけば心配そうなソラの顔が僕を覗き込んでいた。

「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」

「やっぱりなんかある?」

 色素の薄い瞳が不安そうに揺れる。寧ろ何かあるのはソラのほうじゃないか、なんてとても言えない。

「いや、本当に何もないよ。ありがとう」

「よかった。なんかあったら言っていいよ、ほら、数少ない友達じゃん」

 ソラは安心したように一息吐くと、ニヤリと笑ってそう言った。

「そりゃどうも」

 僕の気の落ち込みなど本当に些細でつまらないことに思えてきて、そんなことで心配させてしまったことに恥ずかしくなってきたが、すっかりいつもの調子に戻った様子のソラに僕も安心していた。

 すっかり気分も落ち着き、家を飛び出してからどれくらいの時間が経っただろう、と思い始めた時、ぐるるる、と酷く場違いな音が僕のお腹から盛大に響いた。思えば今日はまだ何も食べていない。隣でソラが吹き出して、顔に熱が集まるのを感じた。

「優太、お腹減ったの」

「飯食ってないんだよ」

 クスクスと笑うソラに今すぐに消えてしまいたい気持ちになった。

「あ、ここサルビアあるよ」

 そう言って立ち上がると、ソラは公園の奥の方へと歩いていく。僕も後を追うと、その足は花壇の一角の前で止まった。

「ほら、サルビア」

 黄色いポンチョの袖口から伸びる指は、いくつもの真っ赤な花を縦に連ねたような植物へと向けられている。

「なにそれ」

「知らない?美味しいやつ。蜜吸うの」

 ソラが真っ赤な花を一つぷちりと毟ると、その端に口をつける。

「ツツジみたいなやつか」

「そうそう」

「取っていいのか」

 道端で見かけるツツジならともかく、綺麗に整えられた花壇から花を毟るのは気が咎めた。

「ちょっとなら大丈夫だよ」

 赤い花を摘み、僅かに力を込めて引っ張ると簡単に細長い花が抜ける。摘んだ真っ赤な部分の反対側は、対称的な白い色をしていた。ソラの見様見真似で白い部分を口に含んでみると、ガムシロップのような甘みが舌先にじわりと広がった。

「甘い」

「美味しいでしょ。たまにハズレもあるんだけどね」

 確かに美味しいけれどこれだけで空腹が解消されるわけではない。時間を確認するためにスマホを取り出そうとするが、財布同様に家に置いてきたらしく、ポケットの中にはなにも入っていなかった。

「なあ、今何時だ」

 2つ目のサルビアを堪能していたソラが、花を咥えたままポンチョの下を探りスマホを取り出す。

「もうすぐ3時くらいかな」

「3時か…」

 思っていたよりも時間が経っていたようだったが、昼でも夕方でもなく正直微妙な時間だと思った。それでも何も考えずに歩いてきてしまったここから自宅までどれくらいかかるのかわからないし、空腹を誤魔化すのにも限界がある。もう帰路に着いたほうがいいだろう。

「ありがとう、そろそろ帰るよ」

「ん、じゃあ途中までついてくよ。道わからないでしょ」

「助かる」

 帰り道どころか周囲を同じような形をした住宅に囲まれているこの場所が何処なのかも知らない。普段ならばスマホのGPS機能を使って帰るのだが、頼みの綱のスマホは家の中だ。便利なデバイスを失った現代人はつくづく無力だと思った。

「そういえば、この前話してた映画」

 斜め前を進んでいたソラが思いついたように言う。

「本のやつ?」

「うん。あれさ、なんとなく応募してみたら試写会当たったんだ。二人まで行けるんだけど、勿体無いから優太一緒に行かない?」

「…友達いないのか」

「酷いなあ、折角誘ったのに」

 歩みを止めずに話していたソラが振り返ってむくれた顔をする。

「優太くらいしかあの本読んでる人知らないんだよ。どうせなら予備知識ある人と観た方がいいかなって」

「なるほど」

 僕なんかを誘うくらいだから相当誘う相手に困っているのかと思った。

「だから、どう?来週の土曜日なんだけど。予定ある?」

 ソラはくるりとポンチョを翻すと、再び歩を進める。

「ないよ。行く」

 来週の土曜どころか夏休み中のカレンダーは基本的に真っ白だ。

「よし。場所とかはまた連絡するよ」

「了解」

 この夏初めての予定ができた。少し先をいくソラを見ると、黄色いフードの陰からは満足そうに笑う顔が窺えた。

 それからは宿題は何処までやったとか、最近発売したアイスが美味しかっただとか、他愛もない会話を続けているうちに気が付けば辺りには見知った風景が広がっていた。どうやら無事に戻ってくることができたらしい。

「この辺ならわかる。もう大丈夫だ。助かった」

 黄色い背中に声を掛けると、ソラが顔だけで振り返って微笑する。

「どういたしまして。じゃあまた来週ね」

「ああ、また来週」

 直進する背中を見送ってから横道に逸れる。雨はもうほとんど止んでいて、母親の機嫌が直っていることを切に願いながら残りの帰路を歩いた。

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