Ⅹ
長く雨を降らせていた空は、一学期最後の授業日になってやっと晴れ間を見せた。学校に行けば隣の席にソラがいて、いつものようにおはよう、と声をかけてきて、僕もそれにおはようと返す。極めていつも通りだった。
お昼になるとニヤついた修也がやってきて、悪い、今日は彼女と一緒に食べるから、なんて言って去っていった。全然悪いと思っているような顔ではなかった。一人で食べることに抵抗があるわけではないので別にいいのだが。
ソラも今日は一人で食べるようで、必然的に横並びで昼食を取ることになる。何か話しかけようかとも思ったが、どうしても先日の出来事が脳裏にチラついてしまい、声を掛けることを躊躇してしまう。忘れてと言われてすぐに記憶を消せるほど、僕の脳は便利にはできていないのだ。
「優太、友達いないの?一学期最後のお昼なのに」
逃避するように弁当に集中していると、ソラの方から声をかけてきた。
「お前が言うなよ」
何もなかったかのように話すソラに、僕もついいつもの調子で返す。
「私はどこにも属さないだけだよ。広く浅く的な?」
そう言われてしまえばぐうの音も出ないが。
「かわいそうだから私が友達になってあげるよ」
寧ろ今までは何だったのか。パシリか。なんかちょっとイライラしてきたぞ。
「なんでもいいよ」
食べ終わった弁当の蓋を閉じて鞄にしまい、代わりに文庫本を取り出す。最近買ったばかりの、映像化書籍コーナーでみつけた本だった。
「優太って本好きだよね、いつも何読んでんの」
未だ片手にパンを持ったままのソラが問うてくる。
「割となんでも読むよ。テキトーに、気になったやつ。今のはなんか、猫がでてくる今度映画化されるらしいやつ」
「え、もしかして」
そう言うとソラは自分の鞄を漁り始め、花柄のブックカバーが掛けられた本を取り出す。
「これ?」
表紙からカバーが剥かれると、僕の持つ本と全く同じタイトルが現れた。
「それだ」
僕も同じようにして表紙を見せた。映画化されるほどの本なのだから誰が読んでいても不思議ではないが、こんなに近くに読者がいるとは思わなかった。
「うわー、偶然。表紙可愛くてジャケ買いしちゃったんだよねこれ。まだあんまり読めてないけど。映画の公開来月だってさ」
ソラがパステルカラーに彩られた表紙を眺めながら言う。僕の持つシンプルな表紙と違って、映画と連動した限定版だった。
「へえ」
どうせ予定のない夏休み、一人で映画を観に行くのもいいかもしれない。昼は暑いし混みそうだし、観るなら朝一の回だな、なんてぼんやりと考えた。再びパンの咀嚼を始めたソラの向こうでは、カーテン越しでもわかるほどに太陽が照っていて、長い夏休みがもう目前であることを告げている。冷房の放つ風が頬を撫でる中、昼休みの教室の喧騒から逃れるように本を開いて、物語の世界へと身を委ねた。
蝉の声が喧しく鳴り響く夏休み。夏といえば一般的には海にプールに夏祭りや花火大会が思い浮かべられるのだろうが、今年の僕にはそのどれもが存在していない。去年は同じように家に篭っていた僕を花火大会へと引き摺り出したも修也も、今年は彼女との逢瀬で忙しいだろう。宿題と暇に塗れた40日間は、只管に惰眠を貪るのが許されることだけが魅力だった。
気温が30℃を超えるような日も多い中、外出する気など起きるはずもなく、1日の半分はベッドの上でタオルケットに包まって過ごす。相変わらず僕のスマホには修也からのどうでもいい内容のLINEが届くし、加えて一週間に一度くらいの頻度ではソラからもどうでもいい内容のLINEが届いていた。今の僕にとってはそれが唯一の外との繋がりだった。
起床時間を告げるアラームも今は夏休み仕様で、昼前にやっと起きてはご飯を食べて、テレビを見たり本を読んだり、たまに宿題も消費しながら1日が終わっていくのを待つ。夏休みに入ってからはずっとそんな生活を繰り返している。そして今日もまたそんな1日を始めるつもりだったのだ。
「暑い…」
湿った空気が蒸すように襲い掛かる中、アスファルトの道を宛てもなく歩く。履き慣れているはずのスニーカーが、今日はまるで重石でも詰め込まれているかのようだ。
運が悪い、ついてない。そんな風に形容するしかないような日だった。朝から何故か虫の居所が悪かったらしい母親に叩き起こされ、なんだか空気の悪い家から逃げ出すように飛び出した結果、家の前で段差に躓きバランスを崩した。咄嗟についた膝は出血こそしなかったものの青く内出血していて、今もなお鈍い痛みを放っている。とりあえず夕方くらいまでは何処かで時間を潰そうと思ったが、財布を持ってきていなかった。これでは喫茶店に入ることすらできない、と宛てもなく足を動かしていたわけだが、追い討ちをかけるように雲行きまでもが怪しくなってきた。遠くの空からゴロゴロと不穏な音が聞こえた気がした。
ポツリ、ポツリ、と頬に冷たいものが降ってきた。雨だ。冷たい滴がTシャツに落ちては吸い込まれていく。もうどうにでもなれ、と思った。冷たい雨は僕の体をじわじわと侵食していくようだったが、この暑さの中ではいっそ気持ち良いとさえ思った。濡れた前髪が額に張り付き、顔に滴を伝わせる。気づけば周囲に人影はなくなっていて、住宅街に迷い込んでいたようだ。もうこれ以上は悪くなりようがないだろう、と尚も足を動かす。雨の仕切りで世界から分断されたような静かな空間では不思議なほどに心が落ち着いていて、このままどこまでも歩いてしまおうかと思った。
「優太!?」
名前を呼ばれて振り返る。灰色の世界で目立つ黄色の姿は、突然違う世界へのパスが繋がれたようだった。酷く驚いた顔をしたソラが駆け寄ってくる。
「びしょ濡れじゃん、何してるの」
「うーん…散歩?」
どこかで聞いたセリフだ、と少し可笑しくなった。ソラはきょろきょろと辺りを見回すと、僕の腕を引っ張って歩く。腕を引かれるままについていくと、シャッターの閉じている店の軒先に押し込まれた。
「とりあえず、ちょっと待ってて」
ソラはそれだけ言うと、乾いたコンクリートにポタポタと染みを作る僕を置いて雨の中に駆け出していく。訳がわからなかったが、考えることも面倒臭くなりフェンスに背中を預けて待つことにした。
はためく黄色を見送ってからどれほどの時間が経っただろうか。屋根から落ちる大粒の滴を眺めていると、静かな雨音の中にバシャバシャと荒い飛沫が上がる音が混ざり始めた。真っ直ぐに続いた道の遠くから、見慣れた黄色が近づいてくる。
「お待たせ」
息を切らしたソラは、軒先に辿り着くと膝に手をついて息を整える。ポンチョから出た手首には百円ショップのビニール袋が下がっていた。
「何してたの」
茫然と問う僕に、ソラはビニール袋の中から何やら四角いものを取り出して広げ僕の方に差し出してきた。
「これ着て」
受け取ってよく見ると、白い半透明のレインコートだった。ソラの行動が理解できず、暫く手の中のレインコートを眺めていると、ソラが痺れを切らしたようにレインコートをひったくり、僕の肩に掛ける。
「はい、これで濡れない」
そう言って笑うソラに僕もなんだか可笑しくなって吹き出す。
「ありがとう。でももうびしょ濡れだよ」
レインコートの下では髪もTシャツもぴったりと肌に張り付いている。今更雨を凌ぐ意味もないような気がしたが、袖に腕を通してみる。たまには意味のないことをしてみるのもいいと思った。
「たまには雨に打たれるのもいいでしょ」
ソラが軒先から出て雨の中で得意げにくるくる回る。ポンチョが広がって黄色の円を描いた。
「そうだな」
でもたまにじゃないだろ、と心の中で付け足す。屋根の下から腕を出すと、レインコート越しに雨粒が叩いた。
「じゃあ、行こっか」
ソラは悪戯っぽく笑ってそう言うと、何処へ、と問う間もなく雨の中を歩き出した。速足で進むその背中を見失わないように追いかける。雨水を吸って重くなっていたはずのスニーカーも、最早気にならなくなっていた。
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