Ⅸ
夏休みを控え、そろそろ梅雨も開けようかという頃になって、しばらく天気を保っていた空が最後の足掻きとばかりに長雨を降らせた。来週にも期末試験がやってくるというのに、隣の席には欠席分のプリントが乱雑に積まれている。写真を撮って席の主に送ってやると、マップのスクリーンショットに赤で丸が書き込まれた画像が送られてきた。手書きの赤丸に囲まれているのは行ったことのない公園で、ここにいるから持って来いということなのだろうと思う。良いように使われるのは癪だったが、真っ直ぐ帰って勉強という気にもならなかったのでパシられてやることにした。
マップに示された公園に辿り着くと、そこはかなりの広さがあり、遊具も充実していた。アスレチックのような大型の遊具の隙間を縫うように歩き、いつものようにブランコの上を探すが、ずらりと並ぶブランコのどこにも空の姿はなかった。自分で指定したくせにいないのかよ。
「おーい、優太ー」
どうしたものかと考えあぐねていると、雨の音に紛れて声が聞こえた。声のする方に顔を向けると、家型の遊具の中にいつもの黄色が座っている。
「こっちこっち」
手招きされるままに歩み寄り、傘を畳んでソラと向かい合うように腰を下ろす。家を模したその遊具は二面の壁に屋根が乗っていて、内部には壁から迫り出した椅子とそれに挟まれるように設置された机がある。小さな子供が数人入れる程度の大きさをしたその家は、中学生の僕たちには少し窮屈に思えた。
「今日はブランコじゃないんだな」
鞄からプリントの束を取り出しながら問う。
「だって、プリントが濡れちゃうかと思ってさ。ありがと」
一応そういうことは気にするのか。どっちみち手が濡れていることは突っ込まないでおく。プリントを受け取ったソラはパラパラと中身を確認してうわーめっちゃ進んでるーなんて呟いていた。
「試験はサボるなよ」
「いつだっけ」
「来週」
「一学期ももう終わりかぁ。あっという間だね」
期末試験に向けて必死になっている生徒も多いというのに呑気なものだと思う。尤も、僕も人のことを言えるほど勉強に打ち込んでいるわけではないのだが。
「赤点とったら夏休みに補習あるってさ」
「それは嫌だなあ。まあ、なんとかなるよ。私、記憶力はいい方なんだ」
そう言うとソラはプリントの束を二つに折って、ポンチョの広がった袖口から中に入れた。ポンチョの中は四次元ポケットかなにかなのだろうか。
「優太こそ、ちゃんと勉強してる?」
「少なくともソラよりは授業受けてるよ」
僕だって成績が悪い方ではなかった。
「あ、それもそっか」
今気づいたというふうに小さく笑うソラにとって、授業に出ていないことは大した問題ではないようだ。
「そういえば」
ふと三者面談の日のことを思い出した。
「ソラのお父さんって、すごい若いんだな」
「えーそうかなあ。普通におじさんだと思うけど。私にはわかんないや」
「まだ30代くらいだろ?かっこよくて羨ましいよ。うちは結婚が遅かったらしくて、父さんなんか今年で45歳だ」
そう言うとソラがぷっと吹き出し、笑いを堪えるように言葉を絞り出す。
「うちのパパだって、今年42歳だよ」
「嘘だろ」
たった3年の差であそこまで変わるのか。3年前の父さんを思い起こすが、あんなに若々しくはなかったと思う。
「嘘ついてどうすんのさ。あー、パパに言ったらきっと喜ぶよ」
一頻り笑ったらしいソラが目尻に滲んだ涙を拭う。
「じゃあ、お母さんは?」
そう問うとソラの動きがピタリと止まり、考えるような表情をする。
「うーん…いくつだっけな、パパよりは年下だったよ」
「へえ、うちは43、ソラのお父さんと同じだ。親世代って大体それくらいなのかね」
「みたいだね」
そう言うとソラは大粒の雨を落とす灰色の雲を見上げた。
雨足は来た時よりも強くなっているようで、滴がコンクリートで出来た小さな家の屋根に叩きつけてはびちゃりと音を立てて弾けていく。屋根の下から片手を出すと、痛いくらいに容赦なく叩きつける無数の滴によって数秒と待たずにびしょ濡れになった。開けた場所に出来た小さな湖のような規模の水溜りでは、絶えず水飛沫が上がっている。
雨の奏でる音だけが響く時間が数秒続き、そろそろ帰ろうかと傘に手をかけた時、ソラが遠く浮かぶ雲を見つめたまま口を動かした。
「ねえ」
ソラの顔がゆっくりとこちらに向けられる。フードで翳る色素の薄い瞳は真っ直ぐに僕を映しているのに、その焦点はここではないどこか遠くに向けられている気がした。
「優太はさ、どうしようもなく後悔してることある?」
何と返せば良いのかわからず、口を開きかけては閉じてしまう。思い出せる限りでは、どうしようもない後悔という程のようなものは僕にはなかったと思う。少なくとも、試験終了直前に直した答えが間違っていたとか、買おうか迷っていたものが次に見た時には売り切れていたとか、人と会う前にニンニクたっぷりの餃子を食べてしまったとか、そういうことではないと思った。
「あ、ごめん。今のナシ!忘れて!」
慎重に放つ言葉を選ぼうとしていると、突然正気に戻ったような、ハッとした顔のソラが慌ててそう言う。
「いや、」
「私帰って勉強しなきゃ。じゃあね、プリントありがと」
僕の言葉を遮るように早口でそう言うと、遊具の家を出て小走りで去っていく。バシャバシャと小さな水しぶきを上げる黄色い背中を、僕はただ呆然と見つめることしかできなかった。
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