Ⅶ
六月。梅雨に入り、じめっとした空気が教室を満たす。窓の外でザーザーと音を立てる雨は、もう三日も降り続けていた。今月に入ってから頻繁に休むようになった隣の席の主は今日も不在で、金属の窓枠が放つひんやりとした冷気が僕のところまで浸食してくるようだった。
最近になって気づいたことがある。ソラのことだ。彼女は決まって雨の日に学校を休むこと。そしてその理由は決して体調不良ではないこと。いや、表向きは体調不良ということになっているのだろう。先生は出席を確認するときに「高柳は体調不良で休み」と言っているし、学校への連絡はされているらしかった。それでも僕はソラが体調を崩しているわけではないことを知っていた。
学校からの帰り道、ビニール傘を差して直帰ルートを外れる。最近は雨の日に遠回りをして帰るのが癖になっていた。雨粒がビニール傘に叩きつける音だけが響く道を気分だけで選びながら歩く。小さな公園を見つけては、ブランコを確認する。
いた。
教室二つ分くらいの狭い公園のブランコに、黄色い影が乗っている。代わり映えしないその影に近づいていくと、ゆっくりと影が振り向く。
「あれ、優太だ。おはよう」
「おはよう」
どう考えても「おはよう」の時間ではなかった。朝も昼もとうに過ぎ、厚い雲の向こうでは太陽も営業を終了しようとする時間なのだ。それでもこの言葉を交わすのは恒例行事となっていた。
「今日もサボりか」
「えへへ」
ソラが誤魔化すように笑う。雨の日のソラは、家で寝ているわけでも、病院に行っているわけでもなく、大体あの黄色いポンチョを着て外を出歩いている。いつもの帰り道が通行止めになっていた日に偶然使ったルートでその姿を見かけて以来、なんとなく雨の日はこの黄色いポンチョを探すようになっていた。ソラの出現場所は特に決まっているわけではなく、出会わないまま家に辿り着いていることも多かった。見つかるときは大体どこかの公園のブランコの上だ。
「こんなに休んでていいのかよ」
「大丈夫だよ、たぶん。成績悪くないし」
「そういう問題かよ。留年するぞ」
「中学生に留年ってあるの?」
「さあな」
「聞いたことないよ」
足を地面につけたまま、ブランコを軽く揺らしながら言う。
「そういえば、もうすぐ三者面談やるから親の都合聞いて来いって。プリントも溜まってたぞ」
この三日間一度も学校に来ていないソラの机には、各教科での配布物を始め、プリント類が乱雑に重ねられていた。
「わ、まじか。どうせなら持って来てよ」
「パシる気か。何処にいるのかもわからないのに持って来れるかよ」
「いいじゃん。あ、」
ソラはそう言うと片右をポンチョの中に引っ込め、中をゴソゴソと探る。もう一度姿を現した右手にはスマホが握られていて、左手で雨から守るように画面を覆い、素早く操作すると僕の傘の中へと差し出してきた。眩しく光る画面にはQRコードが映し出されている。
「なに」
「LINE」
そんなことは見れば分かっていた。
「なんで」
「居場所教えるから、何かあったら持ってきてよ」
本格的にパシる気しかないらしい。いつからそんなことを頼むほど親しくなったんだと思いつつ、ため息を一つ吐いてスマホを取り出し、QRコードを読み取る。猫のアイコンと高柳空という文字が表示されたので追加ボタンを押した。何か送って、と言うので怒り顔のスタンプを送っておいた。
「うわ、怖。てかアイコン設定してないじゃん」
左手の覆いの下からスマホを覗いたソラが言う。そういえば慣れ親しんでしまった灰色の人型アイコンは登録した時のままだった。
「なんかこれっていうのがなくてさ。こういうのって何使えばいいかわかんないんだよね」
「なんでもいいじゃん、変えられないわけじゃないんだし。あったほうがいいよ」
「ソラのは飼い猫?」
ソラのアイコンをタップして拡大すると、黒い猫がじっとこちらを見つめている。
「ううん、野良猫。家の近くにいるの」
「猫好きなのか?」
「好きっていうか…。まあ、好きか嫌いかって言われたら好きだけど。だから、なんでもいいんだよ、そのときにこれかなって思ったやつ設定すれば」
「なるほど」
何かないかと周囲を見渡す。狭い公園にあるのは、灰色の空と、水たまりの目立つ地面、外周を囲む木に、塗装の剥げかけたベンチ。カシャリ、とシャッター音を鳴らして景色を画面に収め、撮ったばかりの写真をトリミングしてアイコンに設定した。
「設定した?どれどれ………ぷっ、ベンチって、テキトーすぎ」
僕のアイコンを確認するや否や、ソラが吹き出した。
「なんだよ、なんでもいいって言ったのソラじゃん」
「だからって…でも、うん、優太らしいかも」
僕らしいってなんだよと思った。
「言っとくけど、パシリになったつもりはないからな」
「わかってるよ、無駄に呼び出したりはしないって。じゃあ、帰るね」
満足したらしいソラが徐にブランコから腰を上げる。
「ああ、またな」
灰色の街に吸い込まれるように小さくなっていく黄色い背中を見送り、雨水を吸って重くなったローファーを引き摺るようにして帰路に着いた。
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