Ⅴ
うだるような暑さの中、入場行進の音楽が掛かり、一年生から順にグラウンドに整列していく。開会式では校長が禿げ上がった頭で太陽の光を反射しながら長々と挨拶をし、去年の優勝杯の返還に続いて、ラジオ体操をする。広いグラウンドでは遠くに置かれたスピーカーからの音が遅れて聞こえてきて奇妙な気持ちになった。開会式が終わると生徒はそれぞれの応援席へと散っていき、いよいよ競技が始まる。僕の出場する徒競走は最初のプログラムなのですぐに招集がかかった。応援席の後方に設置された水筒置き場で一口だけ水を飲んでから入場門へと向かう。綱引きは午後のプログラムなので、朝一の徒競走さえ終わらせてしまえば午前中の競技に出ることはない。さっさと走ってしまおう。
自分の番になると、トラックのスタートラインに誘導される。徒競走に出場するようなメンバーはほとんどが運動を得意としていないタイプだと知っているので緊張することもなかった。ピストルの音がスタートを告げ、湿った地面を抉るように蹴る。勝敗にも興味はないし、ただ転ばなければいい。暑さに体力を奪われ、動かす足は重かったが、体が受ける風には救いのような涼しさがあった。ゴールラインを越えると三番のゼッケンを着た係が待機場所へと誘導した。三位だったらしい。一グループ四名なので、良くはないがビリでもない、ちょうど良い順位だと思う。
晴れて午前中の競技から解放されると、応援席には戻らずに水筒だけ回収して救護テントに直行する。救護係にはテントの下、則ち日陰にいられるという特権があった。入学したばかりだった去年はなんとなく最後まで余っていたからという理由で選んだ保健委員だったが、今年はこの特権のために死守したと言っても過言ではない。炎天下での体育祭はそれだけ死活問題なのだ。仕事中しかテントに入れない放送係や得点係と違って、救護係ならシフトの時間外にいても何も言われない。テントに入ると、気温は変わらなくとも太陽の光が遮られているだけでかなり快適だった。
スピーカーから放たれる声が次のプログラムが障害物競走であることを伝え、トラックには着々と障害物が運び込まれる。平均台を渡り、ハードルを跳んだらネットを潜って、最後は吊るされたパンを咥えてゴールするというルート。個人競技の中では一番手が込んでいる。
障害物の配置が終わると、愉快な音楽とともに出場選手が入場し、トラックの中央へと整列する。パイプ椅子に座って高みの見物をしていると、蹲み込んでいる待機列の中に見覚えのあるポニーテールが見えた。まさかとは思ったが、二年生の走順になり、その姿が露わになる。リレーのメンバーに入っていたので人違いかとも思ったが、やっぱりソラだった。
スタートラインに進んだ瞬間、その顔がふとこちらへと向けられ、目が合う。一秒にも満たないその刹那に、ソラが悪戯っぽく口角を上げた気がした。
ピストルの音が響き、スタートラインに並んでいた四人が一斉にスタートを切る。先頭に出たのはソラで、平均台の上を物ともせずに駆けていく。インコースに設置された一番高いハードルを跳び越ると、体勢を低くしてネットの下を這う。吊るされたパンには流石に苦戦するようで、噛みつこうと跳ねるたびに頭の後ろで黒髪が舞っていたが、なんとか洗濯バサミからパンを奪いゴールへと走る。
追うもののいない走路を風のように走るソラの姿に運動が好きなタイプなのだと悟った。しかし堂々とゴールテープを切り、咥えたパンを手に持ったところまでは良かったが、勢い余って前へとつんのめる。危ない、と思わず腰を浮かせた時にはソラは盛大に転んでいた。つい数秒前まで見せていた運動神経はどこへいったのか。一番のゼッケンを着た係に駆け寄られ、照れたように笑いながら起き上がるソラにほっと安堵の息を吐いてから座り直した。
障害物競走の選手が退場し、障害物が撤去されていく様子を眺めていると、視界に影が落ちる。
「すいませーん、絆創膏ください」
さっきまでトラックにいたソラが、戦利品のパンを持ったまま立っていた。
「あ、優太まだいたんだ」
少し驚いたように言うソラの膝には転んだ時にできたらしい擦り傷。水道で洗い流したのだろう傷口は血が滲んでいて痛々しかった。
「お疲れ、とりあえずそこ座って」
正面に置いていたパイプ椅子を促して、保健室から運び出した棚から消毒液と脱脂綿、大きめの絆創膏を取り出す。
「リレーにいたから個人競技は出ないと思ってた」
「なんか枠余ってたから、走るの嫌いじゃないし、楽しそうだったし」
パイプ椅子に座ったソラが右足を伸ばす。消毒液を染み込ませた脱脂綿で傷口を拭いてやると呻くような声が聞こえた。
「パン貰えるって男子の方は真先に埋まってたぞ」
「女子はあんまりやりたがらないんだよ。ネット潜る時に髪崩れちゃうし」
「そんなに大事なのか」
「大事なんだよ」
大体最後まで決まらないのは面白みのない徒競走だと思っていたが、女子の思考回路はよくわからない。絆創膏を貼って応急処置を終わらせる。
「ありがと。優太はもう出ないの?」
「うん、午前は徒競走だけ。好きじゃないんだよ、動くのも暑いのも」
「ふーん。私も暑いのは苦手。なんか体力吸われてく感じする」
「わかる。だから後はずっとここで涼むつもり」
「え、ズルくないそれ。いいなー私も保健委員やればよかったかな」
そう言いながらもソラはクスクスと笑う。
『二年生クラス対抗リレーに出場する選手は、入場門に集まってください』
テントの下で会話に花を咲かせている間にもプログラムは着々と進み、スピーカーから次の種目の招集を告げる声が響いた。
「行かなきゃ。じゃあ、またね」
パイプ椅子独特の音を立ててソラが立ち上がる。
「もう転ぶなよ」
「転ばないよ」
不服そうな顔でそう言うと、ソラは入場門の方へと駆け出していった。
午前中のプログラムが終了し昼休憩を迎えると、待ってましたとばかりにグラウンドのあちらこちらにできていた集団が散り散りになっていく。体育祭といえば小学生の頃は大体の親が応援に来ていて、体育館やグラウンドにレジャーシートを引いて家族で大きなお弁当を囲むというのがお決まりだったが、中学生ともなれば応援に来る親も減り、大体の生徒が向かうのは自分の教室である。
僕も例に漏れず真っ直ぐに自分の席へと向かうと、隣の席ではソラがほとんど無人になったグラウンドを眺めながら障害物競走の戦利品のパンを頬張っていた。今日は一人で食べるらしい。
「オツカレー」
自分の席から椅子を引き摺ってきた修也が正面に座る。朝見たときの疲れ切った表情ははすっかり消えていた。
「お疲れ、リレーどうだった」
「男子は三位、女子は二位だったっけな…、てか見てなかったのかよ」
「救護テントにいたからな」
太陽が猛威を振るう昼時ともなれば軽い熱中症のような症状を訴える生徒がそれなりに出てくる。さっきまでの救護テントはそんな生徒達の休憩所と化し、それなりにバタついていたのだ。
「うわー、応援席にいないと思ったらサボりかよ」
「仕事してればサボりではないだろ」
シフトの時間はとっくに終わってたけど。
「俺の応援くらいしろよなー」
修也は拗ねた小学生のように口を尖らせた。
「はいはい、選抜リレーくらいは応援席で見るよ。どうせ綱引きの後だし」
絶対だぞ、と疑わしい視線を向けてくる修也は無視して食事に集中することにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます