ゴールデンウィークなんて、これといって予定を立てていなかった僕にとってはやたら宿題の多い週末が何度も訪れているようなものだった。何もゴールデンじゃない、強いて言うならホームワークウィークだ。寝て起きて、ご飯を食べて、宿題やって、テレビ見て、また寝る。たまに修也からどうでもいいLINEが来るので、それに返信する以外は外部との交流すら絶たれていた。引きこもりたいわけではなかったが、外に出る用事もないので結果的に家にいることになる。母親から「そんなに篭ってたら腐るわよ」なんて小言を言われ、買い物に出ることもあったが近所のスーパーへは徒歩5分程度で着いてしまうので外出と呼んでいいのかもわからなかった。

 そんな生活が何日か続き、ゴールデンウィークも残すところ二日となった日、ついに宿題も終わり、完全にフリーになった。休日のメインイベントの一つである昼食を食べ終え、あと二日、何をして過ごそうかと自室のベットに寝転がりながら考えていると、ふと壁際に並べた本棚が目に入る。そういえば、手持ちの本を連休前に読み終えたところだった。折角の休みだし、本屋にでも行ってみるかと思い腰を上げる。


 寝起きにぼんやりした頭で眺めていたテレビで、夕方からは雨がパラつくかもしれないなんて聞いた気がするので、玄関に置いてあった折り畳み傘をバッグに押し込み家を出る。夏の到来を知らせるかの如く日に日にそのエネルギーを増してきていた太陽は、今日は暑い雲に覆われていて、暑い場所が苦手な僕にとっては恰好の外出日和だと思った。

 のんびりとした足取りで30分程歩いて、駅に併設された商業施設に辿り着く。日常生活で電車に乗ることはないので、駅を見るだけでなんだか遠出した気分になった。ゴールデンウィークなだけあって家族連れで賑わう飲食店や雑貨屋を横目に少し早足になりながら進み、目当ての本屋を見つける。いつも本を買うときにはネットで済ませてしまうことが多いが、本屋をぶらつくのも好きだった。買いたい本が決まっているときには、タップ一つで次の日には自宅まで届いてしまうことが当たり前となったネットショップが便利だが、本屋に行けば思わぬ出会いを果たすことがある。表紙やあらすじ、タイトルで気になったものを片っ端から手に取ってしまうので、財布と相談しなければいけないのか難点だが。

 まずは前面に出されているコーナーからみていく。大体は映像化書籍で、中には映画版のカバーがかけられた限定品もあった。次に新書コーナーで好きな作家の新作が出ていないかをチェックして、最後に出版社別に並ぶ小説の棚に行き、平積みされたものをメインに物色する。冒険、SF、恋愛、ファンタジー。それぞれに小さな世界を詰め込んだ本が無数に広がる空間が心を弾ませる。気になる本を見つけてはあらすじを読み、候補を絞っていった。中学生のお小遣いではあまり多くは買えないし、自室の本棚のキャパシティを超えてしまうことも避けたい。最終的に3冊の本に絞り、レジの列に並んだときには本屋に入ってから2時間以上が経過していた。

 3冊の本が収められたビニール袋を揺らしながら外に出ると、湿った空気の匂いが鼻孔をかすめ、顔に冷たいものが当たったような気がした。手のひらを空に向けてしばらく待ってみると、小さな水滴がまばらに落ちる。雨が降り出したようだ。降っているのか降っていないのかもわからないような雨で、いつもなら傘を差さないで帰っていたところだが、今日は本がある。買ったばかりの本が濡れてしまうのは嫌だったので折り畳み傘を広げて歩き出す。

 暑い雲の裏から辛うじて照っていた日も落ちかけ、灰色が濃くなった街にちらほらと街灯が点き始める。賑やかな駅前と住宅街とを仕切るように広がる公園ではつい3時間ほど前までは老若男女が各々の休日を満喫している姿が散見されたが、雨も手伝ったのかもう人影はなかった。雨が木々の葉に当たり、濃くなった緑の匂いに誘われるがままに公園の敷居を跨ぐ。駅の方に行くときにたまに通り抜けていたいつもと変わらない公園だが、人が全くいないというだけでまるで初めて来た場所のように思えた。

 緑の多い区画を抜けると、遊具が置かれている開けた場所に出る。一歩足を踏み出すたびに水分を含んだ砂利が独特の音を立てるその場所を通り抜けようとした時、ふと違和感を感じて足を止める。霧のような細かい雨が視界を白ませる空間、風に押されてキィキィと音を立てるブランコの並びに、一つだけ黄色い影が座っている。一瞬、見てはいけないものを見てしまったのではないかと思って息を呑んだが、どうにもつい最近見た覚えのある黄色で、もしかして、と思った。

 足音が急に止んだことを不思議に思ったのか、黄色いポンチョ姿の顔がこちらに向けられる。やっぱり。

「あれ、佐川くん?どうしたのこんなとこで」

 この状況でそれを聞きたいのはむしろ僕の方だと思った。

「買い物」

 ブランコの柵の中へと歩み寄り、右手に下げていた本屋のビニール袋を持ち上げて見せると、なるほど、と納得したようだった。

「とりあえず、座ったら?」

 彼女が隣のブランコを指しながら言う。座面がプラスチックでできているブランコの表面は細かい水滴に覆われていて、とても座り心地が良さそうとは思えなかった。

「いや、いいよ、濡れるし」

「あ、そっか」

 雨の存在をたった今思い出したというふうに振る舞う彼女に、傘を差している自分の方が異常なのではないかとさえ思えてくる。

「高柳さんはこんなところで何してるの」

「うーん…散歩?」

 何故語尾が上がるのか。何故首を傾げているのか。

「てか、ソラでいいよ」

「え?」

 彼女の曖昧な返答に、散歩とは何かという思考の迷路に入りそうになったところで不意を突かれ、話の展開を理解できなかった。

「名前、タカヤナギサンって長くない?言いにくいし。自分でも噛みそう」

「ああ、名前か。うん、じゃあ、ソラ」

「うん、そっちの方がしっくりくる」

 ソラはそう言って満足げに頷く。

「なら僕も、呼び捨てでいいよ」

 別に呼び方なんてどうでもよかったが、一方だけ呼び捨てというのもなんだかフェアじゃない気がして、気づいたらそう口にしていた。ソラは一瞬、キョトンとした表情を浮かべると視線を泳がせながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

「あー…っと、ごめん、佐川くんって、名前、なんだったっけ」

 覚えられていなかった。たしかに自分もクラス全員のフルネームどころか顔を見てもクラスメイトだと認識できない可能性の高い人もいるし、そもそも目立つわけでもなく接点といえば席順が隣だということぐらいの僕が名字だけでも認知されていたことだって奇跡に近いだろう。それでも面と向かってそう言われるとかすり傷程度のショックはあるものだ。

「…優太だよ。佐川優太。優秀の優に太いで優太」

「優太か。優しそうな名前だね」

「テキトーかよ」

「ごめんて。おっけー、優太ね。よろしく優太」

そう言うとソラは右手を差し出した。初対面でもないのによろしくなんて変だと思ったが、こんなに長時間話すのは初めてだったし、教室ではいつも一人で大人しくしているイメージしかなかったクラスメイトがこんなに笑顔を見せるような人だとも思っていなかったし、初対面だと言われても納得してしまうような気がした。拒む理由もなかったので、右手に持っていた袋を折り畳み傘と共に左手で持ち、黄色いポンチョから伸ばされた手を取る。ソラの手は濡れていて、冷たかった。

「ふふ」

 謎の握手を交わすと、ソラが満足げに笑う。霧雨に白んだ灰色の世界で鮮やかな黄色を放つ、その姿はまるで冷たいコンクリートの隙間から茎を伸ばす

「タンポポ」

「え?」

 思わず声に出ていた。ソラが不思議そうな顔で僕を見上げている。

「あ、いや、そのポンチョ。タンポポみたいで主張激しいなって思って」

 全面蛍光黄色のポンチョは夜道でも目立ちそうだ。

「なにそれ、褒め言葉として受け取っておくよ」

 褒めたつもりも貶したつもりもなかったが、まあ何でもいいかと思う。

「さてと、私そろそろ帰らなくちゃ」

 ソラが唐突に立ち上がる。頭上でブランコの金具がぶつかり合う音が聞こえた。

「僕も」

 というかここでソラに会わなければとっくに帰っているところだったよ。という言葉は飲み込んでおく。

「じゃあ、また学校でね」

「うん、また」

 帰る方向は違うので道路へと出る道で別れる。午後からの気まぐれな外出だったはずなのに、なんだか濃い一日になってしまった。弱い雨がしぶとく降り続ける中、帰路を急ぐ。帰ったら休日のメインイベントその2、晩ご飯が待っているのだ。


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