雨に咲く蒲公英

茴香

I 

 朝から降り続ける雨は、午後になっても勢いを緩めることなく、湿った空気の充満する教室では先生が教科書を朗読する声だけが響く。

 ゴールデンウィーク前日、明日から始まる大型連休にクラス中の誰もが浮き足立っている中、酷く退屈な現代文の授業は昼食後の眠気を誘うには十分すぎた。

 教科書を持つ手が緩み、頭は舟を漕ぐ。もうだめだ、いっそ伏せて寝てしまおう。


「…わ……佐川さがわ!!」

「はいっ!…………?」

 身体中を走り抜けるような鋭い声で名前を呼ばれ、条件反射で返事をしてしまう。寝ぼけて靄がかかった脳では何が起きたのかわからなかったが、やがてクスクスと押し殺した声があちらこちらから聞こえて来ることに気づき、教壇に立つ先生からは鋭い視線が向けられていることから、居眠りを咎められたのだと理解した。

「……スミマセン」

 早くこの空気から抜け出したくてとりあえず謝っておく。クラス中の注目が集まっていることがなんだか恥ずかしく顔に熱が集中していくのを感じた。

「放課後職員室に来い」

 先生はそれだけ言うと何ごともなかったように授業を再開した。というか、この展開は何だ…?呼び出し…?授業中に居眠りなんて今までもあったけど呼び出しを食らうなんて人生で初めてだ。

 心の中で冷や汗を垂らしながらこの後に起きることを考えているとあっという間に5限、6限と時間が過ぎ、気づけば放課後を迎えていた。クラスのあちこちで小さなグループが連休の到来を喜び合っているが、職員室への呼び出しというイベントを控えた僕の心は未だ空にずっしりとのしかかっている灰色の乱層雲のように重かった。せめてもの反抗としてもう少しだけ机に張り付いて、少しでも時間を稼いでみよう。

優太ゆうた、やっちまったな」

 顔だけ上げて声のする方を見ると、ニヤニヤしながら近づいてくるのは小学校からの腐れ縁、田中たなか修也しゅうや。サッカー部で、それなりにカッコよくて、人好きのするタイプ。僕とは正反対だ。

「なんだよ、早く部活行けよ」

「どうせ雨だし、室内トレーニングだけだし気が乗らないんだよ」

 たしかに。これだけ雨が降っていてはグラウンドも使えない。屋外の部活は今日は中止か室内トレーニングになるのだろう。

「寝てただけで呼び出しなんて、いっちゃんよっぽど虫の居所が悪かったのかね」

「さあな……そろそろ行くわ」

 机を下げたいのだろう掃除当番からの視線が痛かったので無駄な抵抗もここまでかと観念し、立ち上がってそう言うと「おう、頑張れよ」なんて言って田中も教室を出て行った。


 どれだけ考えたって先生の思惑なんて分からず、重い足を引き摺るようにしてなんとか職員室に辿り着く。態々放課後に呼び出してまでお説教するのだろうか。

 意を決して扉をノックし、失礼します、と言って中に入る。密集した机の隙間から、パチパチとキーボードの弾かれる音が重なり合い、時々、プルプルと電話の受信音が響く。積み上げられた課題のような威圧感を放つ職員室は、生徒の僕にとって苦手な場所の一つだった。2年生の担任の島を見ると先生の姿はすぐに見つかった。近づいて行くと先生は僕に気づき、ノートパソコンを閉じて椅子をこちらに向ける。

「よく来たな」

 先生は悪巧みをするような顔で笑う。何を考えているのかは依然としてわからなかったが、少なくともお説教という雰囲気でもなさそうだった。

 伊月いつき先生。現代文の先生で、僕のクラスの担任。一部の生徒からは『いっちゃん』なんて呼ばれていたりもする。先生の中では比較的話しやすい方で、そもそも職員室に呼び出してまでお説教をするようなタイプでもない。だから余計に意図がわからなかった。

「呼び出されたら来るしかないじゃないですか」

 最早考えることをやめ、どうにでもなれと思った。そもそも先生の意図がわかったところでどうなるものでもない。なるがままに身を任せ、一刻も速く下校して連休に突入するのが得策だろう。

「潔いな。じゃあ早速本題だが、居眠りの罰としてお前に任務を課す」

 先生は芝居めいた口調でそう言うと、机の端に置かれていたビニールのかけられた茶封筒を取り、こちらに差し出してきた。

「任務…?」

 差し出された封筒を掴むと、その重さが腕にのしかかってくる。

「この封筒を高柳たかやなぎの家まで届けてくれ」

 タカヤナギ。高柳そら。人生歴十四年の僕が知っている高柳といえば一人だけだったため、その人物像がすぐに浮かんでくる。隣の席の女子だ。そういえば今日は欠席していた。

「なんで僕が…」

 態々僕に任せなくとも、もっと他に適任がいるだろうと思って問う。

「家の方向も大体同じだし、帰宅部だし、どうせ暇だろう」

 たしかに帰宅部だし、この後に特にやらなくてはいけないことがあるわけではないが、暇と言われると反論したくなる。帰宅部には常に、家に帰ると言う予定があるのだ。

「それに、俺の授業分の体力が余っているだろ?」

 先生がニヤリと笑う。痛いところをつかれた。

「…わかりました」

「よし、任せた。これ住所な。良いゴールデンウィークを」

 了承を示すと、先生は住所の書かれたメモ用紙を渡し、手をヒラヒラと振った。

 足早に職員室を出て、失礼しました、と呟くのを忘れずに扉を閉めると、思わずため息が溢れる。腕の中の封筒は、受け取った時よりもその重みを増しているようにさえ思える。連休前にとんだ任務を受けてしまった。


 室内トレーニングを行う運動部の掛け声が響く校舎を出ると、大分勢いは弱まったものの、雨が静かに降り続けていた。グラウンドには大きな水たまりがいくつもできていて、雨水を吸った土の上はいつもより歩きにくい。雨は嫌いではなかったが、段々と靴が浸水していく感覚や、ローファーの内側がざらついていくのには不快感を覚える。真っ直ぐ家に帰れないのが恨めしい。

 スマートフォンを取り出し、メモ用紙に書かれた住所をナビアプリに入力するとマップが表示される。たしかに学校からの大体の方角は自宅と同じだったが、近所というわけでもなさそうだった。大体、このご時世にこんなに簡単に他人の住所を教えてしまって良いものなのだろうか。法律だとか難しいことはよく知らないが、名前や電話番号、住所を簡単に明かしてはいけないということは小学生でも理解している。そもそもこの届け物は郵送ではいけなかったのか。手渡さなければいけないほど重要なものなのか。だったら一生徒の自分に任せていいものじゃないだろう。先生が自分で行けばよかったじゃないか。何も考えずに封筒を受け取ってしまったが、今更になって大量の疑問が脳内を満たしていく。

 やっぱりこの届け物を任されているのが自分であることにも納得がいかない。たしかに生徒の大半にとって放課後には部活動があるのだろうし、帰宅部の僕が暇人判定を受けたのかもしれないが、高柳空とは友達というわけでもない。中学2年生に進級して、初めて同じクラスになった高柳空とは4月中ずっと席が隣同士だったものの、必要最低限の言葉しか交わしたことはない。僕は誰彼構わず会話を展開していけるようなコミュニケーション能力を持ち合わせてはいなかったし、彼女も同じようだった。女子はみんなクラス内で小さなグループを作り、どこか特定のグループに所属して行動しているような気がしていたが、高柳空はどのグループにも属すことなく、いつも自分の席で読書をしているか、外を眺めているか、宿題をしている、そんな印象があった。あまり他人のことには興味がなかったが、隣の席ともなると嫌でもその姿は目に入ってくる。そのおかげでまだクラス全員のことを把握し切れていないこの時期にも、名前だけでその顔を思い浮かべることはできた。でも、その程度の認識だ。ましてや相手は女子だし、普通こういうときは同じ女子が任されるものではないのだろうか。今となってはそんな疑問をぶつけることもできないのだが。

 そんな不満を募らせているうちに、手の中のスマートフォンが震え、ナビアプリは目的地周辺を示していた。着いた場所は閑静な住宅街で、少し進んだ先には高柳と書かれた表札が見える。見える限りでは周囲に同じ表札の家はないし、おそらくはここが高柳空の家だろう。ここまできて急に緊張がこみ上げてくる。同級生の家に行くなんて、思えば初めての体験だった。インターホンを押して親が出てきたらどう説明すれば良いのだろう。雨に濡れた指がインターホンを押すのを躊躇する。挨拶はこんにちはかこんばんはか、いつもならどうでもいいと思うことも、こんな状況では嫌に気になってしまう。

 しかしこのままずっと家の前に立っているわけにもいかない。恐る恐るインターホンを押すと軽快な音が響く。通話がオンになるブツッっという音と、扉の中からの返答を何度も唾を飲み込みながら待つ。しかし1分、2分と時間だけが過ぎ、一向に家の主が出てくる様子はない。不在だったのだろうか。少なくとも学校を休んでいる高柳空はいるはずだと思ったが、もしかしたら具合が悪くて寝ているのかもしれない。誰も出てこなかったことに内心安堵しつつ、バッグから届け物の封筒を取り出す。本人に会うことができなかった今、これをどうすればいいのだろうか。郵便受けに入れておけば気づいてもらえるだろうか。

 ビニールのかかったA4サイズの封筒を眺め、他にやりようもないので仕方ないと納得し、郵便受けに封筒を入れようとしたとき、背後から声がかかった。

「うちに何かご用ですか?」

 振り返るとそこには、黄色いポンチョに身を包んだ高柳空が立っていた。思わぬ登場の仕方に唖然としてしまう。病欠していたはずなのに出歩いていていいのか。しかもこんな雨の中。

「…………………あ、佐川くん…だっけ?」

 数秒、考えるような素振りをみせた後、彼女は思いついたように言う。とりあえず不審者だとは思われなかったようで安心した。まあ制服着てるし、大丈夫か。それどころか認知されていたことに驚いた。

「えっと、うん、伊月先生に届け物頼まれて」

 ぎこちない動きで封筒を差し出す。傘を失った封筒の表面についた水滴で、雨が霧状に変化していたことに気付いた。

「ありがと。なんだろ、宿題とかかな。……………………あー…そういえばゴールデンウィークだったっけ…」

 濡れた手で封筒を受け取り、少し開けると中を覗き込み苦虫を噛み潰したような表情でそう呟いた。そういえば、ゴールデンウィーク中の宿題ということで今日は各科目から大量のプレゼントがあったんだっけ。

「ごめんね、わざわざ来てもらって。えっと…上がってく?」

 彼女もこの状況をどうすればいいのかわからないようで、暗中模索するようにそう聞いてくる。恐る恐るといったような空気に、なんだかこちらが申し訳ない気持ちになってきた。

「あ、いや、帰るよ」

「そっか、ほんとにありがとね。じゃあ、またね」

「うん、また」

 ぎこちなさは抜けないまま、挨拶を交わすと高柳空は自宅の方へと歩き出す。すれ違う瞬間、ふと先程から気になっていたことを聞いてみようと思った。

「あの!…体調は、もういいの?」

 思ったより大きな声が出てしまって言葉が尻すぼみになる。ただの好奇心のようなものだった。家とは反対側から現れた彼女はとても体調が悪いようには思えなかったし、もう良くなったのだとしても、病み上がりで態々ポンチョを着て雨に打たれに行くようなこともないだろう、と思ったら少し気になってしまったのだ。しかし口に出してしまってから、特別仲の良いわけでもない同級生が聞くことでもなかったと思った。

 黄色いポンチョ姿が歩みを止め、こちらを振り向く。ポンチョの裾から飛沫が跳ねた。

 声をかけられるとは思っていなかったのだろう、少し驚いたような顔が向けられる。先程よりも近い距離で見える色素の薄い茶色の瞳には、傘を持つ僕の姿が映っている。彼女が口を開くまでの数秒が酷く長く感じられた。

「ああ、うん、大丈夫。ありがとう」

 そう言って笑い、今度こそと家に向かって去っていく彼女になんだか引っかかりを覚えた。もしかしたらサボっていただけなのかもしれないし、咎められたように感じたかもしれない。悪いことをしてしまったような気持ちになる。でも、まあ、とにかく、これで任務は終わった。やっと家に帰れる。

 いつのまにか雨は降っているのか降っていないのかもわからないくらいの強さになっていたので、傘は畳んで帰路についた。

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