第6話-a 独白
あれは、あの小さいゴブリンは何者なのか。
時々ふと思うことがある。
朝の馬の世話からもどるのが遅いと思い、外へでてみると、美しいものをみたというように朝日を見つめただじっと立ちすくむ姿を見かけたことがあった。みたこともないというように夜空の星々を眺め、風にはためく真っ白なシーツに嬉しげに笑い、風の吹く草原を走り回り、重たげに揺れる麦畑を見つめている。
あまりにも当たり前のことに、何をあんなにも心惹かれるのか私にはわからない。
そのくせ動物を捌くのを初めて見たときは顔を背け、どこにでもいるようなちっぽけな虫を恐れ、町の中での怒鳴りあいに首を竦め、動物の悲鳴に耳をふさぐ。
ゴブリンとして生きてきたくせに、なぜあんなにも血や争いを厭い、ちっぽけな虫を恐れるのか私にはわからない。
毎日帰ってくると必ず手を洗い、毎晩飽きもせず部屋の掃除をし、来る日も来る日も体を洗い清め、雨の日には泥で汚れることを嫌がる。
あれほど綺麗好きなヤツを私は他に知らない。
教えた言葉を一人小さく復唱し、どんなことも詳しく知りたがり、戯れに与えた弓を繰り返し練習し、馬の世話を進んでし、努力を怠らず、仕事を嫌がらず、覚えることに貪欲だった。
あれほど勤勉な者を私は他に知らない。
日常の力仕事や弓の扱いや魔法のような、当たり前のことに大げさにしかし本心から驚き、そして尊敬のまなざしを向け、息子のおさがりのぼろの服を着せてやると嬉しそうに感謝の言葉を述べる。
あれほど素直な者を私は他に知らない。
どこにでも咲いているような雑草の花を大事そうに育て、何の益もないような死にかけの生き物を助け、赤の他人のために小さな贈り物を用意し、私の小さな傷すら心配し、知り合いでも何でもない私の命を救おうとした。
……あれほど優しい者を私は他に知らない。
いつか、夕日がはるか大地の向こうに沈むのを草原の中で眺めている姿をみた。農地の仕事が終わって、ふと思いついてアオバを探しにでたときのことだった。
背の高い草に隠れるくらい小さい体で、草の茂みの中からひょっこり顔をだして、ただただずっと日が沈むさまを見つめている後ろ姿を見かけた。
私はなんとなく声を掛けづらくて、離れたところで、アイツの気のすむまで待とうと思った。待たなくてはならないと、その時なぜだかそう思ったのだ。
私が見ていると、ふっと嬉しそうに、本当に嬉しそうに誰もいない後ろへと、まるでそこに誰かが立っているかのように、優しく振り返ったのをみた。両手を広げ、向こうに、地平の向こうに何か素晴らしいものがあるのだという風な仕草をしながら。
私の目にはただ当たり前の夕日が沈んでいく景色しか見えなかった。山の麓、広い大地がどこまでも広がって、川や森や草原があり、その間を王都へ向けて細い道が続いていく。その向こうには海と呼ばれる巨大な水たまりがあるらしい。どこにでもあるような、長年見続けてきた変わり映えのしない景色だった。
そして、アオバは夕日を指さしながら振り向いた直後、すぐにそこに誰もいないのを見つけて、顔を苦しそうにゆがめる。
素晴らしい夢から覚めた後のように、アオバが大きく肩を落としたのが分かった。そうして、再び夕日に向き直ると、静かにそこに佇んでいた。
ひとりぼっちで……。
その時私にはわかったのだ。見えない誰かを探して視線をさまよわせるのをみたとき。
あぁ、こいつも俺と同じで独りぼっちなのだと。
そして同時に、アオバが自分とは違い、本当の意味で全くの孤独なのだと、唐突に悟ったのだ。
周りには知り合いはおろか、同じ種族の同胞さえおらず、言葉の通じる相手もおらず、心を通わせる相手もいない。
悲しみも喜びも、日常の些細なことさえ心から共有してくれる人が、真に自分のことを理解してくれる人が、あいつにはいない。
そして、アオバの勤勉さは、生きるのに必死であることの裏返しなのだと、ふっと思った。
私がアオバを自分の家に受け入れたのは本当にきまぐれだった。
ぼんやりと意識を取り戻したとき、傍に誰かがいることに気付いた。夢現の中で妻と息子との懐かしい日々を思い出していた。だから、流行り病で苦しむ私をかいがいしく看病してくれている妻の姿を探した。傍にいてくれているような気がしていた。
はっきりと目が覚めたときには部屋には誰もいなかった。荒く繰り返される呼吸を抑えながら耳を澄ましてみても、家の中に他の誰かがいる気配はなかった。
けれど、私の着ていた服は着替えさせられ、私の上には毛布の代わりに、しまっていた冬用の服と藁とがいっぱいにかけられていた。そして、ベッドのわきには皿に乗った一匹の焼き魚があった。
私はそれがおせっかいなあのアナンヤによるものだと思ったのだ。いつものようにふらりと世間話を浴びせかけにやってきて、私が出てこないのを不審に思い家の中に勝手に上がり込んだのだろう。そうして、寝込んでいる私をみつけて看病してくれたのだろうと。その時は、体調が回復したらお礼にいかなくてはと思っていた。
なのに、日が沈むと同時にやってきたのがゴブリンだとは想像もしていなかった。そいつは、勝手知ったるように俺の二口三口程度しか口をつけていない魚をさげると、かいがいしく世話をし、熱を測り、寝たふりをしている俺の背中をさすったり、体勢を変えたりしたのだった。
そんなことは母親にしかされたことがなかった。
ただただ俺は驚いて、まだ夢をみているのかと思った。
何かの意図があるのかとじっと様子を窺ってみたが、そいつは弱っている俺を襲うというようなようすもみせず、人間のようにふるまい、母親が子供を看病するように一晩中ベッドの横に腰かけて、じっと見守っていたのだ。
そうして明け方と思われるころに、ベッドの脇の机にまたも焼き魚を置いて、もう一度俺の熱を確かめ、呼吸の様子を確認し、安堵したように一つ深い息を吐いたのだ。
なぜだか俺は唐突に、おとぎ話の妖精が一仕事終えて消えていくように、そいつももうここからいなくなってしまうような気がした。
だから俺は、気取られないように、できるだけ普通に見えるように取り繕いながら、勇気をだしてそいつに声をかけたのだ。
あの驚きようといったら、まだ思い出しても笑える。
あんな風に飛び上がって驚く姿を初めてみた。臆病な野生動物を彷彿とさせた。
俺は笑わないように顔の筋肉を緊張させなくてはならなかった。
そうしてアイツ、ゴブリンのアオバとの奇妙な共同生活が始まった。
もちろん、おかしな行動が見えたらすぐにでも切り捨てるつもりだった。けれど、アオバはこちらの懸念するような問題を起こすことなく、徐々に自分との生活になじんでいった。
病気の私の世話をしているようすから、人と暮らしたことがあるようで、人の考え方が分かっているかのようなふるまいをしてみせた。なのに知らないことがあまりにも多く、それが私にちぐはぐな印象を与えた。
アオバの賢さはともに生活をしてすぐに分かった。私の食事の前のお祈りの言葉を聞き、真似して同じように、食事に手を付ける前に復唱しようとしたのだ。お祈りが何のためになされるのかを分かっているように、真剣なまなざしでつっかえつっかえ唱えて見せた。
私はおもしろくなって色々な言葉を語って聞かせた。そのたびに一生懸命に、忘れまいとするように小さく復唱し、しばらくするとその言葉を適切なタイミングで使うのだ。
まだきちんとした会話はできないが、それも時間の問題だろうと踏んでいる。
同じように日常の決まり事も、毎日の日課も、ジレの世話もすぐにそつなくこなすようになった。サボったり手を抜くというような誰もがすることも一切しないのだ。まるで子供のように無邪気なのに、人間のできた大人のような振る舞いをするのが、さらに私には不可思議だった。
アオバと同居してから初めて我が家にアナンヤとその悪ガキども二人がやってきたとき、私は内心冷や冷やしていた。しかし私の心配をよそに、あいつは人目を避けてじっと奥の部屋にこもっていた。まるで、自分がここにいてはいけない存在であることを十分に理解しているようだった。
あの三人は我が家に頻繁にやってくる。特に意味もなく、唐突に。アオバは二人の子供のことをとても気にしているのがわかった。最初は友達が欲しいのかと思っていたが、そうではないのだと徐々にわかるようになった。
まるで小さい子供を慈しむように、三人が帰る後ろ姿を見送った。時には二人の兄妹のために森に咲く花や動物の毛皮を贈ろうとすることもあるほどだった。
私が知っているゴブリンは小さく獰猛で悪賢く、人を容赦なく襲う種族だった。集団で行動し、基本的には人里から離れたところに集落を作って隠れて暮らしている。時折、辺境の農村が襲われることもあり、実際に若いころは討伐に駆り出されたこともあった。
ここスツルヌールは標高が高く冬は厳しい寒さになるため、寒さに対する備えのできないゴブリンはほとんど見かけることのない地域だ。だからこそ私はアオバを初めて見たとき驚いたのだが。仲間とはぐれたのか、群れから追い出されたのかはわからないが、あの優しく臆病な性格では、ゴブリンとして生きていくことは難しいだろうと思う。
私がアオバに対して気になっていることは、病的に綺麗好きであるということを別にして、ゴブリンとは思えない知性の片鱗がうかがえることである。
教えたことはすぐに覚えるだけでなく、こちらの気持ちを汲み取って適切な行動をしているように見える。こうして欲しい、あれが必要だ、と思っているときに、思いがけず先回りしてアオバがしてくれることが時々あった。
教えていないことも良く見ていて、気づくと同じように日常の中で実行している。そこらの子供よりもよっぽど賢く、子供というよりも大人の振る舞いだと思えた。いや、聞き分けのない大人よりも、よっぽど模範的な大人の振る舞いをしてみせるのだ。神の尊い教えを説く聖職者ですら、そんな振る舞いをする者は稀であった。
そんなことが実際に起こりえるのかと自分に問いかけるが、目の前でそれを実行されてしまうのだから、私自身受け入れる以外にはないのだけれど、それでも、こいつは何者なのだろうと思うことはやめられない。
私はいつしか、この片田舎の何も起こらない平穏な町での暮らしが、退屈だとは思わなくなっていた。
アオバと出会わせてくれた神の配剤を静かに感じていた。
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