第5話-b 森の戦い
一瞬視線が逸れた瞬間に巨体が数メートルを一跨ぎする。彼を警戒しているのか強引には襲って来なかった。先の一件で何をしてくるのかを見定めようとしているのがわかった。
その慎重さのおかげでアオバは命拾いしたと思った。一息に飛び掛かられていたら為す術もなかった。
内心安堵しながら一息で近づかれる心配のない距離を保つ。視線を決して外さないように気をつけながら、足元の拳大の石をいくつか拾い、腰の皮袋にしまう。かすかに震える指先に力を込めて無理やり抑える。
ちらっとナイフを失ってしまっことが脳裏にひらめいたが、接近戦を強いられた段階で自分の負けが確定してしまうだろうことに思い至る。
自分から攻め込む手段も度胸もないため、じりじりと近づこうとするのに合わせて、間合いを維持しながら円を描くように互いに移動する。彼の方からできることはなにもないため、自分に有利な状況で相手が動くのを待つことしかできなかった。
そうしてしばらくの時間が過ぎ去り、ついに向こうが動いた。長い膠着状態にしびれを切らした獣が、四本の足に力を籠めるのがわかった。いつ飛び出してきても対応できるように重心を低くして構える。
「え……?」
豹のような獣が一歩を踏み出すのが確かに見えた。すると突如足元の地面が揺れるのを感じ、体がふわりと浮き上がるような感覚に襲われ、体の均衡が失われた。
その瞬間猛然と突進してくる巨体が目に映る。咄嗟に両足に力を込めるが、浮いた上半身が意識についてこれない。体勢を立て直すことが間に合わないことを悟ると、一か八か、そのまま上半身を後ろに倒す。空いている両手を伸ばしながら両足で地面を蹴り上げ、地についた両腕に力を込めて後方へ飛び上がった。
同時に足元に降り積もっていた枯れ葉を巻き上げた。
突然蹴り上げられた両足と大量に巻き上げられた落ち葉で目標を見失った顎が何もない空間に喰らいつく。
その瞬間アオバは今しかないと確信した。近接戦では勝ち目がないという考えを捨て去ると、即座に地を蹴って間合いを詰める。同時に矢筒から一本矢を掴み取ると、掌に握り込み、大きく見開かれた獣の目に力一杯打ち下ろした。
アオバは矢尻が柔らかな眼球に潜り込み、脳髄へと達する感触と獣の断末魔の咆哮を思い描いていた。しかし、実際に掌に伝わってきた感触は全くことなり、深く振り下ろされるはずの腕は途中で止まり、耳に届いた音は想像するよりもずっと短い悲鳴だった。
手の下では確かに矢が突き刺さっていたが、それは閉じられた瞼の隙間に辛うじて入り込んでいるだけだった。赤い血が一筋流れ落ちるのを見た。
脳裏にクリシュナが魔法を実演してくれた日の光景が映し出された。ナイフを軽く走らせた掌に傷がついていなかった……。
呆然とする彼の耳に低い怒りに満ちた唸り声が届く。ハッとして顔を上げると、悪寒に襲われて後方へ飛び退ろうとした。
しかし、一瞬遅く、太く鋭い爪の飛び出した前足が彼の体を側面から叩きつけた。
鋭利な爪に左腕を切り裂かれ、衝撃に横向きに弾き飛ばされ、アオバは数メートル宙を飛び、地面に叩きつけられた。幾度か転げて地に大小の血痕をを撒き散らしながら、俯せの状態で止まった。
一瞬、衝撃で頭が真っ白になった。上下の区別もなく、自分が今生きているのか死んでいるのかも、とっさにはわからなかった。痛みもなかった。ただ、衝撃の余韻だけがあった。
正常な思考を取り戻すのに数秒かかった。彼が傷のない右手を地について起き上がると、獣はいまだ目の痛みに注意を奪われている。
思考がはっきりするにつれて全身と左腕の痛みが襲ってきた。あまりの激痛に顔をしかめる。立ち上がるのもやっとだったが、声を決してだすまいと歯を食いしばった。今の内に少しでも距離を稼がなくてはならない。
ふらつく足に再度力をこめる。よろけながらなんとか膝を支えにして上体を持ち上げる。ゆっくりとではあったが、しっかりと立ち上がったことを確認すると、少しずつ走り出した。痛みでなかなか速度は上がらない。それでも、自分を叱咤して徐々に勢いをましていく。
アオバは自分の読みの甘さを罵倒した。いけると思ったけれど、間違いだった。いや、それよりも考えなくてはならないのは先ほどのことだった。彼の一撃を、致命傷になるはずだった攻撃を阻んだのは、間違いなく魔法だった。クリシュナが見せてくれたものと同じものだと彼にはわかった。
動物が魔法を?
彼の頭の中を疑問符が埋め尽くす。
自分の攻撃を途中で止められたこと、突然地震が起きたことを思い出した。
そして、彼は過去の出来事に思い当たった。
兎や狐のような小動物の思いもかけない瞬発力。助けた鳥が空へ飛び上がるときの逆巻く風。豹に似た獣が音もなく一瞬で数メートルの距離を移動する身軽さ。突如起きた地震。
あれらが全て魔法だったのだとしたら。
アオバはただ、この世界の動物たちが自分の予想よりも俊敏なのだと思っていた。前世では実際に野生動物を目にすることもなかったため、予想を超える身体能力を持っていても、それが普通なのだと思い込んでいた。軽々と跳躍するのは足腰が丈夫だからで、手のひらに強い風の圧力を感じたのも、翼の力が強いだけだと思っていた。
左腕をかばいながら、上半身がぶれるのを必死でこらえながら、彼は走る。後ろから自分を追いかける足音が聞こえるような気がしていた。
ちりちりとした尚早が首筋を焼く。
アオバは思考を続けながらひた走る。もう周囲に気を配る余裕はなかった。ただ、追いつかれないように後ろだけを気にしながら、前へ前へと進んだ。
魔法などというわけもわからない力を持つ相手にどうやって立ち向かえばいいのかわからなかった。左目をつぶすことはできたが、致命傷とは呼べない。返って相手を怒らせただけだった。さらに、自分自身も大けがを負ってしまった。こんな状態でどうやって戦うことができるのか、彼には想像もつかなかった。
少しずつ呼吸が上がり始めている。荒い息遣いが頭蓋に響いて煩い。
森の木々が密集して生えているその隙間を縫うようにして走る。わざと狭いところや、細い若木のそばを通り抜けるようにしてはしる。体の小さいアオバは問題なく進める場所も、獣にしてみれば巨体が邪魔をし上手く走ることができない。不安定な足場の場所をわざと通り、吹き溜まりに落ち葉の溜まった場所を飛び越え、背後の獣を攪乱する。そうでもしなければ、すぐに追いつかれてしまうからだ。最大速度を出させないことと、まっすぐに走らせないことが重要だった。
それでも限界はやってくる。アオバのほうは追いつかれないようにかつ、体力の配分を考えながら必死に走らねばならなかったからだ。
痛みを抱えて走り続ける。
腕の傷が深い。思った以上に血が流れてしまったかもしれない。
アオバは足を動かしながらアナンヤとその二人の兄妹のことを思い出していた。楽しそうな声が耳の奥に響いた。長話をするアナンヤと、暇を持て余しておいかけっこをする二人。
次いでクリシュナの顔が浮かぶ。多くを語らないが、その頼りがいのある背中と、毎晩自分に言葉を教えようとするときの低い声。口の端を持ち上げて小さく笑う表情。
背後からうなり声が聞こえたような気がした。葉ずれの音が近づいてくる。
妻と息子の顔を思い出す。秋の陽ざしのような柔らかな光の向こうで手を振っている。自分を呼んでいるのだとアオバは思った。
気づいたときには、巨獣は背後まで迫っていた。わずかに頭を回して後ろを確認する。もう大きく開かれた口が真後ろまで迫っていた。低い唸り声が顎から零れ落ちる。
足は限界まで動かしている。これ以上はもう速度を上げられない。左右に躱せるほどの余裕もない。限界まで喉が空気を求めている。
苦しい。苦しい。苦しい。痛い。
細い木の枝が彼の体に無数の小さな傷をつけていく。石や倒木、硬い地面を踏みしめた足が限界を訴える。確認はしていないが、両足はもうぼろぼろになっているのだろう。
アオバがもうダメだと思ったとき、息子が初めて歩いた日のことを唐突に思い出した。数歩歩いて転んで、泣きながらまた立ち上がったことを。
ふっと息が漏れ、口の端がわずかに持ち上がる。こんな状況の最中に、彼は我知らず笑っていた。
そうして、笑みが表情から消えたとき。
速度を落としかけた足に今一度力を込める。両腕を大きく振る。閉じられていた目を見開いてまっすぐに前を見る。
「父さん、上手くやれるか分からないけれど、最後まで頑張ってみるから。」
息を吐き出しからっぽになった肺に、限界まで空気を吸い込んだ。
そのとき全身が一度、大きく脈打つように震えた。全身が一瞬熱くなった。
アオバはどう対処するべきかを考えながらひた走り、先刻見つけた巨木が彼の目に映った。一目散にそこを目指して駆けた。特に深く考えていたわけではなかったが、何かがあるように思われた。
その間も追いつかれないように、方向転換を織り交ぜたり、後方へ拾った石を投げつけて牽制したりといった、小手先の悪あがきをしながら、それではもはや時間稼ぎもできないとわかっていた。体力が限界に近く、藁にもすがるような気持ちだった。
古木が目前に迫ったとき、背後の気配が変わったのが分かる。狙いを定め食らいつく瞬間を窺っているのだと思った。
アオバは一直線に古木に走る。何かないか視線をさまよわせると、ひときわ大きな唸り声が耳に届いた。
とっさにアオバは思い切り跳躍する。どこにそんな力が残っていたのか、思いのほか高く飛び上がった。そのまま太い幹を蹴って方向転換する。その時、獣が太く鋭い爪を木の幹に打ち付けるのをみた。木の表面に残された爪痕を視界の炭でとらえる。あの一撃をもらっていたら、内臓を持っていかれていた恐怖にひやりとする。
方向転換し、上手く着地すると、再び走り出す。すると風に乗って腐った水の匂いが漂ってきた。徐々に臭気が強くなっていく。ヘドロの匂い、淀んだ水の匂い。
最後の力を振り絞って走る。追いつかれないよう撹乱することも忘れ真っ直ぐにひた走る。そこに辿り着いたと思った瞬間に、背中を爪で切り裂かれた。爪が引っ掛かった程度だっけれど、アオバはもんどり打って沼の淵に転がった。
鮮血が鮮やかに飛び散った。
痛みに顔をしかめながら、決して視線は逸らすまいと獣を睨みつける。彼を必要以上に警戒しているため、気を抜かなければ時間を稼げるはずだ。
彼はゆっくりと体勢を変え、両膝立ちになる。そしていく筋か流れる背中の血を右手で拭い、大きく払った。それを二度三度と繰り返す。
血は宙を舞って沼へと消えた。
そうして弓に矢をつがえる。もう後はない。矢筒には残り一本の矢。
獣が重心を低くするのが見えた。
来る。
しなやかな両の前足に力が込められ、先程と同じく地が震えた。沼の淵に波が立つ。
しかし彼はもう驚かなかった。こうなる可能性を見越して膝立ちになったのだから。咄嗟に逃げることのできない体勢をとったのは振動をいなすため。逃げることを捨てて、この一撃に全てを賭けた。
次の瞬間、視界から巨体が消えたように見えた。
落ち着いて頭と一緒に弓を上向ける。空中を弧を描いて跳躍する影が見えた。真っ直ぐに大きく開かれた口に狙いをつける。
矢を放とうとしたとき、突如背後の沼から水しぶきが上がった。予想していなかった事態にアオバが振り返ると、巨大な粘液の塊が水面から顔を出していた。自分に襲い掛からんと飛び上がっていた獣も驚き、地に着地するのが視界の端に見えた。
これはアオバにも予想外のことだった。汚い水辺に棲息するスライムがいることを期待してこの場所へ向かったのは確かであったが、これほど巨大であるとは考えていなかったのだ。
もともとの作戦は、この戦いに第三者であるスライムを呼び込み、状況をひっくり返そうというものだった。不確定要素が多すぎたが、生きて帰れる可能性が残されている手段は、彼にはこれしか思いつかなかったのだ。
しかし辿り着いた時にはスライムの姿は見えず、探す余裕もなかった。そのためすぐに作戦を切り替えねばならかった。自分の命を犠牲にしてでも致命傷を与えると。
眼前でぬめぬめと蠕動するその姿に嫌悪感が募った。
豹に似た獣の方は新たに現れた怪物に完全に意識を奪われ、威嚇を繰り返している。
それを見てアオバは静かに獣の背後に廻った。そして、すぐに切り裂かれ血に塗れボロ切れとなった上着を破ると、矢に結びつけて力一杯射た。矢は獣の背に突き刺さり、獣が咆哮をあげた。
すると、獲物を探すように、体液を触手のようにしてゆっくりと動かしていた巨大なスライムが、巨獣目掛けて伸び上がり、押しつぶそうとした。
豹に似た獣がそれを見て避けようとする前に、アオバが最後の矢をその後ろ足に向けて放った。突然の痛みに悲鳴を上げて地に伏した上から粘液が降り注いだ。
声もなく飲み込まれた獣を取り込んだまま、スライムが静かに沼の底へと消えていくのを、呆然と見つめていた。
後には静寂だけが残った。
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