第4話-b 山の暮らし

 もう一月近くたった。

 けれどアオバにはこの男の行動をうまく理解することができないでいた。

 男はクリシュナと言った。

 あの日、アオバからおそるおそる名前を伝えると、一瞬目を見開いて、すぐに目を細めるようにして彼を見つめた。それからすぐに事もなげに名乗ったのだ。ぎこちなさはあったが、それでも彼はアオバを人として接しようとする努力が見られた。躾の行き届いていない動物に接するようなものではあったが、それでもその態度は好ましいもののように見えた。

 アオバのためのベッドを設え、子ども用の服に着替えさせ、食事の前の祈りの言葉も教えてくれた。それはギルレン親子が食事の前に呟いていた文句よりも長く真剣なものだった。

 クリシュナとの生活は単調の一言に尽きる。規則正しい生活が日々繰り返された。彼は朝日とともに目覚め、朝食をとって外の農地へでかけ、夕暮れとともに家に戻ってきて夕食を食べ、そこからさらに道具の整備をしたり何か道具を作ったりしてから眠る。これが恐らくここに暮らす人々の変わらない日々の営みだろうと思われた。日が暮れると人々は家の扉を閉ざし、夜外をうろつく人影はほとんど見られなかった。

 アオバもまた、クリシュナとともに朝食を食べ、男が日中働く間、自分自身は森や川で時間をつぶし、夕暮れとともに獲物を携えて戻り、夕食を食べる、その繰り返しだった。

 最初は何か裏があるのでは、とも思っていたが、これだけの長い間自分を野放しにする理由もないということから、アオバはクリシュナに対する警戒を解いていた。

 そして、この暮らしにすっかり慣れてくると、今度はこうして普通に屋根の下で暮らせていることに対する戸惑いを覚えずにはいられなかった。なぜ自分を好きにさせておくのか理由を聞いてみたかったが、言葉を話すことができないためにそれはまだ叶っていない。

 しかし、アオバはあの日の言葉を胸に、今を精一杯生きてみようと心に決めていた。


 クリシュナにしてみれば冗談のつもりだったのだろう。あの日、戯れに祈りの言葉をゆっくりと聞かせたら、思いがけずゴブリンであるアオバが同じように祈りの言葉をたどたどしく唱えてから食べるのを見たことで、何か思うところがあったのかもしれない。

 ともに生活していく中で、クリシュナはときどきじっと観察するような視線でもってアオバを見つめていることがあった。その視線を彼は決して見逃さなかった。顔や手を洗うとき、ともに食事をとるとき、お湯で体をふくとき、部屋の床を掃いて食卓や長椅子をぞうきんで掃除するとき、感謝や謝罪の言葉を述べるとき。

 それらの行動には、相手を不快な気持ちにすることで追い出されたくないという打算が確かに存在することをアオバは否定しない。自分のためなら人の善意を利用する己の卑しさを彼は誤解していない。けれども、それでも、彼の行動や言葉には、こうしてゴブリンである自分に好き勝手させてくれるクリシュナの懐の深さに対する感謝の気持ちと、この僥倖に対する感謝の気持ちはまぎれもなく存在していた。


 クリシュナはアオバにまるで子供にそうするときのように、忍耐強く言葉を教えてくれる。そして彼が一つ言葉を覚えると、また新しい言葉をゆっくりと発音して聞かせてくれた。アオバとしては、あまりにも幼い子供扱いをされているようで、落ち着かない気持ちになったが仕方ないとも思っていた。

 しかし彼のおかげで日々新しい言葉を覚えていっているのは事実であった。今や挨拶と日常的に使う物の名前はだいたい言えるようになっていた。それでも、実際に存在するものの名前と違い、感情や時間のような目に見えないものを表現する言葉、発言に微妙な意味合いを添える副詞の類は理解することが格段に難しかった。

 はやく文章で会話ができるようになるために、できるだけ多くの人の会話を聞かなくてはいけないと考えていたが、クリシュナは基本的に無口で、頻繁にはアオバに話しかけるということをしなかった。また、彼らの住まいが町の中心から離れたところにあり、同時に人目を避けて生活しているために、表立って人々の会話を聞く機会も持てず、もどかしい日々を送っていた。


 アオバがこの生活で一番気を付けていることは、同様にクリシュナが気を付けていることでもあるが、人の目に触れないことだった。これはやっかいなことの一つだった。アオバが想像していた通り、この集落の人々はみな親密な関係を築いており、ときおりふらりと勝手にクリシュナの家に入ってくるのだった。

 クリシュナが人々から好かれているのか、頼りにされているのかはわからないが、朝となく夕となく、村人が向こうから会いにやってくることが多かった。笑いながら談笑していることもあれば、顔を突き合わせて何事かを真剣に話し合っている姿もよく見かけた。

 アオバは耳の良さのおかげで、足音を忍ばせて接近するのでもない限り、前もって気づくことができたが、それでも常に周りの音に注意しなくてはならないというのは、苦労であった。

 特に頻繁にやってくるのがアナンヤという名前の太った女性だった。彼女は三四日に一度はおすそわけをもってやってくる。そして長々と話をして帰っていく。

 驚いたことに、クリシュナはそんな無駄話を嫌がるでもなく聞いていた。口数少なくはあったが。

 時に彼女は子供を二人連れてきた。男の子と女の子で、名前はそれぞれバンクットとサラエ。バンクットは声が大きく元気でいたずら好きな子供だった。バンクットの妹のサラエは、舌足らずなしゃべり方で、こちらも兄に負けず劣らずおてんばな女の子だった。

 この二人がくると本当に騒がしい。勝手に家に上がり込んで走り回る。アナンヤは二人を時々叱る程度で、ほとんどは自分のおしゃべりに夢中な場合が多い。さすがに、勝手に扉を開けて奥の部屋に行こうとすると叱って止めさせるけれど、その二人がいるときはアオバは基本奥に引っ込むことが多かった。そのため実は一度もアナンヤの顔も兄妹の顔もみたことはなかった。

 耳に届く二人の幼い兄妹の声から、どんな子だろうと想像すると、その想像の姿が彼の心の中で徐々に明確な形を持っていった。彼らの子供らしさは寂しい心をいつも和ませてくれた。


 アオバがこの世界に来て最も驚いたことは、みたこともない奇怪な生き物と獣人とである。人間以外にも知性ある生き物が存在し、集落を形成しているという事実は彼に衝撃を与えたし、人間と獣人とはどのように均衡をたもっているのか、興味深い問題だった。また、今までに出会ったマカラやスライム、巨大な昆虫のような危険な生き物のことも、できる限り知らなくてはならないと考えていた。幸い、この村の周囲ではまだ危険な生き物に出会ったことはなかったが。

 さらに、彼が衝撃を受けたのは、二人が一緒に暮らすようになってからのことだった。ある日アオバが夕暮れとともに帰ってくると、クリシュナが暖炉に向かってしゃがみ込んでいた。夕食のために火を起こすのだと思い見ていると、クリシュナの指先に小さな火がともり、彼はそれを火種に着火した。

 これにはアオバも驚きを隠せず、一人で大騒ぎをしてしまった。クリシュナはさも当たり前のことを、という顔をしていた。驚きあっけにとられているアオバに、彼は子供にやり方を見せて、やってみろという風に、もう一度実演してくれた。けれど、何をどうやっているのか彼にはさっぱり理解できなかった。

 それは魔法のように見えた。手品ではない。アオバが見様見真似で指先に意識を集中しても、彼の指先に火が灯ることはなかった。

 さらにクリシュナは手のひらから小さな風を起こしたり、皮膚に刃物を軽く当てて引き、傷ができない様を見せてくれたりもした。

 アオバにはどれもできなかった。代わりに彼に理解できたことは、どれも効果が著しく弱いということ、効果時間は長くないだろうということだった。火は生み出せても本当に小さくすぐに消えてしまう。風を起こしてもそれで何かができるというものでもなかった。せいぜい紙のように軽いものを吹き飛ばす程度だ。であるならば、団扇でも同様の効果は得られる。

 皮膚に切り傷がつかなかったことについては、魔法なのかどうかさえ判断がつかなかったが、一応魔法だとしても、彼には何をしているかわからず、起こっていることに対する感想以上のことは言いようがなかった。

 その夜、クリシュナは何度も彼に火を見せてくれたが、結局アオバにはただの一度も、小さな火の一つも生み出すことはできなかった。クリシュナは仕方がないという風に首を振って見せた。もしかしたら、アオバが毎日時間をかけて火おこしをしていることを、気にかけてくれた結果だったのかもしれない。

 火をおこすのに便利であるため、火の魔法はいつか使えるようになりたいと思った。



 アオバが昼間森や川で狩りの特訓をする場所はいつも同じというわけではない。なぜなら毎日たくさんの豚が森に放たれるからだ。豚を管理する数人が森の中を闊歩するため、それに合わせて場所を変えざるを得ないからだ。

 その日は、遺棄された炭焼き小屋のあるその場所までやってきた。そこは草に覆われてはいたが、周囲の木が切り倒され開けた土地になっている。忘れ去られたような場所で彼はこっそり特訓をしていた。

 クリシュナの畑を手伝おうにも、自分がのこのこ畑に出て行くわけにもいかず、夜間人が村に戻ってからこっそり手伝うにしても、農業については完全な門外漢であるため、やれることがなかった。日中すべきことがない彼が、人目もはばからずに時間をつぶせる場所はここしかなかった。

 最近練習しているのは弓矢と投石だった。魔法については分からないことが多すぎて保留にしていた。ゴブリンの自分には使えない可能性もあったからだ。できるようになるのかもわからないことに時間をかけるより、できることを上達させるほうがずっと有意義だと考えた。

 弓矢は獲物を狩るために身に着けたいと思い、練習を始めた。人間だったころに弓道部であったことも、これを練習しようと思った理由の一つだった。鳥や小型の獣も狩れるようになることが目標だった。しかし、彼が過去に練習していたのは固定された的へ矢を命中させる技術であり、今必要なのはそれを基本として、移動する獲物へ矢を当てる技術であった。

 鳥などの移動する獣の速さ、自分の射る矢の速さ、方向、重力と風による軌道の変化、彼我ひがの距離を計算して獲物の移動先を予測し当てる技術を身につける必要があるが、これが本当に難しく、また簡単に練習もできないので、上達速度は芳しくなかった。

 距離に関してはゴブリンの目の良さがとても役に立った。

 肝心の弓は物置小屋にしまってあるのを偶然見つけ、クリシュナから頂戴した。矢についても、矢じりから作り方を教えてもらうことができた。

 もう一つの投石については、簡単に言えば石を遠くへ投げるための道具である投擲紐を利用して石をぶつける技術である。矢は消耗品なので、温存するためにも他の攻撃手段が必要だった。さらに、小柄なゴブリンであるアオバが正攻法で倒せる生き物はたかが知れている。ならば遠くからけがを負わせて弱ったところを仕留めるほうが、自分に合っていると彼は考えた。

 幸か不幸か時間はあまるほどあり、のんびり練習することができた。

 そういう理由でアオバは昼間一人で過ごすことが多かった。ただ、何もすることがないというのは申し訳ないため、彼が帰る時にはいつも魚や薪など、何か生活に必要なものを持ち帰るようにしていたし、家事も良く手伝った。


 驚いたことにクリシュナは馬を持っていた。最初彼が忍び込んだ時に家にいなかったのは、彼が町の誰かに貸していたからだったようだ。その馬の名前はジレと言い、真っ黒な毛並みで、見知らぬ人が近づくことを決して許さない賢い馬だった。

 最初の内はアオバは近づくことさえジレに許してもらえなかった。一月の間餌を与え続け、やっと最近触らせてもらえるようになり、彼の世話を任されるようになった。


 そんな風にして色々なことを知り、少しずつできることが増えて、弓をもらってから三週間が経過したころだった。

 練習を重ねたおかげで、彼が最初にできるようになったのは、静止している小動物に矢を中てることだった。これは距離感を正確につかめるようになって、やっと命中させられるようになった。それから幾ばくか遅れて、投石でも同様のことができるようになった。こちらは石を放る際の紐を放すタイミングに慣れるのに時間がかかった。

 動物であっても相手の命を奪うことにためらいはあったが、いつか一人に戻ったとき生きるための術は必要だと自分に言い聞かせた。


 季節が移り変わるにつれてどんどん気温が上がり、暑い季節がやってきた。

 山々はいままでで一番鮮やかに色づき、からっとした高原の風が吹き抜けるようになった。蜻蛉や蝶のような虫たちが活発に活動を初め、アオバの周囲を飛び回る。そんな光景を眺めていると、自分の子供だったころや、幼い息子と昆虫採集に出かけた日々を思い出し、悲しさと懐かしさがないまぜになった感情が湧き上がってくるのだった。


 そんな夏の盛りのある日、クリシュナが昼間、森にいるアオバの元へやってきた。これは初めてのことだった。離れたところで、動物を捕まえる罠を仕掛けるための作業をしながら、アオバの様子を眺めていることは今までに何度もあったが、彼がすぐそばまで来たことはなかった。

 アオバはその日も空を飛ぶ鳩を相手に弓を射る練習をしていた。飛んでいく先を予測して矢を放つことはできるが、なかなか当たず四苦八苦した末に疲れてへたり込んだときだった。

 クリシュナがアオバのすぐ隣に立ち、アオバから弓矢を借り受ける。彼はしげしげと弓を見、お前がこれをやったのかという風にアオバに視線を注ぐ。アオバは自分に大きすぎる弓の持ち手を弓の下側にずらし、和弓と同じように扱えるように手を加えていたのだ。

 しばらく子細を点検した後、弓と矢を手に取ってつがえる。何本か空中に向かって試し打ちをした後、しばらくそのまま上空を見つめる。すると一羽の鳩が視界に飛び込んできた。クリシュナはその鳩をじっとみつめたかと思うと、ためらいもなく矢を放った。その矢は綺麗な放物線を描き、吸い込まれるように鳩へと命中した。

 アオバは言葉もなかった。しかし、しばらく呆けた後すぐに、彼の意図をくみ取ると、もう一度クリシュナに射るところを見せてほしいと頼んだ。

 クリシュナは風向きと獲物までの距離と自分の矢の速度に注意するように、簡単な単語と身振り手振りで説明すると、後は何度か実際に射る様子を見せてくれた。アオバは何一つ見逃さないというように食い入るように彼の挙動を見つめた。

 そして実際にアオバに弓と矢を持たせると後ろから抱えるようにして座り、矢をつがえるように促した。

 空に弓矢を向け獲物を待つ。しばらくして鳩よりも少し大きめの鳥が飛んできた。アオバの後からじっと様子を窺っていたクリシュナが、射るよう合図をする。その瞬間アオバは引き絞った矢を放つ。矢はわずかに鳥から外れて森に落ちた。いままでで一番おしい軌道だった。

 もう一本矢をつがえ待つ。しばらくしたのち、数羽の鳩が飛んできた。アオバがその内の一羽に照準を定める。さきほどと同じようにクリシュナの掛け声とともに矢を放つ。矢は今度こそ綺麗に飛んで的へと当たった。

 アオバはうれしさから声をあげると、クリシュナは彼によくやったと言うように一つ頷き、オレンジ色の木苺を摘みながら村へ戻っていった。

 そんなことがあってから、しばらくたって、ついにアオバは自分一人で飛んでいる鳥を撃ち落とすことができた。それを持ち帰るとクリシュナは我が事のように喜んだ。

 毎日魚や薪を持ち帰っていたのが、徐々に鳥を持って帰る日が混じるようになった。

 森に通う日が長くなればなるほど、彼は少しずつ森について発見することが増えていった。例えば森のどの辺に狐や穴熊や兎の巣があるのか、どこに薬草として使える植物が生えているのか、匂いに敏感な動物に気付かれないようにする工夫、小動物の頻繁に行き来する道。

 そういった色々なことが分かるようになって初めて、常に周りを警戒しなかなか姿を現さない臆病な生き物を狩ることができるようになった。

 逃げ足の速い兎や狐のような動物たちは、基本的に一発で仕留められないともう追いかけることは難しい。いかに五感が鋭くすばしこいゴブリンだとしても、逃げることに特化した生き物の足の速さと持久力に敵うものではなかった。しかも彼らの俊敏さは並外れたもので、矢を外した瞬間、想像を超える瞬発力で一目散に走り出すのだった。

 もしかしたら、逃げ切られたとしても鋭い嗅覚を使って追いかけ、巣穴を見つけだして狩ることができるだろうかと考えたが、さすがに人としての矜持からそこまでしようとは思わなかった。

 そしてとうとう、夏が終わるころ兎のような小動物も捕まえられるほどに狩りの技術を磨くことができた。彼にとって初めての獲物を持ち帰って見せると、クリシュナは目を瞬いて驚き、満足そうに頷いて見せた。あまりおおっぴらに態度には現れていなくても、その瞳の奥に称賛の色を見て撮ることがこの数ヶ月の生活でできるようになっていた。

 意識せず顔が緩むのが、少し恥ずかしかった。

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