第4話-a 山の暮らし

 彼は実際かなり緊張していた。人の集落の中へ足を踏み入れたこと自体が初めてである、というだけでなく、失敗し人に見とがめられたなら、だれも住んでいない家を間借りする計画自体を捨て、この町で暮らす夢を諦め、再び旅にでなくてはならないと考えていたからだった。

 それは、彼にとって絶望を意味した。それほど彼はこの計画に期待を抱き、それが大きく膨らんでいた。以前の失敗のことを忘れたわけではなかったが、期待することをやめられなかった。だからといって、独りぼっちの暮らしを長く続けた彼を誰が非難できるだろう。

 アオバは、開け放たれた門から夜闇に紛れてこっそりと侵入し、昼間にあたりをつけていた方を目指して進む。道は集落の中央へと集まるように走りその脇に家々が建っている。そして町の中央には高い塔を持つ建物がある。

 住居はこじんまりとしたものばかりだった。土台と壁は石造りで、柱や窓は木でできている。屋根は瓦屋根であり煙突が立っていた。ほとんどが平屋のようで、二階建ての家は多くないようだった。

 まずは耳を澄ませ、どの家が現在使われているのかを大雑把に把握した。窓はしっかりと閉じられていたが、煙突から薄く上がる煙や窓の隙間から洩れる光と音でなんなく人の有無は判断できた。町の中央付近は思った通りに、使われている家屋ばかりだった。中央からはずれ町の外周、石壁に近づくほど無人の家屋が放置されている。

 彼は人目につかないよう暗闇の中、星の明かりを頼りに城壁にそって移動し、門からできるだけ遠い一角を目指した。

 中に誰もいないのを確認してから一軒目の家に入り込むと、中はがらんとしていて埃臭い。家具はほとんどないか、あっても朽ちているようだった。屋根は長い間手入れがなされておらず、梁の隙間からちらちら星が見えた。間取りは石造りの暖炉のある一番広い部屋とベッドらしきものの残骸がある小さい部屋が二つだった。床板はなく石が敷き詰められていた。廊下を進み奥の扉を開けると部屋のような広い空間があったが、薄い壁は木材でできており、床には朽ちかけた藁がちらばっていた。

 住むには適当では無さそうで、早々に見切りをつけた。

 次の家も似たようなものだった。その次の家は今までの家より小さく二部屋しかなかった。ここも住むには落ち着かない感じがした。住民に遺棄されて久しいのだろう。家の中は黴臭く、縄や桶、椅子の残骸などが散乱していた。

 四軒目の家はしっかりしていた。家具も残されており、若干煤臭いが我慢できる。部屋は三つ。奥にやはり木の壁の部屋があった。もしかしたら隣接するように作られた家畜小屋かもしれないと彼は思い至った。

 屋根も問題なさそうだ。場所も、人が住んでいる一角からも門からもずいぶん離れていたため、比較的安全であると思われた。アオバはこの家に決めた。細かいことは明日以降考えることにして、彼は三部屋の内一番小さい部屋を選びベッドに腰かけた。

 寝台は木でできた枠の中に藁が敷き詰められ、その上からシーツがかぶせられているだけのものだったが、その柔らかさにアオバの心が躍った。さらさらと乾いた布の手触りが心地よかった。

 埃臭いのが鼻についたが、明日以降でなんとかしようと思いながら、我慢して横になると、目を閉じた。すぐに意識は眠りの底へ落ちていった。

 アオバはこの長い旅の疲れから泥のように眠った。そしてどのくらい眠り続けたか、突然別室から何かがぶつかり倒れるような音を眠りの中で聞いた。

 アオバは瞬時に目覚めると自分の失態に臍を噛んだ。周囲の警戒を怠るほどに眠りこけていた自分に悪態をついて、すぐさま頭を活発に働かせ始めた。

 今自分がいる部屋に隠れる場所がないことを確認する。部屋に一つだけある窓は雨戸がしっかりと閉じられている。逃げ出すならそこしかないと思ったが、今物音を立てずにやり過ごせる可能性と、部屋の外へと音を立てたとしても逃げ出すリスクとを天秤にかける。

 どのくらい寝ていたのかはわからないが、恐らく日はすでに高くのぼっているはずだった。この家から出たとして、誰かに見咎められないという保証はない。見つかってしまえばここを諦めて遠くへ行かねばならい。

 しかし、今はそんなことを考えている状況でないとアオバは自身に言い聞かせて無理やり思考を切り替える。

 今問題にすべきは無事に逃げおおすことだと結論づけて、彼は静かにベッドから抜け出して窓へにじり寄る。

 そこで自分の迂闊さに舌を鳴らす。窓は外から釘で打ち付けられ開きそうになかった。彼は部屋の唯一の出入り口の扉を凝視する。腰に挿したナイフに手を伸ばそうとした手を握りこんで下ろす。

 答えを出せないままどれくらいの時間そうしていたのか、あれ以来音が聞こえることはなかった。扉を開けるような音もしなかった。まだ音を立てた人物が屋内にいる可能性が高かった。しかし待てど暮らせどそれ以降何の音沙汰もなかった。

 彼は首を捻ったが説明できる理由も思いつかずとうとう扉から外の様子を伺う覚悟を決めた。

 そっと扉に近づき一呼吸開けて扉に耳を当てながら取手を握る。なんの音もしない。しずかに扉を開ける。しんと静まり返った短い廊下があるだけだった。安心したのも束の間、彼は向かいの大部屋の扉がわずかに開いていることに気づいた。一気に鼓動が速くなる。

 しかし扉の向こうからは何者も動いているような音はしない。そっと近づき隙間から覗くと、部屋の真ん中にあった食卓と長椅子が横倒しになっていることに気付いた。

 そして次の瞬間、誰かが床に倒れ込んでいる男を見た。ピクリともしないが、彼の耳は荒い呼吸音を聞き分けていた。

 少しの逡巡の後静かに扉を開けゆっくり近づく。動く様子がないのを確かめてから、アオバは男の傍に回り込むと膝をついた。衣服は着ていたがひどく乱れている。年の頃は四十くらいだろうか。茶色い髪に頰の痩けた顔をしている。背はギルレンと同じかそれより少し高い程度だった。

 頬に触れる。ひどく熱い。彼はしばらく様子を観察し、男の意識がないことを確認すると、太い腕の下に肩を入れて、背負うようにして引き摺り引き摺り男を移動させた。

 扉を抜け昨夜自分が寝ていた部屋に運び込もうとしたが、もう一つの部屋、昨夜ちらっとしか見なかった奥の間の扉もわずかに開いているのに気付いた。

 アオバは再度自分の迂闊さに頭を抱えたくなった。

 男を背負いながらその扉を開けて中に入る。ベッドに触れるとまだわずかに温かい。ここで寝ていたのだとわかると、自分の不注意さにため息しか出なかった。

 すぐに寝台へと寝かせる。体の上に布団とも呼べないような薄い布を被せる。寒気がするようで男は無意識に体を丸める。アオバは部屋に他に何かないかと探すと、衣装箱があった。そこから数枚の衣類を全て出して布団の上から重ねた。それでも心許ないと思い、自分が寝ていた寝台のシーツと藁も持ってきて掛けた。

 それから衣装箱の中の比較的大きな端切れを見つけるとそれを持って暖炉の部屋へ戻った。

 彼の背丈ほどもある大きな水瓶を見つけて近づくと、瓶は空だった。暖炉の傍の薪の残りもほとんどないことを確認する。逡巡してから彼は意を決すと、転がっている桶を掴んで外へ向かった。

 扉を細く開けるともう日は天頂を通り過ぎていた。この時間なら村の住人のほとんどは村の外へ農作業をしに出掛けているだろうと踏んで、周囲に気を配りながら素早く屋外へ滑り出た。すぐさま物陰へ隠れどうやって水を汲むかを考えた。集落のどこかに井戸があるはずだったが、井戸があるところは人が集まる場所でもある。流石に近づくことはできない。

 集落の外にも井戸があるのは知っていたので、そちらを利用することに決めた。問題はどこからどうやって高い塀の外へ出るかだった。すると、壁の傍に生える木が、丁度石壁のくずれたところを覆い隠すように立っていることに気づいた。即座にそちらへ向かう。木を伝って石壁によじ登る。できるだけ姿勢を低くして外を窺うと近くに人はおらず見とがめられる心配はなさそうだった。飛び降りるのも問題はない。後は戻ってきたときにどうやって中に入るかだった。すぐに昨夜侵入した家の一つに、縄が落ちていたのを思い出すと、それを取りに戻り木の枝に結び付けて外へと垂らした。それを伝って降りると、警戒しながら井戸へと向かった。

 アオバは昨日までに見つけていた草原の中にぽつんとある井戸を目指して走った。

 

 それから水を汲み、乾いた木の枝を集めてさきほどの家へと戻った。すぐさま、端切れを水で濡らし頭を冷やす。ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返す口に水を少しずつ流し込んで飲ませた。汗の量がひどく体をふかなければならないと思うが、今火を使って煙を見とがめられたらと思うと、夕方まで待たねばならなかった。夕刻ならば屋根から煙が上がっていても不審に思われないかもしれない。

 しかし、それと同時に別の不安も湧いてくる。村社会は家族意識が強いと聞く。今日一日、あるいはもしかしたらここ数日熱で寝込んでいた場合、近所の誰かが顔を見ていないことを怪しんでやってくるかもしれなかった。そうなると自分の存在が露見してしまう。

 彼は夜まで集落の外で隠れていることにした。見捨てるという選択肢は無視した。

 月が昇り夜も更けて村の中が寝静まったころ、アオバはこっそりと戻った。風が強い。男はまだ眠っていた。温くなった端切れを濡らして額に乗せる。暖炉に薪をくべ火を起こすと、水を入れた鍋を火にかけた。部屋の窓と扉を細く開けて換気をする。夜の冷たい空気が室内のよどみを押し流した。沸騰した鍋で布を煮沸した。それでもって、男の体の汗をふいてやった。それから、何度も村の外と家とを往復して水がめに水をいっぱいに貯め、薪も暖炉脇に積んでおいた。

 医学の知識もなく薬も持ち合わせていないため、彼にできることはそれしかなかった。そうやって夜通し作業をし、彼は男の枕元に焼いた魚を置いて、日が昇る前に再び村を出た。


 また夜が更けると彼は水と魚を抱えてあの家へと戻った。耳を澄ませる。人の動き回る気配はない。そっと屋内に侵入し、奥の間を確認する。男はゼェゼェと熱い呼吸を繰り返している。魚はわずかに口をつけた跡があった。

 暖炉のある部屋に戻り、火を起こし、換気をし、昨日と同じように体をふき、頭を冷やした。

 そうやって夜明け前までまんじりもせずに看病をした。汗はだいぶ引いてきて、呼吸音も正常に戻りつつあるようだ。寒気もなくなったのか、穏やかに眠っていた。どれほど体力が落ちているのかはわからなかったが、状況の改善がみられたことはうれしかった。

 しかし、それは同時に彼がこの村から出ていかねばならないということも意味していた。元気になることを願いながら、彼は最後の点検をした。彼が枕元に焼き魚を置いて、そろそろ家を出ようとしたところで、突然後ろから声をかけられた。

 アオバはあまりにも驚きすぎて手に持っていたもろもろを取り落とし、大きな音をたててしまった。落とした時に横倒しになった桶の水が床を流れて広がる。

 急いで振り返ると、男が寝台の上に身を起こしてこちらを見ていた。何事かを喋っていたが、アオバにはわからない。その時男がどのようなことに考えを巡らせたのかは、その男自身以外に知る由もない。アオバが無言で立っていると、男は枕元に置かれた魚の一匹をアオバに放り、自分も一匹手に取って食べ始めた。


 奇妙な共同生活が始まった。

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