第3話-b 再起
まだ全てに納得したわけでもないし、消極的な決断ではあったけれど、アオバの心が一つ方向へ踏みだした。
そうすると、彼の目には今まで見えてこなかった多くのものが目に飛び込んで来るようになった。
木々の梢を渡る風が葉を揺らしながら通り過ぎるときの囁きが、懸命に花開く草木の色とりどり息吹が、歩き飛び跳ねまわる虫たちの息遣いが、視界の端々に見え隠れする小さな動物たちの躍動が、人間だったときに見たそれと全く変わらないということを発見した。
生きると決め、この状況を飲み下す努力をし始めた彼には世界が全く違って見え始めた。見るもの聞くもののおおよそ全てがアオバには新鮮に感じられた。だから、もっともっとこの世界のことを知りたいと思うと同時に、知らなければ暮らしていくこともできないと考えるようになっていった。ただ生きるのではなく、幸せへと至る道を生きることを目指した。
とりあえず、まずはこの世界に暮らす人間について学ばなければならない。どいう暮らしをし、どういう風に考えているのかを。
だから彼は歩き始めた。目指す場所は定かではなかったけれど、目的は決まった。その一歩は前日まではとは違う響きをもっていた。
アオバは、いろいろな生き物を観察しながら森を抜けた。何日も歩いた。
その間に幾度となく様々な獣や得体のしれない生き物に襲われたが、彼はそれを辛くも逃れた。狼の群れが突如夜の静寂を破ってうなり声をあげて襲い掛かってきたこともあった。狼は彼の中では対処が楽な部類であった。素早く木にのぼり、そこで耐え忍んでいればいつしかいなくなった。五感が鋭いので他のことに気を取られている状態でなければ、気づいたら囲まれていたということもほとんどなかった。
粘液状の生き物もみた。透明な体の中に内蔵、もしかしたら心臓だったのかもしれない、が浮いて見えた。記憶の中のスライムのような生物であった。これは比較的じめじめした不衛生な場所で遭遇した。よどんだ川の傍、日の差さない深い森の奥、じめじめした洞窟の中などがそうだった。動きは遅いが静かに忍び寄ってくるので、聴覚では発見できない。また嗅覚でも腐った水のような匂いしかしないので、場所によってはかぎ分けることができなかった。一度襲われると全身を粘液状の体で包み込んで飲み込もうとする。小さい個体は手に持ったナイフで臓器を刺し貫けば簡単に倒せた。幸いなことに大きな個体には出会わなかったが、襲われたらどう対処したらよいのか彼にはわからなかった。だから、極力不潔で湿度の高い場所には近づかないように気を付けることしかできなかった。
他にも信じられないほど大きい虫や巨大な蛙とも遭遇したが、幸運にも逃れることができた。
そのたびにこの世界の恐ろしさに対する認識を新たにしていった。
ひたすら歩き、やっと彼は森を抜け人が作った道へとぶつかることができた。その整備された道を追いかけ、時には水をもとめて川へ立ち寄り、人の姿が多くなる集落付近では遠くから眺め、その生活の様式を数日間観察しては次の旅路へ、そうやってどんどん進んでいった。何度か人に見つかり追い立てられたりしたこともあったが、彼は人間の世界から離れようとはしなかった。
アオバの最終的な目標は人と共存することにある。ゴブリンの群れでは暮らすことができないと考えている。なれば、人とともに歩む必要がある。彼はこの数週間で、いかに孤独が辛いものであるかを、孤独では生きているとは言えないということを実感していた。時に誰かと話をしたい欲求に駆られ、一人大声で叫んだりもした。
しかしどうしたらよいのか皆目わからなかった。先の挫折が、彼が大胆な行動を起こすのを躊躇させていた。だから彼は人の暮らしを遠くから眺めて、決して交わる勇気も持てず、土地を転々とするしかなかった。できることなら、言葉を学びたいと思い続けていた。最低限読み書きができたなら、自分と気持ちを通わすことのできる人に会えるかもしれないと考えていた。それは一つの願いだった。流れ星にたくすような類のものであったけれど、今の彼には、それだけが自分の行く先を指し示す道標だった。
色々な景色を見、生活を見、生き物を見た。
動物たちの多くは彼の知っている動物と大差のない生態であり、一部の生き物だけが彼の知識から逸脱していた。しかしそういった生き物ほど見かける回数が極端に少なく、またか弱い生き物たちは上手くその脅威と均衡を保っているように見えた。
人々の暮らしぶりも同様だった。みな、自然の中で耐え、お互いに協力し、喜びや悲しみを分かち合い、動物と共に生き、田畑を耕す。太陽と月の運行に従い、地に足を付け、水の流れを求め、風とともに過ごし、炎を利用して生きていた。この、社会基盤が不確かであり、天候や季節に強く左右される世界の中で、人々はたくましく生き、そこかしこに生きるための知恵が差し込まれているのを発見する度に、彼は驚き、そして同時にそのことがいつも彼を励ました。
そんな中で最も彼を驚かせたうちの一つが獣人である。自分がゴブリンであるという事実は受け入れつつあったが、それでも様々な獣人を見るたび驚き恐怖した。ゴブリンは言うに及ばず、ゴブリンを大きく逞しくしたような種族や、耳の長い兎のような種族を今までに見た。どれも人里からずっと離れたところに集落を作っていたが、詳しいことはわからなかった。どのような気性で、どれほどの運動能力や知恵があるのか読めないために、うかつに近づくことを避け、見かけるたびに距離をおくことを心掛けていたからだ。襲われなかったのは真に幸運なことだと彼は感じていた。
あるとき、彼は道沿いに進みすっかり緑に覆われた平野を通り、瑞々しいいま葉を繁らせる林を抜け、その場所へと辿り着いた。季節は巡り、冬から春になっていた。
彼はその壮大な風景に目を奪われた。
この世界にきて初めて間近に見る巨大な山々、山脈の麓へとやってきたのだ。
彼は一瞬息をすることも忘れてその景色に見入った。青い空を背景にして、緑の壁が高く険しく大地から立ち上がり、高度とともにその色合いを変え、薄い青へと変わっていく。そして、いつしか青い空を背景に、真っ白な頂がその境界を色濃くしている。
さらに高低の違う山々が幾重にも重なり、複雑な地形を生み出している。一際高い山々が遠くに見えた。
深い森、どこまでも広がる平原に続いて峻厳な山々。彼は故郷では見たことのない景色を忘れまいとするようにしばし立ち尽くした。
自然の美しさはいつも彼の心を躍らせた。恐ろしい生き物が隠れひそみ、獣だけではなく時には人にも追い立てられる生活の中で、それでも自然は常に彼に対して平等であった。残酷でありすばらしい。
眼前にそびえたつ山々は奥の山ほど高く険しい。そのうちの手前の方は比較的低くなだらかな山が連なっている。それらを眺めると、雪が残る白い山頂から薄く緑の絨毯がふもとへと広がりながら、徐々にその色合いを増し、ところどころ大小さまざまな岩が地面から突き出している。もっと近づけば、斜面を覆う岩石混じりの草地では何頭もの動物たちの群れが草を食む姿も見えたかもしれない。
さらに山の斜面にはところどころ木材で補強した横穴がいくつか存在している。その入り口は封鎖され中に入れるようにはなっていない。
その少し下、山の中腹より少し下の辺りには、狭い土地にへばりつくようにして一つの城郭のような建造物がかすかに見える。そのそばを細い川が流れ、麓へと続いている。高い石の壁はは一つの集落をすっぽりと囲み、その中にはいくつかの塔とこじんまりとしたたくさんの家々が立ち並んでいる。石壁の中から外へ伸びる道は上下に延び、一方は麓へ、もう一方は山の向こうへと続き、道の途中途中ではさらに細い道へと枝分かれして、それがゆるやかな斜面に点在する耕作地へと繋がっている。時折人々がその道を通り、農作業へと向かっていく。
今までアオバが見てきた中で最も高い場所にある大きな集落だ。石壁で囲まれた町。その壁には木の棒が立てられ、吹き流しのように長い布がいくつも風に棚引いている。色鮮やかな赤や黄や青や緑。風が力強く吹いているのがわかる。
美しい町だと彼は思った。もっと近くで見たいと思い山を登った。そして、いつものように遠くから人々の生活ぶりを観察する。町の人々の朝早くから起きだして動物を放牧しにいったり、畑仕事に精を出したりする暮らしを眺めながら、彼らの一年の生活に思いを馳せた。
そのまま幾日か背の高い木の上から眺めていて、彼は町だと思っていたそれが村なのではないかと思い始めていた。城壁のために木の上からであってもはっきりとは町全体を見渡すことができない。けれど、ところどころに石壁の崩れた箇所があり、その隙間からなんとか家々の様子を垣間見ることができた。
町の中央にある高い塔は寺院か何かであるようだった。壁にそって高い塔がいくつかあり、それはもしかしたら見張塔であるのかもしれない。しかし、誰かがそこに上っているようすはなく、現在は見張りをする人がいない。さらに、壁の内側では、使われていない住居が数多くあるようだった。
その石壁の上。遠くから見たときは気づかなかったが、高く掲げられた風に揺れる色とりどりの布は単色ではなく、模様が染め抜かれているようだった。美しい濃淡が見て取れた。
正直アオバには町と村の区別がつかない。住居の数自体はさほど多いというわけでもなかったが、塀に囲まれているというその一点で、彼は初めからそこが町なのだろうと決めつけていた。今まで見てきた平野の村々は壁などでは囲まれていなかったからだ。平野にある高い壁に囲まれた集落は、外からでも町とわかる活気があった。
けれど、今目の前にある集落は、今まで見た町と呼べるほどの活気もなく、朝夕の食事時に立ち上る竈の煙はまばらにしかみられなかった。人の住処として使われている住居の数が、予想の半数程度であるとしたら、住人はずっと少ないことになる。さらに、それが正しいと仮定すると、住民の多くが集落の外へ放牧と農作業のためにでている計算になる。外部からの人の出入りもほとんどないようだった。町の中での営みよりも外での活動のほうが活発であると考えると、農村と呼んで差し支えないのかもしれない。
そう思ったとき、彼はあの村に行ってみたいと思った。人口の過疎化が起こり、住人のいない家屋が放置されているのだとしたら、彼がこっそり使っても見とがめられないのではと考えたのだ。
長い間ずっと野宿を続けていた彼は、屋根の下で毛布にくるまって眠ることを渇望ていた。それが叶えられたなら、人間らしい生活を送ることができるのではと思ったのだ。せめて、暮らしぶりだけは人間らしくありたいと願った。
そう一度考えてしまうと、その思いは日増しに大きくなっていった。そして幸いなことに更に数日様子を窺ってみても、家々の多くは相変わらず居住者がいないようだった。立ち上る煙から、もっとも人がいないと考えられるあたりに見当をつけると、彼はついに夜の闇にまぎれて村へと侵入することを決心した。
彼がこの村を発見してから七日目の夜のことだった。
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