出会い

第3話-a 再起

 あれから二日たった。

 いまだ目指すところもわからなく、為すべきこともなかった。

 足はもうぼろぼろだった。

 それでも歩き続けた。ただ自分の足の動きをじっと見つめながら。こうして無心に歩いているときは良い。しかし一度歩みを止めると足は急激に重くなり動けなくなる。そうすると考えたくないこと思い出したくないことが後から後から湧いてくる。だからアオバは歩くことを止められなかった。そうして一日の終わり、限界がくると倒れ込むようにして眠るのだった。

 孤独が彼を完全に蝕んでいた。長い間一人で思い詰めていたせいで、すっかり思考は袋小路へと迷い込んでしまった。

 そして、さらに数日が過ぎた。

 彼はとうとう歩くのをやめた。疲労が足に蓄積し、もう立っていることもできなかった。澱のように疲れが全身のいたるところにたまっていた

 彼が最終的にたどり着いた場所は森だった。木々が空に向かって一心に枝を伸ばし緑の天井が彼の頭上を覆っている。葉の隙間から空が見え隠れしているが、青空はなくどんよりとした灰色が見えるだけで、美しい緑のカーテンも今はその色をくすませている。

 アオバは静かに目を閉じ、間もなく夢をみた。



 その日人間のアオバは出張から帰ってくる日だった。彼は息子と家に帰ったら一緒にゲームをすると約束をしていた。しかし、エンジントラブルのために帰りの飛行機が予定通りには飛ばず、帰りがずっと遅くなってしまった。会社によって書類を預けそれから家を目指した。息子の起きている時間までに帰れるかは微妙なところだった。

 息子には遅くなること、そのせいで遊べなくなることと、約束を破ることに対する謝りの電話をしたけれど、きっとまだ怒っているかもしれないと思った。だから、寝る前に声をかけたくて帰り道を急いだ。今ならまだ起きている顔を見られるかもしれないと思うと、自然歩みは速くなった。


 ただいまと声をかけて上がりかまちで靴を脱ぐ。

 時間を確かめると息子はそろそろ寝る時間だ。間に合ったと思った。

 起きているときは帰宅するとすぐに居間から二人で出てくるのに、今日は現れない。もうベッドに入っただろうか。

 そう思っていると、奥の方から何か物音がしたような気がした。もしかしたらまだ息子が起きて居間で自分を待っているのかとアオバは思いながらドアを開けた。

「ただいま。今日はまだ起きて――――」

 ネクタイを緩めながら顔をあげた瞬間、言葉に詰まる。血まみれの背中がアオバの目に飛び込んできた。一瞬頭が真っ白になり何も考えられなくなる。

 アオバは急におぼつかなくなった足でそれに歩み寄ろうとした。一歩一歩近づくと見えているものが何かはっきりと理解できるようになった。

 恐ろしいほどの足が重い。

 一歩一歩信じられないほどの遅さで近づくと、重なるように倒れている二人の姿に、着ているものに、やっと現実だと理解する。

 見間違いだ。死んでいる。いや、そんなはずはない。生きている。

 二つの思考がせめぎ合った。恐る恐る腕を伸ばして震える指で二人に触れる。その冷たさに。


 その瞬間、アオバの心は粉々に砕け散った。

 思い描いていた未来も夢も希望もすべてが一瞬にして遥か彼方へ失われたのを感じた。

 アオバが身を投げ出すようにして二人に覆いかぶさり必死に名前を呼ぶ。呼ぶ声に反応してほしい。しかし反応が返ってくることはなく、ただ二人はそこに横たわっているだけだった。呼びかけは徐々に叫びへと変わっていく。喉の奥からあとからあとから途切れることなく叫び声があふれた。だから、アオバはその人物の接近に気付けなかった。


 突然後ろから背中を強く押されたとアオバは思った。

 背中が熱い。意図せず奇怪な音が口から零れおちた。衝撃に振り返ると見も知らぬ男が能面を貼り付けたような表情で立っていた。

 誰かわからず茫然とする。

 アオバは立ち上がろうとしたが全身に力が入らず、そのまま崩折れた。

 誰、と口に出そうとした言葉はただのかすれた音にしかならなかった。

 自分に何が起こっているのかすぐにはわからなかった。

 呆けたように男を見つめていると、両の手を何かを掴むようにして胸のあたりに構えたまま、男が一歩二歩と後ずさるのを見た。

 無意識に背中へと腕を伸ばすと硬いものが背中から突き出ているのが分かった。指先に血がこびりついたのを見て、彼はやっと理解する。信じられなかった。

 そしてその瞬間家族に何が起こったのかも理解した。


「最近、この辺に変な人が出没してるんだって。」

「変な人?」

「うん。私はみてないんだけど、なんか色んな家を覗いている人がここ二三日この辺をうろついているらしくて。」

 突然脳裏をよぎる会話。

「しかもほら、最近怖いニュースが多いし。何日か前は隣の市でも強盗殺人があったでしょ。」

 まさか。

「たしかに。物騒な世の中だなぁ。お互い戸締りとか身の回りとか十分気を付けような。」

 まさか。まさか。まさか。

 アオバは顔を上げる。男は虫のような無機質な表情を浮かべてアオバを見下ろす。瞬間湧き上がる目の前の人物に対する確信。

 瞬間全身の血液が沸騰するような怒りに襲われた。脳髄を焼き切るような憎悪を自覚する。


 殺してやる。


 アオバは痛みも無視して両足に力を籠める。うまく力が入らない。足元がおぼつかず、妙に視界がぶれる。それでも、彼は男を睨めつけたままやっとのことで立ち上がる。立ち上がったと思った。

 そしてアオバは男に全力でつかみかかろうとした。しかし実際には緩慢とした動きで腕を伸ばしただけだった。

 男は驚き慌てて後退する。

 アオバの腕は空を掴み、バランスを崩して前のめりに床へと倒れ込んだ。咄嗟に庇うこともできず、顔面を強かに打ち付けた。それでも彼は諦めずに男の足へ向けて手を伸ばす。

 殺してやる殺してやる殺してやる……

 ただそれだけを一心に唱えながら声を絞り出して自分を鼓舞する。

 その時アオバは完全に我を失っていた。もはや思考は一色に塗りつぶされ、理性も感情も失っていた。ただ一つのことだけにとらわれていた。

 普段の温厚な印象などもはや消え去り、ただ獣のように咆哮するだけだった。床を掴もうとする手のひらは血でぬめり、力の入らぬ足では前へ這って進むことも難しかった。

 着ていたシャツに血が徐々に染み込んでいき、それに合わせて彼の体から熱が失われていった。

 アオバの意識もまた薄れていく。ただ燃えるような怒りと冷たくなっていく体だけが彼に意識できる全てだった。

 呪いの言葉だけが頭の中を渦巻いていた。

 そして。



 彼が目を覚ますと弱い雨が降っていた。頭上からさあさあと雨の降る音が聞こえる。緑の天幕が雨の大部分を遮り、わずかに木々の梢の隙間を抜けた雨粒が彼に届いた。

 夢の情景が思い出される。今まで無意識に思い出そうとするのを拒み続けていた事実について、彼はここにきてやっと思い出した。今まではたまたまケガを負った二人の世話や自分に都合の良い妄想に気を取られ、考える間もなかったことだった。

 しかし、ここにきて自分をごまかしきれなくなっていた。抑圧された過去のできごとが、生きることへの無気力からもはや抑え込むことが叶わなくなり、意識の上に顕在化してしまったのだ。

 そしてとうとう彼は悟った。ずっとどうしてなのだろうと思い続けていたことに。

 ああ、だからかと彼は一人静かに思い至った。

 ゴブリンになってしまった理由。

 死の瞬間、人としての理性を全てかなぐり捨てて、ただひたすらに殺したいという気持ちに溺れてしまったことが、呪いとなって彼を人外の化け物に生まれ変わらせたのだ。

 アオバは死んでしまいたかった。

 悲しみが全身を支配していた。彼は泣いていた。妻に、息子に会いたかった。優しい日々へと戻りたかった。暖かな家へ帰りたかった。

 どんなに疲れていても、仕事がうまくいかなくて鬱屈した気持ちを抱えていても、長い夜道をたどり家へ帰ると、優しく、時ににぎやかに出迎えてくれる家族の居るあの家へ。

 しかし、全ては失われてしまい、自分もまた怪物へと身をやつし、もはや何物も戻らない。涙はあとからあとから流れ落ちた。

 けれど、もう慰めてくれる妻はいない。頬に触れる暖かな細い指を持つ彼女はここにはいない。

 この涙さえも結局は自分自身の境遇に絶望する自己憐憫の涙だったのかもしれなかった。家族の死を、理不尽に殺されていった妻と子を純粋に悼む涙ではなかったかもしれない。一人放り出された自分に対する涙だった。


 そのまま、どれほどの時間が経ったのか。かすかな風が頬をなでるように流れるのを感じてアオバは目を開けた。ぼんやりと見つめる両の目が徐々に焦点を合わせ、世界がはっきりとした像を結んだ。

 目の前を蟻に運ばれた蝶の死体がゆっくりと時間をかけて移動していく。葬送のように、ゆっくりと進んでいく。

 アオバの視線はじっとそれに注がれていた。

 そうして再び彼は眠りに落ちた。暗い暗い奈落へ。


 目が覚めたら、死んでいたらいいのに。


 そして、また夢を見た。

 

 高校生の自分と妻の姿が浮かんできた。

 二人は高校の弓道部の先輩後輩の関係だった。彼女のほうが自分よりも一つ上であり、先輩として初心者の自分にも丁寧に教えてくれた。

 それが始まりだった。

 彼女はよくアオバをからかった。楽しそうに、無邪気に。彼女はただアオバの困ったり安堵したり喜んだりくやしがったり、そういう色々な顔が見たかったのだ。最初アオバにはそれがわからなくて、なぜ自分がこんな風に扱われるのか悩んだものだった。若かった。

 次第に打ち解け仲良くなり、恋人になり。そうして長い時間を共にすごしてのち、彼らは結婚した。決して穏やかなだけの日々ではなかった。喧嘩もした。それでも、お互いに離れることなく、一緒になった。かわいい息子も生まれた。

 一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、自分は幸せすぎて、これは夢なのではないかと、ときどきアオバは考えることがあった。持つものが多くなると、それにつれて失うことの恐怖も大きくなるのだと、結婚して思うようになった。

 最後には夢のように消えてなくなるのではないかと、一度だけ、アオバは妻に話したことがあった。彼女は長い時間思案して、ゆっくりと話し出した。

「どれほど準備をしていたとしても、この先にどんでん返しが待っていないとは限らないじゃない?どれほど注意したとしても、完璧に避けられる不幸なんてきっとないんだと思う。だから、そういうときのために今を精一杯いきていくの。そうしてたくさんの思い出を作って、幸せだった日々を忘れなければ、何か不幸な出来事がおきたとしても、それを心の支えにして耐えていけるんじゃないかな。私だって、あなただって極論を言えば明日死ぬかもしれない。この子だって、明日交通事故で死んでしまうかもしれない。」

「そんなことは考えたくない。」

「私もそうよ。でもその可能性は拭い去れないでしょ?どんなに用心していても避けられない不幸はきっとあるはず。曲がり角を曲がった先に何があるかなんて誰にもわからないんだから。だったら、何があるかを恐れることこそ無意味なことだと思うし、それが不幸の始まりなんじゃない?」

「……そうかもしれないけれど……。」

「だったら、この幸せを精一杯楽しむの。そうして、何か辛いことがあったとき、もう一度この幸せをつかむために頑張るの。大丈夫。きっとあなたなら大丈夫。ね、元気をだして。」

 彼女はそう言って優しい目でアオバを真正面から見つめた。先輩の目だった。

「いつか私たちは死ぬわ。あなたか私のどちらが先かはわからないけれど、この子を残して死んでしまう。」

 眠る息子の背中を優しく彼女はなでる。なによりも大切なものをいつくしむ手つきだった。

「どう足掻いても、神様に願ったとしても現実は変わらないでしょう。もし、私が先に死んで、そうしたらあなたはどうする?」

 アオバは言葉に詰まる。答えられなかった。そんなことは耐えられないと思った。

「あなたは優しい。けれどそれにとらわれてはダメだと思う。この子があなたより先に死んだらどうする?そこで全てを投げ出す?私が死んでも、この子が死んでも、あなたは生きていかないといけない。だって、私はあなたに生きていて欲しい。生きて、あなたの人生を大切にいきて、あぁ生きてよかったって思いながら死んでほしい。あなたが私たちに死んでほしくない、不幸になってほしくないと思うのと同じように、私もあなたたちに幸せに生きてほしい。そのために私は精一杯いきている。」

 アオバは答えられない。そんな彼を妻はじっと見つめる。その瞳は、彼に強さを期待していた。彼がそのとき持っていなかった勇気を彼が手に入れることを期待していた。


 再び彼は目覚めた。夢の続きを見ようと目を閉じても、夢は霧散してしまった。

 じっとしたまま彼は思い出す。あの後自分はなんと答えたのだろうと彼は考えた。

 深いため息が漏れる。倒れたまま彼がぼんやりと目に映るものを眺めていると、自分が深い森の奥、鬱蒼とした木々の底の濃い緑の絨毯の上に横たわっていることに気付いた。

 長い時を生きてきたのだと一目でわかる苔むした木々が、どこまでも広がっている。林床は深い緑の苔に覆われていた。

 木の上から、どこに潜んでいたのか鳥たちのさえずりが彼の上に降り注ぐのを聞いた。

 柔らかな風が吹いてきて彼の肌を優しく撫でた。

 なにかの種が苔の上で芽吹き、まっすぐ天を目指して伸びようとしているのををみた。

 果てしない景色を見つめていると、アオバの目の前、背の高い苔の林に水滴の粒が輝いているのに気づいた。しばらくして餌を求めて歩き回っていた小さな蟻がやってくると、その水滴の表面張力に閉じ込められてしまう。

 藻掻き苦しむ蟻に向かって、彼はゆっくりと指を伸ばし水滴に触れると、透き通った粒は輪郭を失い潰れ流れ、中の蟻が彼の指にかろうじて掴まった。そして彼の指の上をせわしなく動き回る。


「あきらめないで。」

 彼女の声がした。はっと息をのむ。次の瞬間彼はあの時自分がなんと答えたのかを思い出した。

「まだ、不安は消えないし、心も決められないけど、でも、僕も君たちに幸せでいて欲しい。だから、僕と同じようにカエデが僕の幸せを望むのなら、そのために頑張ってみようと思う。」

 アオバははっとしたように目を見開く。

「私が選んだあなたなんだから。できるはずよ。勇気を持って。」

 耳元で彼女の声がしたと思った。

 見開かれた目から涙幾筋かこぼれるのを彼は感じた。さっきまでとは違う温度の涙が混じっていた。

 そのとき、梢の間から日の光が降り注ぐ。ちらちらと木漏れ日が緑の光を彼と彼の周囲にばらまいた。雨はいつのまにか止んでいる。

 彼は気づいた。灰色の世界だと思っていた森の中が、鮮やかな緑へと姿を変えていたことに。

 高い梢の切れ間から幾筋もの光が林床を照らし出している。どこまでも暗鬱な世界に見えていた景色は、その鮮やかな姿をアオバの前に現していた。


「あぁ、頑張ってみるよ……。」


 アオバは体に力をいれて起き上がった。涙の跡はいまだ乾ききってはいなかったが、もう涙は流れなかった。

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