第2話-b 絶望
親子と別れて九日目の昼は、雨が降り出しそうな空だった。
その日いつものように離れた場所から身を隠しつつ城門の方を見つめていた。五日が経つ間に確信は期待へと変わり、七日目には願望となり、もはや願いは幻へと落ちていたが、それでも眠りにつくと、暖かく彼らが迎え入れてくれる夢を見て、はっと目覚めるのを繰り返した。孤独がアオバの正常な思考を奪っていることに彼は気づいていなかった。
意識の上に不安が首をもたげるたび、アオバは必死に意識を逸らすのだった。
そんな時彼はとうとう二人を見つけた。
はやる心を抑えきれなかった。
生きていたことと、同じ道を戻ってきたという幸運を喜んだ。姿を見とがめられないように気を配るのを忘れそうになりながら、茂みの中、背の高い草の中をできる限りの速さで走り寄った。
彼らはきっとけがも治って元気になったはずだ。自分たちを助けた恩人であるゴブリンを探しているはずだ。死の間際から二度も助けてくれた恩人に対して、感謝するのは当然のことだからだ。彼は期待した。期待ではなく確信していた。
きっと彼らは自分を良いゴブリンだとわかっている。普通のゴブリンではないのだ。だから、きっと彼を連れて行ってくれる。幸せな家へ。世話をし、食事もだしてくれるだろう。自分は彼らのために一緒に働き、彼らを守り、仲良くやっていけるはずだ。
一生懸命走る間、彼の頭を占めていたのはこのことだけだった。期待に胸を高鳴らせ、もつれる足を叱咤して急いだ。一刻も早く顔をみせてやらねば、自分を探している彼らがかわいそうだ。きっと自分を見つけて彼らは安堵するだろう。二人の顔に浮かぶ笑みと感謝。
そうして。
彼は知った。
見知ったゴブリンが駆けてくるのを親子が見とめた瞬間、驚き、逡巡、ためらい、恐れ、恨み。様々な感情が彼らの顔に浮かんだ。アオバはそのことに気付いたが、すぐさまそれを無視すると、急ぎ駆け寄った。
そして見たのだ。
親子は馬車の上から彼を見下ろし、お互いに顔を見合わせ、浮かべるはずの喜びの表情などアオバが期待したわずかほども見せることなく、顔を逸らして馬車を止めずに通り過ぎようとした。
迷惑そうな雰囲気を纏っていた。
彼はいぶかしんだ。自分が誰なのか気づかなかったのかもしれない。立ち止まっていた彼は二人をおいかける。
街道を進む人々が叫び声をあげた。門に立っていた衛兵が気づき言葉を交わしあう。
彼は小走りに馬車を追い、側面に回って父親の名を呼ぶ。
ギルレンは聞こえなかったふりをして、馬の手綱を打つ。
息子の名を呼ぶ。サイは顔を伏せいっかなアオバを視界の中にいれない。太腿の上でにぎりしめた拳を見つめる。
アオバは必死によびかける。自分を助けてくれるはずの二人を。なぜ自分を無視するのか。
きっと他人の目があるからだ。他の人が見ているから自分と下手にかかわるわけにはいかないのだ。きっとそうだ。そう信じ込もうとした。
しかし、小走りだった足は徐々に遅くなっていく。
そうして完全に歩みが止まった。
夢から醒め、現実に立ち返る。
目に写るのは、馬車が少しずつ遠くなっていく様だった。それでもこの期に及んでも、アオバは振り返ってくれることを心の片隅で期待していた。何か合図を送ってくれるはずだ。甘い希望は簡単には捨て去れなかった。
しかし。
後ろから駆け寄ってきた衛兵が彼を木の棒で組み伏せる。
痛みに声を上げた。それでも視線を彼らから離さなかった。殴りつけ蹴られ彼は痛みに顔をしかめた。思わず叫んでしまった。この声が届かないのか。自分の助けを求める声が。
彼ら親子は彼が見ている間一度も振り返ることなく、少しずつ遠く小さくなっていった。
そうして、アオバは受け入れざるを得なかった。
全てが幻想だったのだと。優しさが優しさで報いられないこともあるのだと。そうして思い知る。自分が人間ではなかったのだと。人間ではない自分が、人の優しさを期待することがそもそも間違っていたのだと。
同時に、アオバは自分があまりにも身勝手な妄想にとりつかれていたと思い至った。彼らの状態は良いものではなかった。衣服から覗く腕や足に包帯が巻かれ、いまだケガが完治していないことがうかがえた。それでも町を後にしなくてはならなかった理由。
自分は少しでも彼らのことを考えただろうか。彼らの気持ちを、境遇を想像しただろうか。彼らが喜ぶという期待の裏には、自分が幸せになって当たり前だという、彼らを救った自分に対する当然の見返りだという、卑しさが潜んでいた。
けがの治療のためにお金が必要だっただろう。どうやって支払ったのか。荷物しかない。生活のために売ろうと馬車であそこまで積んで来ていたはずだ。なのに、それを売って治療費や宿代にあてたのだ。荷台が空だったことに彼は思い至る。
彼らに残されたものはなにか。けがと疲労だけだ。
そんな彼らにアオバを助けるような余裕などあろうはずもなかった。
思い遣りとは強い気持ちや心の余裕がなければできないことではなかったか。そんなことは自分が一番よくわかっていたはずなのに。
それに思い至ったとき、彼は呆然とした。そして恥ずかしかった。
殴られ蹴られ血が出ても動くことはできなかった。兵の一人が剣を抜いて斬りつける段になってやっと彼は我に返った。
抵抗を見せないゴブリンに油断していた兵らの隙をついて、アオバは拘束を逃れると、一目散に逃げ出した。
彼が振り返ることは一度も無かった。
それから数日。
こらえ切れなくなった厚い雲から、雨が落ちはじめた。それは間もなく激しさをまし、アオバをしとどに濡らした。
歩き続けた。行く当てもないのに歩いていた。靴を履いてもいないのに足の裏にはさほど痛みも感じなかった。それが辛かった。
大声で泣きたかった。けれど自分の口から洩れる声は奇怪な音でしかなかった。それが耳障りだった。
かわいそな自分に酔いたかった。全てを拒絶して哀れな自分を世界に見せつけたかった。見てくれる人は誰もいなかった。
そして一番、ただただ恥ずかしかった。自分の浅はかさが。無条件に誰かに優しくされたかった幼稚さが。
繰り返し彼の脳裏に二人の顔が思い出された。あの迷惑そうな顔。
あれほど彼ら親子のことを気遣ったのに、まったく報いられなかった落胆は確かにあったが、その期待があまりにも大きすぎて、それが異常なほど膨れ上がっていたということに気付けず、そのせいで客観性を完全に欠いていた自分の身勝手を思い出すと、アオバは死んでしまいたかった。
そうして、その後悔が過ぎ去ると、今度は二人に対する理不尽な怒りが湧いてきた。
どうして自分を見捨てたのか。自分が手を差し伸べなければ死んでいたくせに。いっそのこと死んでしまっていたら良かったのに。自分を簡単に切り捨て無視した彼らが死ねばいいのにとアオバは呪い続けた。
無事に家に帰れずに野垂れ死ねばいいのに……。
呪いの言葉を吐き出しきると、また彼は恥ずかしさに襲われた。自分の狭量さに目も耳も塞ぎたくなった。その繰り返しだった。
アオバは自分はこんな恥知らずな人間だったのかと愕然とした。自分にこんな汚い部分があったのかと思った。呪いの言葉で自分の恥ずかしさを塗り固め他人のせいにし、覆い隠そうとする性根は、彼が一度も意識したことのない自分の一面だった。
知りたくはなかった。
もっと言えば、人間だったときのことを思い出したくはなかった。
なぜ自分は生まれ変わってしまったのだろう。人間だったときの記憶を持ったまま、なぜ新しい生を生きているのだろう。
せめて、彼らに出会わなかったなら何も知らないままでいられたのに。
アオバは雨の中歩き続ける。どこへ辿り着くのかは彼にもわからなかった。
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