第2話-a 絶望
怪魚を追い払った彼は夜通し火の番をする決心をした。あんな化け物が出た後に安心して眠れるはずがなかった。
体が乾くと、悲鳴を聞いて慌てて戻ってきたときに捨て置いてしまった木の枝を取りに戻った。今日一日で二度も襲われることになった子供のほうは精神的に限界だったようで、薪を拾い集めて戻ってきたときには、静かな寝息を立てて眠っていた。
その寝顔を見下ろす父親の顔が焚火の火に照らし出されている。慈しむような顔だった。無邪気に眠るまだ大人というには幼い顔を指先でなぞる姿が目に入った。
彼はその姿を数舜見つめてから、無言で焚火のに歩み寄った。
父親のほうは彼がもどってくるまでの間、代わりに焚火の番を引き受けてくれていたようだった。起きているのも辛いだろうに、じっと火のそばに座っていた。
彼が火のそばに腰かける様をみて男は莚の上に移動したが、まだ寝るつもりはないようで上半身を起こしたまま彼の様子を窺っていた。
早く寝たほうがいいだろうにと思いながら、そんな男の姿を横目に彼は薪をくべる。火が小さく爆ぜる音が夜の静寂の中に溶けて消える。
それは静かで安らかな時間だった。
夜の闇の中、痛むわき腹を手のひらでさすりながら、怪魚との戦いを思い出していた。過ぎ去ってみるとあまりにも現実感がないように感じられたが、痛みに現実のことだと思い知らされた。
そうやってじっとしていると、収まっていた恐怖が徐々に足元から昇ってくるようだった。寒さではなく恐怖から知らず体が小刻みに震え、それを抑えるように両腕で自分の肩を抱きしめる。
死にたくないと彼は思った。上手く追い返すことができたのは本当に幸運だったと思った。なぜなら彼にはあのときもうほとんど力がのこされていなかったからだ。強張る手に力が入らず、両手で持つことで、やっとナイフを鱗に覆われた体に突き立てることができた。
そのことを思うと、かちかちと歯が鳴るのをとめられなかった。
そんな姿を眠らずにいた男がじっと見つめていた。
その視線は、普通のゴブリンに向けるものではなかった。傷ついた同胞をいたわるような眼差しだった。
彼はふと視線に気づいて彼は顔を上げた。男はついと視線を逸らして莚の上に横たわる。
気温が下がってきたのを感じて、寒さで眠れないのかもしれないと彼は思い至った。星空の下で眠るのは、たとえ焚火を焚いていたとしても辛いだろう。ましてや裸だ。まだ服は乾かない。風邪をひかせてしまってもこの先良い結果にならない。
彼はそう考えて馬車に積まれていた莚をあるだけもってくると、眠っている少年にかけてやり、同じく傍の父親にも手渡した。
男はまさかゴブリンに人の心がありはしないかと探るような目で彼を見た。人ならざる生き物なのに、人に似た振る舞いをする彼を、男は見極めようするかのようだった。
父親は差し出された莚を手で押しやり、彼が使うよう促したが、ゴブリンに無理やりかぶせられた。
火のそばへ戻ろうとするその背中を見ながら、父親は何事かをしゃべった。独り言だとは思えない声音だった。まさか自分に声をかけているのではないと思いながらもつい振り向くと、父親は自分を指さしながら「ギルレン」と何度も発音した。それから息子を指さして「サイ」と繰り返す。
まっすぐ彼の目を見ながら繰り返すさまをみて、彼は理解する。
わかったことを伝えるために二人の名を復唱すると、男は驚いたように声を上げ頷いた。
彼もそれに応えて自分を指さして名前を告げる。懐かしい名を。
「アオバ」
聞きなれない発音に男は眉をひそめた。それを見て再度繰り返す。幾度目かの繰り返しのあとで、男はやっと正しく彼の名を呼んだ。
彼が頷く。それは単に発音の正しさを肯定するものではなかった。互いの間に種族を超えた理解が生まれたことへの承認であった。
なんとなくこそばゆいようにアオバは感じた。しかしそれは決して不快なものではなかった。
そうして父親は何事かを彼に語り掛けると目を閉じた。
この世界の言葉で「おやすみ」と。
アオバはそれを聞き、何を言われたのかを瞬時に理解する。そして彼もまた新しく覚えた言葉でもっておやすみと言った。
月の明るい夜のことだった。
囁くような音をたてて川が流れていく。一度静まった虫の声が控えめに聞こえる。よそよそしい響きはもうなかった。
空が白み始めたと思っていると、しばらくして一条の光が地平線の向こうから空を切り裂くのをみた。
空に流し込まれた墨が朝の陽光で薄められ押し流されて、夜が取り払われていく。そのまぶしさにアオバは目を細めると、朝の静寂の中一人寒さに身を震わせた。
アオバは夜通し起きていた。正確には幾度か眠りの淵から転げ落ち意識と無意識の間で夢を見た。最初は先刻戦った化け物の夢を。しばらくすると別の夢を見た。血塗れの……。はっとして彼は目覚める。背中にあるはずのない傷がずきりと痛み、彼は両手で顔を覆う。暗闇の中寝息をたてる二人の隣で、小さな嗚咽が漏れていたが、声をかけてくれる人も慰めてくれる人もありはしなかった。
朝。焚火の火はもうずいぶん小さくなっていた。薪はもうほとんど残っていない。二人の内のどちらかが起きたら調達して来ようとアオバが考えていると、ギルレンが小さく身じろぎし、朝日のまぶしさに目を開くと起き上がった。
ゆっくりとアオバに目を向けると何事かを二言三言つぶやいた。何を言ったのかはわからなくても、アオバは何を言おうとしているのかは想像できるような気がした。
父親が息子を起こそうとする横で、薪と食糧の確保に向かう。
けが人には休息と食事が必要だ。
本当は川には入らないほうがよいとわかっていたが、小動物を捕まえても上手く処理できる自信がなかったので、二者択一的に彼は警戒しながら手早く魚を三匹捕まえた。
戻ってくると、目覚めたサイの視線がアオバの一挙手一投足に注がれる。それを感じながら彼は魚を丁寧に処理した。
時折サイの口から言葉が漏れ、それにギルレンが一言二言の言葉を返した。
焼けた魚を三人食べた。二人は何事かを呟き祈る格好をしてから、口をつけた。前日よりもよそよそしい雰囲気は薄くなっていた。
食事が終わるとアオバは二人に近づいて傷の様子を確認する。何ができるというわけではなかったが、二人が動けるのかどうかを検分した。血は止まっていたが傷口はひどいものだった。皮膚が裂けて肉が見えていた。幸い傷自体は深いものではなく、骨までは達していないようだった。それでも、状況が良いといえるものではなかった。
アオバはもう少し様子を見るべきか、今すぐ彼らを連れていくかを天秤にかけた。
当初の目的を忘れたわけでは決してなかった。彼らに取り入ってどうにか今の状態を脱すること。しかし、それと同時に彼らの命を優先したいとも思っていた。
だが同時に二つの目的を達成する手段がなかった。このままここにとどまったとして、状況が改善するどころか悪化の一途だと考えた。だからといって、逆に彼らを移送するにしても、自分の姿を道中誰かに見られてしまうという危険性があった。彼らは二人では先へ進めない。そして、アオバもここで二人と別れるつもりはなかった。
短くはない時間が流れた。日がだいぶ高くなったころ、彼はとうとう決心した。
途中で別れること前提で、近くの町まで送ろう。町の手前で人の目につく前に馬車を降りて別れることをしぶしぶ決断しなくてはならなかった。それでもまだ、心の奥そこでは自分に都合のよい夢を諦めきれなかった。
親子二人だけが、この天涯孤独の世界の中でアオバが手繰り寄せることのできた全てだった。
それからアオバは二人を乗せてすぐに出発した。夜は早めに休み、夜明けと同時に起き、二日かけて町の近くとおぼしき街道まで来た。畑や放牧地の中に農村と見える集落がはっきりと見え、人の姿がちらほらと見えた。街道を行く人の数も目に見えて増えたせいで、何度も彼は姿を隠さねばならなかった。
ここにきてもまだ二人と別れることの未練を断ち切ることができなかったが、とうとう道のはるか先に城壁らしきものが見えた。
短時間であれば座っていられるだろうと、父親に御者台に座らせ手綱を渡してから馬車を降りた。何度も親子は彼を振り返った。
その姿をアオバはじっと見つめた。そうすることで彼らに自分の気持ちが通じないかと願った。自分のことを決してわすれませんように。
離れがたい気持ちを未来への期待という根拠のない夢で覆い隠して、ゆっくりと彼は茂みの奥へと姿を隠した。
それから七日以上たった。その間彼はその街道を離れようとしなかった。何をするでもなく、日がな一日茂みの奥から、小高い丘から街道を見張り続けた。
もしかしたらという期待がアオバの中から消えることはなかった。恩人の自分を今度は彼らが救ってくれるという夢を見続けた。
それ以外を想像することが怖かった。おいていかれることが恐ろしかった。
だから、彼は朝早く起きて街道の見える場所に陣取って見張りつづけた。空腹を感じると食糧を探しに行くが、自分の不在の間に二人が通り過ぎる可能性を恐れて、ろくろく食べもせずに戻ってきて、もしかしたらと思って場所を変え、そうして夜まで監視しつづけた。
疲労が蓄積し夜は死んだように眠った。
何度か人に見つかり追い立てられたけれど、彼は場所を変えただけで決して遠くへいくことはなかった。雨の日は、人に見とがめられにくいと思うと、逆に彼は大胆になって見張りを続けた。
これが、この数日の間に彼がなしたことのすべてであった。
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