第1話-b 水辺の戦い

 薄闇の中でも魚は良く見えた。人と違い暗闇でも見える目を自分が持っていることを彼は思い出した。

 二人の人間が静かに見つめるなか、彼は今しがた捕まえてきた魚を器用に黒曜石のナイフでさばくと、さきほどと同じように木の枝を刺して焼き始めた。

 誰も一言もしゃべらない。草むらの中から小さい虫たちの声がかすかに響いてきた。背中の後の草陰で小動物の走る音を聞いた。翅をもつ虫が火の明るさに誘われて飛び交うのも見える。さらさら鳴る川の中で魚がぼちゃりと水音を立てた。

 夜空には星々が輝き始め、地平線の向こうから淡い乳白色の丸い影が昇り始める。この世界にも月があることを思い出す。

 馬が草を食む。火が爆ぜる。ちらちらと三人の顔を照らしながら火は燃え続けた。

 しばらくするといい匂いがしてきて、何度か焼け具合を確かめる。焼きあがった魚を持って彼はそれを二人に手渡した。今度はおそるおそるではあったが、手ずから受け取ってくれた。きつねにつままれたような顔をしてお互いに顔を見合わせてはいたが。

 そうして、少しだけ打ち解けたように彼には感じられた。胸の奥に少しだけ温かいものが広がっていく気がした。

 ふと地面を見ると、木切れが少なくなってきたことに気付いて、彼は再度立ち上がった。二人に木の枝を見せてからその場を離れる。伝わるかどうかは期待していなかったが、間違いなく二人は言わんとするところを理解したようだった。

 彼は夜通し起きて火を絶やさないつもりだった。寝ている間に何かされても困るし、自分が眠った後で何者かに襲われるのも避けたかったからだ。だから、そのためにはもっと多くの木切れを用意する必要があった。

 しかし、日中すでに近くの枯れ木から使えそうな木材は全て集めきってしまっていたので、彼はもう少し遠くまで足をのばさなければならなかった。あまり二人のそばを離れるのは気が進まなかったが、どうしようもない。彼は暗闇に紛れる前に一度振り返った。残される二人は静かに肩を寄せ合ってこちらを凝視していた。それを確認してから今度こそ闇に消えていった。

 また、ぼちゃりと水の跳ねる音が聞こえた。


 彼が枯れ枝を集めるのに小一時間かかった。体が小さいために抱えられる量が少なく、また長すぎる木は半分の長さに折るなどしなくてはならなかった。また、手持ちの道具が黒曜石のナイフだったので、太すぎる木は切ることができず、細い木ばかりを探すことになる。

 川に沿って生える木々は立派に成長しきっており、手ごろな枯れ木というものがなかなか見つけられなかった。あまり遠くへ行き過ぎると戻れなくなる可能性を忘れるわけにはいかなかった。それでも、思ったよりも遠くまで足を運ばざるを得なかったこと、また周囲にどんな生き物が生息しているのかわかっていない状況で、むやみやたらに歩き回ることの危険性を考慮すると、十分に注意して行動しなくてはならなかったために、余計に時間がかかった。

 それでも彼はなんとか満足できるだけの木切れを集めると、それを木の弦でしばって背負い持ち帰ることにした。零れ落ちた何本かは腰ひもに刺して持っていくことにした。

 その時だった。かすかに風にのってあの二人の悲鳴のような声が聞こえてきたのは。馬のいななきも聞こえる。とても怯えている声だった。

 彼は瞬間背負った木材を全て投げ出して駆け出した。何者かに襲われているのだ。一刻を争う。彼らは動けず戦うこともできない。せっかく助けた命を失わせることは避けたかった。

 近づくにつれて悲鳴は大きくなる。何を叫んでいるのかわからないのが歯がゆかった。尋常ではない声。

 彼の心臓は早鐘のように打った。耳にかすかに不快な音が聞こえてきた。さらに小動物などではありえない低い声も。全く聞いたことのない声だった。彼は何度か足元を草や木の根に掬われそうになりながらも走った。

 そして茂みを抜け河原に飛び出す。

 すると。

 そこには奇妙な、川から這い上がってくる魚と形容するのも難しい不気味な生き物がいた。全長はとぐろをまく尾をいれて二メートル近いだろう。全身魚のうろこに覆われ、うろこはぬらぬらとした粘液に光っていた。そして、それは牙の生えたワニのような口を持っていた。それが奇妙な声を上げながら二人に近づいていく。焚火を挟んで相対する人間は度を失っていた。

 彼らの口からマカラという単語が漏れた。それが名前かもしれない。

 彼は即座に手近の石をいくつか拾ってマカラへと投げつけた。怪魚の注意が自分へと向かう。マカラは獰猛なうなり声をあげて彼を見つめた。

 もう一度石を拾って投げつける。マカラは完全に彼を敵と認識したようだった。伸びきっていた尾を縮める。

 突如長い尾が伸びて彼めがけて鞭打つように飛んできた。水生生物で足もないため緩慢な動きを予想していた彼は意表を突かれた。

 彼はとっさに飛び上がってそれをよける。空を切り裂く鋭い音が足元から聞こえた。尋常ではない威力だとわかる。

 彼は着地するとすぐさま反撃に出る。焚火に近寄って火のついた枝を取り上げるとそのままマカラに向かって突進する。急所、目を狙って火のついた木の枝を突き出すと、怪魚が地面を転がり、よけると同時に彼に向かって口から粘液を吐き出した。完全に想像の埒外の動きをされ無防備になっていた体に異臭のする粘液がからみつく。

 動きが鈍った瞬間に再び長い尾が彼めがけて飛んでくる。それを持っていた木の棒でいなすが、耐えられず木の棒が折れる。勢いがまだ残っていた尾が彼の上半身を強かに打ち付け、彼の体はなぎ倒される。

 地面に倒れる前に手をついて転がり衝撃をいなし、立ち上がる。動きをとめることは死へとつながると本能的にしっていた。すぐに顔を上げて怪魚に注視する。

 マカラは口から粘液を四方八方へと飛ばしはじめる。彼はそれに当たらないよう回避する。辺り一面の河原の石が粘液にまみれて不気味に光る。

 腰にさしていた邪魔な木の棒を火の中にくべると、すぐに腰を落としてナイフを握り込んだ。

 彼が見ていると、河原が怪魚の粘液だらけになったと思ったら、今度は尾を使って粘液の上をすべるようにして突進してきた。まさかの動きに慌てて飛び上がる。短剣を両手にかまえてそのまま落下の勢いに任せる。狙いをつけ、声をはりあげて両手に力を籠め振り下ろす。

 するとまたも怪魚は器用に尾を使って転がる。慌てて体制を立て直して着地するも、粘液に足をとられて転倒する。それを見計らったようにマカラが全体重をかけて圧し潰そうとしてきた。背中をばねのように反らして、反動で飛び上がる。

 巨体をよけることはできたが、空中にいる間に長い尾で撃ち落とされた。

 息が切れる。全身が痛む。呼吸のたびに胸が痛むのは肋骨にひびが入っているからだろうか。口の中に鉄の味が広がる。歯で口腔内を傷つけたようだ。

 痛みを無視して素早く再度起き上がり、二人を背にするように立つ。

 視界がかすむ。痛みで足に力が入らない。ナイフを握る手が痙攣していた。

 一瞬集中が切れたところをマカラは見逃さなかった。瞬間暗闇から長く伸びた尾が水平に襲い来る。反応が遅れ中途半端にとった防御姿勢ごと頭部を薙ぎ払われ、小さな体が宙を舞う。そのまま受け身も取れずに地面に叩きつけられた。

 全身を激痛が襲う。

「が……っ!」

 痛みに叫びが口から洩れた。

 軽い脳震盪を起こしたのだろう。意識が途切れそうになる。目を開けているのか閉じているのかわからなかった。目の前が真っ暗になり、自分がどういう恰好なのかわからなった。

 無理やり起き上がろうとして、奇妙な浮遊感と落下感に襲われ、吐き気を催す。耐えられずに、両手をついて胃の中をぶちまける。げぇげぇと溢れる吐瀉物のせいで呼吸が乱れる。据えた匂いに顔をしかめる。

 仰向けに倒れた彼の目に星がちらちらと光るのが見える。

 涙がこぼれた。痛みと息苦しさが思考をかく乱していた。


 暗闇の中一人考える。

 川の流れる音がうるさい。


 こんなことまでする必要などないのに。


 ぼんやりする意識の中で彼は考える。

 あんな親子など見捨てて一人で遠くへ行くべきだったのだ。

 心のどこかで小さな声があがる。

 助けたのはただの贖罪だった。彼らが自分の家族の代わりになどならないと知っていたのに、もし彼らを助けることができたなら、この自責の念も軽くなるのではとどこかで思ってしまった。家族を救うことができなかった後悔を忘れることができるのではないかと。そんなことがあろうはずもないのに。

 自分を罰するというたそれだけの理由で二人を助けただけなのだと彼にはわかっていた。

 そして同時に、仲間のゴブリンたちを殺してしまったことで、彼がもはやゴブリンとして生きる道を失ってしまったことを納得するための理由も必要だった。

 全く知らない世界で、全くの一人で生きていくことが恐ろしかった。考えるだに彼の心も体も震えた。途方もないことのように思えた。

 だから、もし彼らを助けることができたなら、一人ではなくなるかもしれないと期待したのだ。

 あまりにも身勝手だと彼は思った。

 そんな上手くいくわけないと知りながら。自分をだますための言い訳が欲しかったのだ。そのために彼らを助ける振りをして、実際は彼らを利用しているだけだった。

 親子が目覚めるまで彼がずっと考えていたこと、それはどうしたら彼らを味方につけられるかということだった。なんと自分は卑怯なのだろうと彼は何度も思った。

 そして今また自分はそれさえも覆して、自分ひとりで逃げてもいいのではないかと考え始めていた。

 もう一度困っている人間を助けて再挑戦すればいい。それだけだ。今ここで命を失うのはばかげている。自分が誰かを助けようと思ったことがそもそも思い上がりだったのだ。そのせいで死にかけている。割に合わない。

 ほんとうに自分は馬鹿だと、彼は自分で自分を罵った。

 しかしもう遅い。もう逃げられない。全身の痛みのせいで動けない。なんて愚かなんだろう。

 そもそもこんな体に生まれた時点で幸せになる道なんてなかったのに。

 絶望が彼を蝕む。

 このまま、死んでも別に困らないと思った。むしろそのほうが良いと思った。

 

 何もかもを投げ出そうとしたとき。

 遠くから二人の声が聞こえてきた。痛む頭を動かし、霞む視線を声の発せられたであろう方へわずかに向ける。

 そこには肩を寄せ合って互いをかばいあう二人の姿が見えた。

 まっすぐ彼を見ていた。怪魚ではなく、自分の方を。

 何事かを必死に叫んでいた。何を言っているのか彼にはわからなかった。

 しかし、その目は……。


 悩んだのは刹那の時間。

 

 動かなくなったゴブリンを無視して、怪魚が残された二人に狙いを定める。ゆっくりと尾を動かして狙いを定め、薙ぎ払う。伸びきった尾は一直線に親子へと飛んでいく。抱き合う二人を打ち倒そうとする寸前。

 完全に昏倒したと思われていたゴブリンが、下から足で伸びた尾をけり上げる。上方に軌道を逸らされた切っ先が空を切った。

 マカラは一瞬何が起こったのか理解できずに停止する。

 その瞬間。

 彼はすぐさま起き上がると、咆哮を上げて走り出す。ぬめりに足をとられバランスを失いそうになりながら、両手にナイフを構え、彼は一目散に走る。

 圧縮された血液が全身を急速に駆け巡りだすのを感じた。

 痙攣する腕に力が入らない。両手で持つのがやっとだった。

 諦めることは許されない。ここで逃げては、家族に顔向けできないと彼は思った。もう守りたかった家族はどこにもいないのに。

 マカラが思考を取り戻し、向かってくるゴブリンに対して尾を振り足元を払おうとする。それを最低限の高度で飛び跳ねてよける。マカラの口から粘液が吐き出されるのをしっかりと見据え、横に跳ねて回避した。

 大丈夫。落ち着いて対処すれば倒せる。そう彼は自分に言い聞かせる。体の震えは止まらない。視界もまだ少しぼやけている。頭が割れるように痛む。

 けれど。


 恐れるな。


 全身に力を込めた。大きな鼓動のような震えが体中を駆け巡った。ぎりぎりとナイフの柄を握り込む手全体に力がみなぎる。

 攻撃を食らったのは予想外の動きに驚いたからだ。素早いのは長い尾だけ。それ以外はいたって普通の速さで、落ち着いて対処すればもう当たらないと彼は自分に言い聞かせる。

 小さな影はそのまま突進し、体制を低くして薙ぎ払おうとする尾を避けると、その隙をついてスピードを落とさず滑りながら接近し、ナイフをマカラの胸鰭に突き立てた。

 長い尾を安定して繰り出すために、頑丈な胸鰭で体をしっかりと固定しなくてはならないことに、今までの一連の様子から彼は結論付けていた。だから一番厄介な尾を封じるには、上体を固定する頑丈なひれに攻撃を加えるのが効果的だと踏んだのだ。

 怪魚が苦痛の声を上げながら、全身で踏みつぶそうと転がる。それをしっかりと避け、怪魚が起き上がったところで、すかさずもう片方の鰭にもナイフを突き立てる。怪魚は血を流しながら暴れた。

 河原に血しぶきがとびちる。

 完全に恐慌状態に落ちたのか、尾をむやみに振り回して敵の接近を拒む。しかしもはや先刻見せたスピードはない。

 彼は先ほど火にくべた長い木の棒を火から取り出すと、恐慌状態に陥ったマカラに注意深く近づき急所である目を片方焼いた。完全に戦意を喪失したのだろう。怪魚は徐々に勢いを失って、最後には川へと戻っていった。

 本来は水中で獲物を待ち伏せして襲うタイプの生き物だったのだろう。この川べりを縄張りにして、近づいた旅人を襲って食べる、そういう生態だったはずだ。

 しかしその河原へと至る道は草に覆われ隠されていた。

 何らかの理由で旅人がここに立ち寄らなくなったために、飢えて、久しぶりにやってきた自分たちを襲うために陸に上がるという愚策にでてしまったのではないかと彼は考えた。

 先ほど魚を取ったときに襲われなかったのは運が良かったのか、夜行性で日が落ちるのを待っていたからか。

 彼はすぐに頭を切り替えると人間のほうへと向き直った。無事な様子に安堵し、自分がこの程度のけがで済んだ幸運を喜んだ。まさかあのような生き物がいるとは思わなかった。想像以上に恐ろしい世界だと彼は認識を新たにした。

 

 一息ついて自分を振り返ると、乾いた粘液が乾き体全体にこびりついていた。気持ち悪さに服を脱いで、警戒しながら川べりに近づいて体を音を立てないように洗った。マカラを倒したというわけではなかったが、深手を負った状態で再度襲い掛かってくる可能性は低いと期待したのだ。あまりにも気持ち悪すぎてこのままではいられなかったという理由のほうが大きかったが。

 彼は体を清めると服を洗い木の枝に干した。全裸は若干はずかしくあったがどうせ種族が違うのだから二人も許してくれるだろうと思い、そのまま火のそばに近づくと、薪が残りわずかだったことを思い出した。すぐに、拾いなおしてくるとやっと日の傍に腰を下ろした。肋骨の痛みはあったが、なんとか我慢できるものだった。呼吸には十分きをつけなければと思った。

 気づかわしげな視線に気づいて二人を見る。彼らの目はもはや疑いようのない信頼のまなざしが見て取れた。もちろん完璧な信頼などはあり得ない。彼らからすれば自分は怪物でしかないのだから。

 それでも、さきほどまではなかった心を許したような表情と、気遣うようすが、彼にはこれ以上ないくらい嬉しかった。

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