第1話-a 水辺の戦い

 馬車は勝手気ままに進んでいく。

 幾本も通ったわだちはぬかるみ、馬の歩みは遅い。ところどろこに小石が落ちているのだろう、乗り心地は決して良いとは言えなかった。

 御者台に腰かけながら、彼は幾度目か後ろを振り返る。荷台に眠る二人はまだ目を覚まさない。どこかで手当てをしなければと感じていた。一応着ている衣服を裂いて傷口を縛って止血をしたが効果のほどは不明だった。その上泥に汚れた衣服の切れ端では衛生上良いとは言えなかった。濡れた体を乾かしてやりたいとも思っていた。今は荷台に寝かせ二人の体を大きなむしろで覆っている。荷物の雨よけに荷台に積んであったものだ。

 さらに、二人のけがはひどいものだった。目に見えないけがも心配だった。包帯を綺麗な布と交換もしたかった。だから安心して休める場所が欲しかったが、知らない世界。どこが安全かなど彼には皆目見当もつかなかった。色々な危険生物がいることは、長いゴブリン生活の記憶から拾い出すことはできた。

 そのことは彼の気持ちを滅入らせた。昔の自分が暮らしていた世界、日本とは全く違う場所なのだということを、否が応でも認めねばならなかったからだ。

 いっそのことこれもまたただの夢であったならよかったのに。

 あのことも。

 目が覚めたら温かいベッドの中で、優しい家族がいる生活に戻ることができたなら……。しかし、そんなことはあり得なかった。体から血が流れだす。徐々に冷たくなっていく感覚。すっかり冷たくなった最愛の家族。

 そこで彼は頭を振って思考の迷路から抜け出す。


 運よく河原にでも行き会えばよいのだが、と彼は思った。しかし、水があるということは人と遭遇する可能性があるだろうということに思い至る。

 しかしそこで、人と出会うのに不都合はないのだと思い至る。人に出会ってはいけないのは自分だけなのだ。彼ら二人を人目に付く場所に放置して、親切な人に助けてもらえばいいのではないかとも考えた。

 それが一番良いのではないかと思ったが、血まみれの人を助けてくれるだろうかと思いなおす。無視されでもしたら、二人は死んでしまうかもしれない。

 そう思うと、自分がなんとかしなければ、せめて町までは連れて行かなくてはと考えた。そのためには、人に見つからないようにしなくてはならない。とりあえず、常に周囲に気を配ろうと自分に言い聞かせた。

 場合によっては追い立てられ殺される可能性もありえた。


 どうして。


 幾度となく同じ問に行き当たる。さきほどから思考が堂々巡りを起こしている。

 生まれ変わる前の自分が何者であったのか、その時の人生を思い出そうとすると、辛く悲しい。そして同時に絶望と怒りが押し寄せる。だから、その度に彼は思考を中断し、今後のことに思いを馳せるのだった。

 幸い彼には鋭い五感が備わっており、小さな変化や物音を敏感に察知することができた。万が一誰か人と行き当たるようなことがあれば、その前に馬車を飛び降りて茂みに隠れる準備はできていた。ただ、必要以上に感覚が良いせいで、些細な匂いや小動物のたてる小さな音にも驚かされた。

 そうこうしているうちに、空を覆っていた黒雲が流れ去り、視界が明るくなってきた。雨もすっかり止み午後の柔らかな日差しが雲の切れ目から見えるようになった。

 すると、かすかに水の流れる音が聞こえた。なんとか馬を止まらせると耳をそばだてる。川があるのかもしれない。どこか脇道はないかと探すと、少し行った先で草に覆われかけた細い道が枝分かれするのを運よくみつけることができた。

 馬を操る方法もわからないので、馬車を降りて手綱を持って引っ張る。馬は嫌々彼の後ろをゆっくりとついてきた。

 しばらく進むと開けた場所にでる。流水が削り運んできた丸みを帯びた石が一面に広がる河原にでた。細い川に出たのだ。

 自分の耳の良さを心から喜んで川べりまで手綱を引く。馬が川に口をつけて水を飲む。

 手綱を手近な木に結わえ付けると、荷台へ取って返す。

 二人がまだ目を覚まさないのを確認して何をするべきか思案する。

 すぐに方針を決めると彼は行動を開始した。まずは火を起こさなくてはならない。時間的にこれ以上先へは進めない。先に何があるのかわからないのだ。水場を離れないほうがいいかもしれないと考えたからだ。

 まず立ち枯れた木を探した。雨で濡れそぼった木々が目立つ。林の中に入り、運よく雨を免れた木を見つけ、手に持った黒曜石のナイフで乾いた枝を切り一抱え集めた。それから火を起こすために必要な背の高い草を探す。中が中空で太くて丈夫な枯れた草。

 見たことのない植物ばかりではあったが、その中に想像と合致する草を見つけた。いくつか吟味してからよさそうなものを一本刈り取る。それから、同様に枯れた草の中から、綿毛や草の穂で乾燥したものをいっぱい集めた。

 河原に腰を落として作業を開始する。火の起こし方は人間の子供だったころに習ったのを思い出した。

 適当な木の枝を削り手のひらで乾いた草の茎をこすりつけて火種を作る。それを綿毛などの中に落として着火して、火を起こす。

 果たして手順を覚えていた。時間はかなりかかったが、期待通りに火を起こすことができた。切り取った枯れ枝をくべて焚火をする。

 それから彼は莚を河原に敷いて、眠る二人を荷車から丁寧におろした。下は石だ。乱暴に扱うと目をさましてしまうかもしれなかった。まだ何の手当もしないうちから目を覚まされて、騒がれるのは困る。

 下着も含めて衣服を全て脱がせ、体中を検分する。見えないところに大きなけがを負っている可能性を恐れたためだ。彼は、外見からほとんど自分の知る人間と変わらないとは思っていたが、衣服の下の体の作りも全く同じだったことに驚いていた。

 これならば、昔の自分とほぼほぼ同じ生態であろうと期待できる。もちろん確かなことは言えないが。

 包帯にしていた泥だらけの布切れも洗い再び傷口をしばる。それから、ほかに傷口が無いかをあらためる。幸いなことに大きな傷は最初に手当てをしたところだけだった。

 急所を外れた傷ばかりだったのは幸いだった。ゴブリンたちが彼らを襲ったのも狩りの練習という側面がつよく、すぐには殺すつもりがなかったのだと彼は知っていた。ただ、あのまま殴られていたら、最終的にとどめを刺されていたはずだということもわかっていた。

 また、人体に大きく腫れた箇所はなかったが、骨折によるものなのかただ殴られた跡なのかの判断ができない内出血が見られた。変色した肌が痛々しかった。もしかしたら骨にひびがはいっている箇所もあるだろう。

 ただ、完全骨折でなさそうなのは、全員にとって救いだった。彼には医学的な知識があまりなかったため、知識の上で添え木をするということはわかっていても、完全に折れた骨を正しく固定することができるか怪しかったからだ。骨にひびがはいっているだけなら、痛みは辛くとも後遺症が残ることはないだろう。

 それから川の水で二人の衣服を洗濯して木の枝に干した。火の勢いが弱まっていることに気付き、薪をくべる。彼らが風邪をひかないように、そして獣が近づかないように、火の勢いはきをつけなければいけない重要事項だった。

 それから食糧集め。

 残念ながら食べられる野草がどれかわからないため、川を泳ぐ魚を捕まえることにした。魚が毒を持っていないとも限らなかったが、何も食べずにいるのは良くなかった。自分が最初に食べて毒見をすればよいだろうと考えていた。

 釣りは前世でしたことはあったが、手づかみで捕まえるのは初めての経験だった。川になにがいるか知れたものではなかったが、それほど深い河でもないので、ピラニアのような魚がいないことを願いながら両足を水に浸す。

 ここでも彼のゴブリンとしての五感が役に立った。

 水の中を見通す視力でもって魚を見つけ、追い込み捕まえる。魚の動きを予測して両の手を水中に突っ込んで魚を河原へ弾き飛ばす。

 大小5匹の魚をとらえると、細い木の枝を刺した。万が一のために内蔵も取り除いた。それを地面に突き立てて魚を焼く。日は徐々に暮れようとしていた。

 少し気温が下がってきたかもしれない。彼は二人が寒くないか、熱はでていないかを確かめると、少し二人の体が熱いような気がした。このままではまずいかもしれないと考え、彼は木切れを追加して火を大きくする。川の水を飲ませたほうがいいのかどうか判断がつかなかった。


 さわさわと川の水が流れ行く音がする中、一人火に向かう。徐々に茜色を増した空を背景にじっと火を見つめる。

 それからしばらくして魚が焼きあがるいい匂いがした。恐る恐る口に運ぶ。空腹に焼いた魚はおいしかった。二匹目を食べ終わるころに、父親のほうがうめき声をあげるのを聞いた。見ると体の痛みに反応して反射的に頭や腕などをさする。寝返りを打とうとして体の痛みに呻き、そこで意識が覚醒したのだろう。目を開けて辺りを見るために頭をぐるりと動かした。

 そのまま硬直する。こちらを見たのだ。

 男の顔は驚愕に引きつり、口から大きな悲鳴が漏れた。そして、逃げようとするように上半身を起こし、それから全身の痛みに顔をしかめて上体を倒す。もしかしたら思っている以上にけがの箇所が多いのかもしれないと彼は思った。

 それから目をぎゅっとつぶって何事かをつぶやく。彼には当然理解できるものではなかった。

 そしてはっと気づいたようにもう一度目を開くと周囲を見渡す。そして期待したもの、つまり自分の息子もまた同様に横になっていることに気付いた。

 男は何がおこっているのか理解できないようだった。驚愕の表情が徐々に薄れると信じられないというように、彼つまりゴブリンと焚火とに視線をさまよわせた。

 両の足を動かし逃げようとするが、全身の痛みに顔をしかめる。そして自分の体を見る。服が脱がされ泥は綺麗に落とされ、大きなケガには包帯が巻かれている。男が状況を理解できないでいる。

 彼は自分の顔をすでに川に移して確認していた。こうなるであろうことは完全に予想していたが、やはり辛いと思わないではいられなかった。

 ぎょろりとした目。小柄な体。するどい牙と爪。大きく裂けた口。奇妙な色の肌。どれも人間とは思えなかった。それは彼の記憶の中のゴブリンを彷彿とさせる姿だった。

 しかし、心を通わす言葉を持たない彼にはどうすることもできなかった。だから彼は心を落ち着かせるために一度瞬きすると、立ち上がって焼けた魚を父親に差し出した。

 再び驚愕の色が顔にうかぶ。それは恐怖ではなく信じられないものを見る目だった。ゴブリンが人を助けるなど、あるはずがないと彼の表情が語っていた。

 胸の奥がちくりと痛んだ。

 魚を受け取る様子がないのを確認すると、彼はそれを莚の上にそっと置いてもとの場所に戻った。気にしていないという風に、襲う意思はないという風に火に枝をくべる。それから、ことさら強調するように魚を一つ手に取って、食べ始めた。

 ゴブリンの瞳の中で炎がゆらゆらとゆれた。それを見つめていた男は、彼の瞳に何をみたのだろう。普通のゴブリンとどこか違うということに気付く。まるで人間であるというような仕草。冷静になりつつあったその男は、ゴブリンの仕草に何か感じ取ったようだった。

 視線は決してそらさずに、彼は魚をゆっくりと手に取って口へ運んだ。

 思いのほか空腹だったのだろう。男はそれをぺろりと平らげた。

 するともう一人が頭を押さえて起き上がった。父親がすかさず声をかける。子供のほうはまだ状況をつかめてない。なんどか頭をふると、はっとしたように顔を上げて目を見開いた。父親と焚火とゴブリンと。期待した姿と全くの予想外の姿。

 息子のほうは一瞬呆けた顔をしてから、すぐに恐慌に陥ったように口を動かすが、うまく声がでないようだった。父親が幾度も声をかける。なだめすかしているのだろう。あるいは大声をあげてゴブリンを刺激しないように言い聞かせているのかもしれない。

 人の言葉のわからない彼には知る由もなかった。

 それから息子のほうが落ち着いたようすを見せ、二人がお互いにお互いが無事であることを喜ぶ姿を視線の端でとらえて、彼は最後の一匹を息子のほうに差し出す。受け取る前に、先ほどと同様に莚の上に置く。

 驚愕に見開かれる眼。それを横目に、彼はもう少し魚を捕まえておくべきだったと思った。それからゆっくりと立ち上がる。彼らを刺激しないように。攻撃する意図がないということを見せるために。

 親子二人で話し合う時間が必要だろうと思った。どうせ逃げることはできない。変に自分がそばにいて暴れられても厄介だと思った。

 二人の視線を背中に感じながら彼は夕日の照り映える川に入っていった。

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