第0話-b 目覚め

 小柄なゴブリンたちにとって、それらは見たことのない生き物だった。

 だが一目で親と子であることは見て取れた。

 だから、群れのリーダーは子供を先に仕留めるよう促した。

 そのことに対して異存はなかった。だからしたっぱの彼らは武器を構えることに躊躇しなかった。雨音に紛れて、徐々に距離をつめていく。いつもやっていることだった。

 できるだけ風下から近づくこと。姿勢を低くして草木にまぎれること。忍び足で移動し音をたてないようにすること。今まで幾度となく繰り返してきた動作だった。

 その獲物たちは他のどんな動物よりも嗅覚も視力も聴力も劣っていた。楽な狩りだと全員が思っていた。

 空からの轟音を合図にして一斉に間合いを詰める。

 ここにきてやっと自分たちの接近に気付いた愚かな獲物。あとはいつものように仕留めるだけだった。獲物の体は大きかったがやれないことないとどのゴブリンも考えていた。獲物が威嚇を繰り返すが全く効果の無い動作だと彼らにはすぐに分かった。

 リーダーに続いて他の四体のゴブリンもじりじりと近づいていった。

 なのに、体の大きいほうが小さいほうを守ろうとする姿を見、そして恐怖にゆがむ顔を見た瞬間、そのゴブリンは強烈な既視感を覚えた。

 皆が揃って距離を詰めるなか、一人だけ歩みが遅くなる。そのことに他のゴブリンの誰も気づいていない。円を描くように散開した陣形が一箇所だけ乱れる。

 適切な距離まで近づいたと群のリーダーが判断して立ち止まる。それに合わせて全員が姿勢を低くしてその瞬間を待った。

 二人の人間はまだ気づかない。自分たちが囲まれ、観察されていることに。

 ゴブリンたちもまた気づかない。小柄な一体が歩みを止めていたことに。

 幾度目かの雷鳴の後、群が動いた。ゴブリンたちが飛び掛かり、遅れて気づいた二人が色を失うその影で、彼は一人動かない。しきりに首を傾げ何事かを考えていた。



 そして、その獲物たちが発する甲高い悲鳴が耳に流れ込むと同時だった。

 脳内の血液が急激にその量を増したような感覚。

「―――――――――っ!!!」

 言葉にならない声が自分の口からもれるのを彼は聞いた気がした。しかしそれは同時にまるで他人の声のように聞こえた。

 その瞬間、彼は霊感を得たように脳裏に様々な映像が次々浮かぶのを見た。

 ゴブリンとしての記憶。

 ゴブリンとして生まれる前の記憶。

 知らないはずなのに知っているという矛盾。

 経験したこともない記憶。

 甲高い悲鳴を上げて恐怖にひきつる二人の顔から眼が離せなかった。

 見知った二人の顔と一つの幻とが重なる。

 なぜか全身に震えが走り、胸の奥に今まで抱いたことのない感情が湧いてきて、彼の思考する力をすべてさらっていった。

 その感情とは言うなれば、悲しみであり後悔であり絶望でありやるせなさであり嘆きであり怒りであり呪いであった。

 そして思い出す。

 本来の自分を。自分が何者であるのかを。

 それと同時に一つの意思が脳裏にひらめく。


 殺してやる。


 その瞬間彼は全てを忘れた。

 ただ殺してやるという気持ちだけが脳髄を満たした。

 二人のあげる悲鳴が彼の耳から脳へと伝わる。視線は二人から離せない。目の前で切り刻まれ殴られるままに地に伏し、抵抗もできないその姿が、彼の理性の糸を断ち切った。

 気付くと彼は一目散に走り出していた。自分のことを全く警戒していない、ひときわ大きな背中に向かって。

 両の手に限界まで力を籠める。その一撃に、自分に対する怒りと誰とも知らない相手への怒りの二つをこめて振り下ろした。

 手ごたえとともにナイフが相手の背中を貫いた。ナイフはろくろく手入れもされていない黒曜石。木でできた柄に、切っ先が肉に食い込む感触を生々しく伝えた。ゴブリンとしては初めてではなかったが、彼としては直に経験する初めての感触に、しかし彼は臆することなく根元まで突き刺す。

 のんびりとしている時間はなかった。頽れる様子をしっかりと確認してすぐさまナイフを引き抜く。骨に刃が引っ掛かったが構わず力任せに引くと、不快な音が聞こえた。

 そして、刃にこびりついた血肉や骨片には目もくれず、驚き硬直している手近な相手に向かって走る。

 知っている相手ゴブリンだった。一緒に育ってきたという記憶が一瞬脳裏をよぎったが、すぐさま怒りがその思い出を黒く塗りつぶした。

 許さない。

 躊躇なく二撃目を振るう。

 短い悲鳴が聞こえた。

 ナイフは容易にその喉笛を切り裂いた。そのまま次へ。そして最後の一体を。

 動かなくなった同胞を見下ろしながら、けれど憐れむ気持ちは湧いてこなかった。その代わり達成感もなかった。

 荒い呼吸だけが繰り返される。

 そのまましばらく立ち尽くした後、彼はゆっくりと歩き出す。

 倒れている人間二人を見下ろす。全身切り傷と打ち身だらけで身動きもしなかった。死んでしまったと思った。そう思うと、突然怒りは消失し、ただ悲しみと後悔だけが残った。

 ふと自分の両の手を見る。血まみれの指が目に入る。いびつで細く短い指だった。

 まるで自分の手ではない。

 それはたしかに記憶の中の自分の手とは違っていた。そのことに大きな衝撃を受けて彼は立ち尽くした。ナイフはいつのまにか取り落としていた。

 彼は知らず声をあげていた。喉からとめどなく呻き声があふれ出した。

 自分の足を、腹を、胸を見、触り、手のひらで顔に触れる。

 なんだ?

 彼は自分の状況を認識して混乱に陥った。それが落ち着くと今度は不安と恐れとに飲み込まれた。

 何が起こったのか。どうしてこうなったのか。自分はどうなったのか。自分は何をしたのか。彼は必死に考え、どうしてこんなことになったのかを探ろうとした。

 人としての自我が生まれたのはつい先ほどのことであり、それ以前の記憶はすでに霧の彼方にぼんやりとかすんでしまっていた。

 言葉にたよらずに本能で認識していた世界のことを、言葉の世界の住人が理解できないのは道理だった。もはやゴブリンだったころの記憶を紐解くための手がかりは失われていた。

 一匹の怪物として生まれてから、自分が何を考え何を思って行動していたのか、人としての思考の枠組みを取り戻した彼には理解が難しかった。

 その代わり、彼は異形の生き物として生まれる前の記憶をはっきりと思い出していた。

 人間だったころの記憶を。

 死ぬ間際のあの映像が心を支配する。血まみれの……。彼の幸せの全てが崩れ去った日のことを思い出した。

 彼の孤独も怒りも悲しみも後悔も殺意も絶望も呪いも。そして失われた幸せと希望と夢と。

 全身がただ震えた。ないまぜになったあらゆる感情を抑えることができずに。

 そうしてしばらくの間立ち尽くしていたが、彼は思い出したように顔をあげると、ゆっくりと地に膝をつく。

 純粋な同情と悲しみが新たに湧き上がってきた。

 折り重なる二人。互いが互いを守るように強くだきしめた腕。

 目頭が熱くなるのを感じた。

 二人の姿に重なる思い出を、彼は頭を振って消し去る。

 せめて二人の安寧を祈ろうと手を伸ばすと、かすかに上下する胸に気付く。よく見るとたしかに息をしている。

 そのときの気持ちをなんと表現したらよいだろうか。彼は心の底からうれしいと思った。そしてなんとかして彼らを助けなければと思った。


 一刻も早く手当てをしなければ。

 彼は二人の体をどうにか馬車の荷台に担ぎ込んだ。自分の背丈ほどの高さへ人一人を持ち上げるのは、想像以上に苦労した。意識のない体は全く固定されず、ずしりと重かった。

 時間をかけてなんとか二人を横たえると彼は馬にムチをあてた。馬に乗ったこともなければ実際に触れたことも直接見たことすらなかったので、上手く操って移動するということができないだろうということは分かっていた。

 だから、一二度ムチをあてて、後は馬が進むにまかせることにした。どっちにいけば町が近いのかもわからなかったが、どうせ道はかならずどこかの町へと通じているという期待だけで、彼は馬を進めた。

 それは一つの賭けであり願いであった。この道の先がどこへ辿り着くのか彼自身わからないし想像もできなかった。ならば、どうかせめて二度と絶望へと至る道ではありませんようにと、彼は願わずにはいられなかった。

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