三層のイメージと夢の中

 前章の繰り返しになりますが、これはあくまで「私」の読書に対する考察です。

 だから全く見当はずれと感じる方も多数いらっしゃるでしょう。例えば、文章を味わうように読むという方。ページにがりがり傍線を引く方。読書中に文章を強く「意識」している方には当てはまらないと思います。


 読書、主に小説に夢中になっているときの私は、文字通り夢の中にいます。これは自覚している夢、いわゆる明晰夢ではなく、曖昧あいまい模糊もことしてふわふわした一般的な夢のことです。

 ページをめくる動作は自動化され、視線で追う文字列を意識しなくなり、端的に言えば自我が消滅します。

 昔、自分のPCも持っておらず、深夜アニメもほとんどなく、放課後から寝るまで読書しかしていなかった頃。表紙を開くや、すぐにその状態に入れたのですが、最近は「文章を読んでいる自分」を意識することが増えてきているのが悩みです。

 集中力の衰えでしょうか。

 話を戻します。

 私にとっての小説とは、あくまで物語に没入するための入り口で、文章の良し悪しはおろか、意識すらしていませんでした。


 でも夢って映像だよ。読書は脳の映像化じゃないって話と、どうつながるの?

 そう思われた方もいるかもしれませんので、少し整理してみます。


 ひな祭りの菱餅でも、菓子パンのシベリアでもなんでもかまいません。3つの層を想像してみてください。私の考える、私の読書は次のようなイメージになります。


 ――第一層 印刷された文字・文章・現実の世界――

 ――第二層 意味・概念・想像の世界 夢の中—―

 ――第三層 脳裏に思い浮かべる視覚イメージ・映像の世界――


 当たり前ですが、基本私たちは第一層で生活しています。現実に小説を手に取り、ページをめくり、文章を読み始めます。

 慣れていれば、そのまますぐに第二層に入れるでしょう。後はそのままゴールまでただようだけです。第一層に戻ることなく辿り着いたなら、夢中で読めたおもしろい物語、ということになります。

 重要なのは、私の読書は第二層で完結しているという点です。描写密度によって第三層に限りなく近づくこともあるでしょうが、壁を超えることはありません。表紙イラスト、挿絵で一瞬だけ壁に触れることはあります。しかしそれも一瞬です。すぐに輪郭がぼやけ、抽象的な概念として物語に埋没します。

 見た映画の原作や、ドラマのノベライズを読んでいるときに「意識して」人物、風景を映像として動かすことは可能です。ですが私にとって読書中、何かを意識することは負担でしかありません。

 そう。大変な負担です。

 例えて言うなら、テキストデータから意味だけすくい取って、そこをふらふら漂うのが私の読書です。動画データにまで解像度を上げると処理がパンクします。パンクしなくても処理速度はガタ落ちして、もはや無理やり動かすことが目的になってしまい、物語に入っていけなくなるでしょう。小説を読むのが苦手、という方は第二層に入るのに慣れておらず、一足飛びに第三層に入ってしまい、立ち往生してしまうのではないか、というのが私の想像です。

 ちなみに前章で述べた、視覚イメージを読み取る機械。あれも被験者は動物や図形の映像を、はっきり意識して思い浮かべています。決して被験者が意識もしていないイメージの読み取りができるわけではありません。読書体験を共有する日は当分来ない、というのも同様の理由からです。

 夢は確かに、過去の映像記録のツギハギと言われていますが、覚めた夢は映像と言うにはあまりに不鮮明なこと、見ている本人が意識していないことから、第二層を夢の中に例えました。


 タイトルの由来になった作家、秋山瑞人や文章表現についての話が一向に出てきませんが、この第二層は文章の好みにもつながる予定です。

 読書と脳内映像の対比が、もう少し続きますが、しばらくお付き合いください。



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