読書 ≠ 脳内での映像化

 読書は非常に個人的な趣味です。

 同じくインドアな趣味である映画ドラマ、ゲーム、漫画と比較しても、「個人的」という点で他の追随を許しません。それは同じ物を見て、同じ体験を共有することが事実上不可能だからです。どれだけ趣味の合う読書仲間と、同じ本を読み、似た感想を持ったとしても、同じ体験をしたとは言えません。

 最近では技術の発達で、脳内の視覚イメージを映し出すことも可能になってきたそうです。SFですね。

 では近い将来、人の読書体験を共有することができるのでしょうか。

 これもやはりNOです。

 映像が目に浮かぶような情景描写。そんな言葉もありますし、私も似たような感想を書いたことがあります。しかし厳密には、(少なくとも私にとっては)文章を読むことと、映像を思い浮かべることは全く種類が違います。

 こういうことを考えるきっかけは、学生時代、アルバイト中のある出来事でした。

 

※レーティングには触れない程度だと思いますが、多少シモな話題です。


 私の趣味が読書だと知ったバイト仲間が、ある日話しかけてきました。

「じゃあさ、エロ小説とかも読んだりするん?」


 当然「YES」と答えた私に、彼は続けてこう聞いてきました。

「ああいうのってさ、やっぱり色々裸体とか想像したりして興奮するの?」


 正確な記憶ではありませんが、彼の質問は「映像を想像するのか」という意味でした。「まあ」とか「ええ」とか適当に肯定しつつ、私はどうしても違和感がぬぐえませんでした。

 エロい小説を読んで興奮する。しかし私は女体なり裸なりを、視覚イメージとして思い浮かべているのだろうか。

 今ならはっきりとNOと言えます。

 と言っても、印刷された卑猥な単語に、パブロフの犬のように反応しているわけではありません。その文章全体から立ち上がるイメージに、視覚ではなく「意味・概念」を司る脳のどこかが反応して興奮するのです。

 多分このあたり、「あなたが思う『赤』は私の思う『赤』と同じなの?」というクオリアの話にも関わりがあり、それはそれでおもしろいのですが、長くなるので今回は割愛します。

 

 とにかくこの気付きにより、長い間、本当に長い間疑問だった「読書が苦手。疲れる」という人の声が、唐突に理解できた気がしました。


 ――ああ、この人たち、もしかして文章をいちいち映像に変換しているのか。そりゃしんどいわけだよ。


 人物や情景描写を、毎度映像としてイメージしているとなると、私ならあっという間に脳の処理速度が喰われて、物語を楽しむどころではないでしょう。

 同時に、物語が大好きで今まで結構な数の小説を読みつつも、文章にはロクに関心を持っていなかった自分の「読書」に対しての考察も深まりました。

 詳細は次回にて。



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