出会うべきではなかったかもしれない

第一幕

 天童縫子てんどうぬいこの朝は、とにかく遅い。


 それは先天的な低血圧の所為もあったが、そんな使い古された言い訳のような理由はあってないようなもので、その実、縫子は日々夜通し乱痴気騒らんちきさわぎに精を吐き、月は太陽、そして太陽は月、あるいは、昼は夜、夜は昼、といった見事な昼夜逆転の生活をほぼ二年以上繰り返しており、自堕落を通りこした末に、最早大罪すらも嘲笑うような、人としてあるまじき習性のもと、今日もその醜態を晴天の空に晒し続けている。


 極めて貞淑ていしゅくなプリンセスが這入るような、天蓋てんがい付きの豪奢ごうしゃなシルクのベッドに縫子は眠っていたが、彼女の性質を知る稀有な者たちからすれば、そのアンマッチな光景に酷く憂鬱な気分になっていたかもしれないし、実際のところ、プリンセスだったら布団に波一つたてずに粛々と眠っているだろうが、かくも縫子の様子といえば、掛け布団をぐちゃぐちゃに丸めて抱き枕にしており、マットを包んでいたシルクのシーツは往年の婆の如く皺くちゃな有様で、ふかふかとしためいいっぱいに羽毛が詰まった枕はよだれできらきらしている。


 本来あった筈の高級感が根こそぎ消えうせていて、ベッドを覆っている白の透明な蚊帳かやにいたっては、一側面が半ば程で千切れている。

 一体全体、どうしてそうなったのかは本人ですら分からないことだった。大方酒を飲んで帰ってきた時にでも引っかけたのだろう、縫子としては寝れたらそれでよかったし、これは既に半年もの間そのままにされていた。


 今日という特別な日を迎えることがなければ、まだまだ、当分はこのままだったかもしれない。とはいえそんな危惧きぐも終わるようだった。


 丁度、正午を過ぎた頃、縫子は大口を開けて欠伸を吐き出しながら、その破れた蚊帳の面から芋虫のように這いだしてきて、のそり、のそりと、そのまま絨毯の上を進み、部屋の中央辺りで重い腰を起こすと、ゆっくりと、羽化するかのように立ち上がった。否、悪魔の起床である。


「クソが。頭が痛え」

 縫子は眉間を揉みしだきながら、洗面所に向かった。


 大理石で出来た洗面台には、様々な化粧品、化粧道具、歯磨き粉や歯ブラシ、ドライヤーに美顔ローラーなど、広々とした台の上を物が埋め尽くすような塩梅で、更に凄惨なのは昨日や一昨日、果ては三日、四日前の下着やら寝間着、普段着、諸々の衣類が床に散らばりつつ、山々を形成していて、何だか少し酸味を含んだ異臭まで漂っている始末だった。


 縫子としては臭いが気になるものの、服や下着はどうせ毎日増えるのだから、ここに放り投げられた衣類は、たった一回しか着ていなかろうが、もう捨てるつもりのものばかりだった。

 つまるところ、洗面所は服たちの墓場と化しているのである。


 これまでの縫子の経済事情を鑑みれば、家政婦を雇う事も出来た筈だが、生憎と身持ちは軽いが、自分の部屋、自分のパーソナルスペースだけは死んでも、否、殺してでも死守するくらい厳重に気を張っていて、今まで抱かれた男は数知れず、しかし、家に上げた男はたった二人だけだ。その内の一人は父であり、もう一人は今日来る予定になっている。


 確かそうだった、と、縫子は纏っていた昨日の晩から着ていた普段着……簡素なシャツとデニムのホットパンツ、黒色の下着を脱ぎ捨てながら(そして山は更に小高くなってゆく)ガラス張りのドアを開けて風呂場に入った。


 ドアから真正面には、全身を写す姿鏡が壁に張り付いている。


 美女だ、美女がいる、と縫子は思った。


 荒れ狂った海のようにうねっているが、絹のような女郎花の長髪は、尻の曲線の麓の部分まで伸びていて、寝癖で分かりにくいもの、毛先は綺麗にきり揃えられている。それが縫子のこだわりだった。

 乱れた前髪から覗く三白眼の双眸は、その性質からは連想出来ないような澄んだ空色で、透き通るような水晶の輝きを放っている。すらりと伸びた鼻筋、厚ぼったい唇、真白の肌にはシミひとつなく、毛穴もなく、顔の輪郭もシャープに整っていて、正直なところ、この世で一番美しいのではないかと、縫子は思っていた。特に目尻に小さなほくろがあって、それがお気に入りだった。


 うっとりするほどの美貌。頭痛も吹っ飛びそうだ。


 縫子はその鏡の横に掛けられてあったシャワーをとって、その真下にある蛇口を捻る。朝は水浴びをすることにしていた。目も酔いも覚めるからだ。最初の一瞬だけ針を刺すような冷たさを感じるが、素肌の表面を冷やしたあと、じわじわと、身体の中にその冷たさが伝わっていく感覚が、何だか柔らかな指先で愛撫されているようで、ゾクゾクする。

 いつしか癖になっていた。きっとシャワーを見ると、色々な意味で欲情してしまうのは、あたしだけではないはずだ、と縫子は風呂場で百回は思った。今日は思わなかった。そういう気分でもなかったからだった。


「クソだ。ああ、クソに違いねえ」

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