壱
クソ、クソ、クソ、クソ、と何度も繰り返しながら、自分の美貌を見て宥め、そしてまたクソと呟いている。
それは何に対してのものなのか、もちろん頭痛に対してもそうだ、世界のクソさ加減にも常々不平を持っているし、昨日寝た男もクソだった。ありゃあ、小せえにも程がある。下の口でチュッパチャプスをくわえさせられているみたいで、惨めな気分になった。そんなのクソに決まってる。
縫子はこうして定期的にクソと言いたくなる病を抱えているし、それとは別に、今日はそういう日だった。クソみたいな日。縫子が、この絶対不可侵のオアシスから巣立たなければならない日。寝床を失う日。クソみたいな日、ああ、クソみたいな日だ。
脳の髄まで冴えてきたころに風呂場を出ると、その辺に置いてあったバスタオルを掴み取り乱雑に水気を拭く。素っ裸のまま歯ブラシに歯磨き粉をつけて咥える。今度は洗面台の鏡で己の肉体を眺めながら、クソ、クソ、クソ、クソ、クソ、と、歯ブラシを転がしながら言う。泡立って声がくぐもっていたが、縫子は気にしなかった。ふと、己の豊満な胸を揉んでみたが、乳首はたたなかった。
歯磨きを終えると、櫛で梳きながらドライヤーで髪を乾かした。ベース剤をつけ、しっかりとブラッシングしてから、ヘアアイロンで髪を整えていく。神話に語られる
寝室のクローゼットから、昨日と同じような、統一された黒の下着と、同じく黒の簡素なシャツとデニムのホットパンツを穿く。縫子は服があまり好きではなかった。出来る事なら全裸で外を歩きたいものだが、羞恥心というよりは、それに伴う面倒ごとを処理するのに手間がかかるから仕方がなく着ているだけだった。
ビッチと思われようが何だろうが構いやしなかったが、そう思われて男がたくさん寄ってこられるのも困る。物騒な世の中、一寸先が闇、ならぬ一寸先が戦場だってこともあるくらいだ。流石の縫子でも多少の警戒心は持っている。
寝室のクローゼットの中から、一番大きなキャリー・バックを引っ張り出してきて、数日分の衣服と化粧道具、携帯食料、その他諸々の生活に必要なものを詰め込み、サイド・ポケットには携帯、イヤホンでグルグル巻きにした音楽プレーヤーとその充電器、コイントスや方位磁針などの旅に必要な道具一式、あとはあるだけの銃弾、そしてそれを詰めたマガジンもあるだけ入れる。護身用に買ったダガーは滅多に使わなかったが、置いておくのも癪なので持っていく事にする。
もちろん銃を整備するための道具も忘れてはいけない。
暴発して死んだ、馬鹿な野郎を縫子は知っていた。そいつは心底品のない奴で、死に様を拝んでやったが、車にひきつぶされたカエルのようで、生前はつまらないジョークを散々聞かされたものだったが、最後の最後に大笑いさせてもらった。ただ、あたしの口に汚ねえ一物突っ込もうとしたことは忘れちゃいねえ、と、股間に一発ぶち込んでやったのはいい思い出だった。死者への冒涜とか知ったこっちゃねえ、と縫子は常々思っている。
生きてるものに敬意を払うのと、死んでいるものに敬意を払うのと、せめてどっちか選べと言うなら、まだ生きてるやつに敬意を払う。それが己のお粗末で死んでんだから、よほどの人格者でもない限り、あるいはよほどセックスの上手い男でもない限りは、酒のネタにして、それで終わりだ。死んだだけの奴に付ける薬も、敬意もねえってことさ。
一通りの荷物を詰めたところで、インターフォンが鳴り響く。
来やがった、と思いながら無視していると、ロックが開錠される音が聞こえ、仕方がなく玄関に向かうと、灰色のスーツに身を包んだ、長身の男が立っている。お坊ちゃまのような七三分けの茶色の髪と狐のような細目、スーツ越しでも分かるくらいの筋骨隆々の肉体が特徴的で、名を早乙女と言った。縫子の父の秘書的な立場にある人物だ。父が直接関わってくることは一切なかったから、何らかのコンタクトが必要な時は、この早乙女が縫子に会いに来ていた。
「お久しぶりですね、お嬢様」
うさんくさい、にこやかな笑みで早乙女が言った。
「てめえ、なに勝手に入ってきてんだよ。つか、鍵持ってんのかよ」
縫子は頭を掻きながら言葉を返すと「管理人からマスターキーを借りてきたんです」と握っていた鍵を見せるように、てのひらを開いた。
「セキュリティに問題があるようだぜ。管理人殺せば何処にでも入れるってわけだ」
縫子はやれやれと肩を竦めた。「入れ」と不承不承に顎で促すと、部屋に戻る。「お邪魔します」と早乙女が律儀に言っているのが聞こえ、もう一度肩を竦めた。無断で入っておいてお邪魔しますとは笑わせてくれる。
「適当に座ってろ。ブラックだったか?」
「砂糖とミルクを少しずつ入れて頂けますか」
「甘党かよ、シケてんな」
コーヒーは絶対ブラックだ。砂糖を三杯入れる奴をたまに見るのだが、それじゃあコーヒーじゃなくて砂糖を飲んでるのと一緒である。
「少しだけ入れるのが肝なんですよ」
「知らねえよ、あたしはブラックで十分だ」
広々としたシステムキッチンの上も乱雑に物が置かれていて、その中から市販の粉コーヒーを掴み、適当に入れてお湯を注ぐ。早乙女の分には角砂糖を五個落とし、よくかき混ぜてからちょっとだけ牛乳を足した。リビングの中央にあるテーブルチェアに腰掛けていた早乙女の前にコーヒーを置くと、縫子は向かい側のチェアに座った。カップを傾けると、酸味のある苦みが口の中に広がった。テーブルに置いてあったラッキー・ストライクを一本取り出すと、安物のライターで火をつける。紫煙を燻らせ、息を吐く。コーヒーを飲むと煙草が吸いたくなるのは何でなのだろうと、思った。
「私は吸わないたちなのですが……」
顔を顰めながら鼻をつまむ早乙女に、「あっそ」とだけ返す。口に含んだ煙を早乙女に向けて吐き出した。せき込む様子を眺め、縫子はにへらと笑った。二人はコーヒーを飲み干すまでの間、近況を話し合った。
縫子の方は特に変わりはなかったが、早乙女の方には、というよりは父の会社の景気だったりだとか、父が新事業に着手し始めているだとか、そうしたしようもない父の話ばかりをしていた。興味がないから適当に答えた。この部屋から出なければならないのは残念な事だが、父とのつながりがより希薄になるという点では、むしろハッピーな出来事だ。早乙女にそう言ってやると、はあ、と、やれやれ、みたいな様子で呆れた表情をされた。
「何故、こんなにも似た者同士なのに、仲良く出来ないのでしょうね」
「あ? 誰と誰が似た者同士だって? ハ、やめてくれ。この世にはな、言っていい冗談と悪い冗談があるんだぜ。それを間違えちまってお陀仏なんてこともある。精々口には気を付けな。虫唾がはしる」
「あはは、綱一郎様にも同じ事を言った時、虫唾がはしると仰ってました」
縫子は顔を歪めると、二本目の煙草を灰皿に押し付け、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干した。
「支度は済んでるんですか」
早乙女が言った。
「ああ。荷物はもう纏め終わってる。少し待ってろ」
縫子はゆっくりと立ち上がった。早乙女の隣のチェアにかかっていた肩掛けのホルスターを装着し、そこに机に上に放ってあった愛用のナインティーン・イレブン――拳銃を脇のケースに仕舞った。同じく机にあったシンプルなロザリオ型のピアスを両耳につける。他にもアクセサリー類はたくさん散らばっていたから、気に入っているものだけキャリー・バッグのサイドポケットに詰め込んだ。
「ノープログレムだ」
「おや、じゃあ行きましょうか」
早乙女も立ち上がると、玄関に向かって歩き出した。
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