第224話 修羅と修羅(3)

 ベッドの机の上に置かれた食器の上の握り飯が宙を舞ったのだ。握り飯はその勢いを失うと、落下に転じた。落ちゆく握り飯を取るために、互いの腕を押しあった。

 ベッドの上に座る男と、その右側に座る女の二人が飯を取り合っていた。


 タカトの病室は、あれだけ人魔の魔血で真っ赤に染まった上に、スグルとセレスティーノが争ったのである。さすがに、一日では正常に戻すことなどできはしない。幸いタカトは元気であった。それならば、隣の開いている部屋へと、とりあえず移動させられたのである。

 タカトもタカトで、荷物が少ないためホイホイと部屋替えを承諾した。と言うのも、部屋を交換したら、すぐさま飯だと言われたのである。

 その日の朝、病院内は朝食どころではなかった。人魔症の患者が次から次へと担ぎ込まれてきたのである。調理室の前も患者でいっぱいであった。それはもう朝飯どころの騒ぎではない。しかし、献身的なドクターとナースの働きによって、時間とともに患者の数が減っていく。既存の入院患者もまた、空腹を訴えていた。

 そこで、やっとの飯である。

 しかし、患者が減りつつあるとはいえ、廊下は人魔症の患者でごった返している。

 さすがに、タカトは今日は残飯をあさりに行けなかった。


 目の前に置かれたのは昼飯の握り飯3っつ。本日の昼飯はこれだけである。

 まぁ、タカト一人で食べることができればいいのであるが、しかし、そこには、招かれざる敵が座っていた。


 そう、ビン子である。


 ビン子がタカトの飯を目当てにベッドの横でよだれを垂らしていたのである。


 ――これはまずい!

 タカトはとっさに判断した。


 昼飯の皿が机に置かれた瞬間、タカトは両手で握り飯を2つ掴んだ。

 この際、残った一つの握り飯は仕方ない。あきらめよう。

 その握り飯を犠牲にすることによって、自らは2つの握り飯を得ることができるのである。

 これは戦略である。

 言い聞かせたタカトはすぐさま両腕を引き戻す。


 しかし、右腕はピクリとも動かない。

 握り飯を掴んだまま、動かないのである。


 そう、タカトの右手首をビン子がギュッと掴んでいる。

 そして、いつの間に握り飯をとったのであろうか、すでに、左手では、握り飯を食らっているではないか。


 ――マズイ! あいつ、もう食ってやがる!

 タカトは、計画を変更した。とりあえず左手だ。自分の左手の握り飯だけでもまずは食ってしまわないと、左手の握り飯も奴にとられてしまう。

 タカトは、左手で握った握り飯を口の中へとほりこんだ。

 しかし、ビン子の方が先にくっていた分、一手早い!

 タカトの右手の甲にビン子の左手が伸びてくる。


 ――イカン! このままでは右手の握り飯を奪われる。

 コチラは右手一本、奴はすでに両手がフリーだ!

 タカトは、右手に掴む握り飯をとっさに手離す。

 皿の上に戻された握り飯を確認したビン子の瞳がキラリと光った。


 ――タカト! 敗れたり!

 とっさにタカトの右手を離し、握り飯へと両手を伸ばす。


 ――ビン子のウツケが! 甘いわ!

 タカトは、握り飯を食べ終わった左手で、握り飯の乗った皿を横にずらした。


 空を切るビン子の両手。

 ――しまった。奴は、既に左手の握り飯を食い終わった後か!


 悔しそうに唇をかみしめるビン子。

 ――油断した……奴がこんなに早く握り飯を食らうとは想定していなかった。


 ほくそ笑むタカト。

 ――油断大敵! 火がぼうぼう! ビン子のおケツはまっかっか!

 タカトの右手が悠々と握り飯へと伸びていく。

 しかし、タカトの右中指が反り返る。

 そう、ビン子の右手によってタカトの中指が手の甲の上にそそり立つかのように反り返ったのだ。


「いてぇえぇぇぇ!」

 叫び声をあげるタカト。

 痛みに耐えかね、とっさに右手をひっこめた。


 ふん!

 鼻で笑うビン子は、悠然と左手を握り飯へと伸ばしていく。


 ――させるか!

 タカトは、ドンと皿を叩いた。


 皿の底の高台を支点として、握り飯が上空へと高らかに舞い上がった。


「やらせるか!」

「まだよ!」


 四つの腕が天へと伸びる。

 3っつあった握り飯の、残り一つを取り合う二人。にぎりメシ戦争ココに勃発!


 今まさに落下速度を増した握り飯が地に落ちようとしていた。

 タカトの手が、ビン子の頭を押さえつける。そして、身を乗り出し、もう一つの手が握り飯に伸びていく。あと少しで、タカトの手に握り飯が落ちてくる。


 ――勝った!

 タカトは、握り飯を自らがつかみ取ったと確信した。


 バン!

 その時、勢いよくタカトの病室のドアが開いたのだ。


 その大きな音にタカトの体がびくりと驚く。その瞬間、タカトの手の横をすり抜けていく握り飯。


 ――しまった……

 硬直するタカトは握り飯を恨めしそうに見送った。


 遂に、握り飯が床へと落ちる。

 かと、思われた瞬間、とっさに、一つの手が握り飯をつかみ取る。頭を押さえつけられたビン子の手が、落ちる寸前の握り飯をかっさらった。まさに、野ネズミを捕まえる鷹の爪の如くである。


「取ったぁぁぁ!」

 ビン子の目が勝利を確信した!


 負けを認められないタカトは、非常手段に打って出た。

 ついに、実力行使。

 タカトの両人差し指がビン子の口を左右に引っ張る。


「このやろぉおぉおおお!」


 横一文字に伸びるビン子の口


 ――これで食えるものなら食ってみろ!

 膝を立て、力を込めるタカトの両腕はプルプル震える。


「ヒっ! ヒタイ! ヒタイ! ヒタイ!」

 叫ぶビン子!

 今は、口が引っ張られ食うことはできぬ。

 ならば、この握り飯、死んでも死守する!

 ビン子は握り飯を背中に隠す。


 突然、開いた病室のドアからアルテラが駆け込んできた。

「タカト! よかった! よかった!」

 アルテラはベッドに膝を立て背を向けるタカトに抱きついた。そして、その背中に額をこすりつけながら、泣き叫ぶ。

「本当に心配したじゃない! よかった! 本当によかった!」


 タカトの体がアルテラの重みで後ろへと引っ張られた。それに伴い、ビン子の体から離れていく。遂に、ビン子の口を引っ張っていた両指も口から外れた。


 あぁっぁぁぁ……


 ニヤ!

 勝ち誇ったビン子の顔に、握り飯が寄っていく。これみようがしに、握り飯を口へと運ぶ。遂に、握り飯はビン子の口の中へと収まった。

 ここに、握り飯戦争は終結を迎えた。


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