第16話 逃げる 逃げる

 闇の中、精一杯の速度で足を動かすルーク。前足からも、背中からも出血が止まらない。折れた肋骨が、走るたび動くのを感じる。片側の耳は裂け、風がしみる。


 すべてが、これまでの生涯をかけて仕えた、主から受けた傷。  


センに即位を、と望んだ王に黙ってはいられなかった。王女が即位できないのであれば、王位など喜んでセンに譲ろう。今更、欲しくもない。その時に邪魔になるというのなら、自らを殺めることにも迷いはない。側室の子には、側室の子なりの誇りがある。


 だが、王女を押しのけてまでセンを即位させるというのは、あまりに非道。あの二人が、どれだけ国の未来を見ていたと思うのか。


 センは優秀だが、主を失った時にも前を向ける強さはまだない。あれだけ大切に思っていた姉を押しのけて、慈しんできた弟を失って、王として立てるのならば、それこそ国の為にはならぬ王だ。そんなことは、センを曲げることは許さない。

 小さい頃の三人が目に浮かぶ。楽しそうに、幸せそうに、城の庭で転がる三人。

 姉弟で一緒に生きる未来を、誰も疑うことなどなかった。早く、還らねば、守らねば。


 気だけが急くが、足は普段通りには動かない。自分の足が地を駆る音の他、空を裂く音が聞こえてきた。追いつかれた。思ったよりも、早い。ここでは、まだ美羽からそう離れていない。時間を稼ぐと、約束をした。シュウが連れてきた、非力な客人。


 弱くて、強い。末っ子だったシュウの妹。


 ルークは低い枝が並ぶ場所へ移動すると、今来た方へ向き直った。空からの攻撃には、狼の姿は不利。人型へと、姿を変えた。怪我をしているとはいえ、王家の血を引き、王の護衛を長く務めている。まともに向き合えば負けることはないとの自負があった。

 デールに向き直り、言葉をかける。


「そなたは、理を冒してまでセンが即位することが、民の為と思うのか?王が正しいと思うのか?」


「私は、主の命に従うのみ」


「そう、か」


 生涯かけて遣えた主。主が黒と言えば黒、白と言えば、白。それが、この地の従者としての誇り。


 両翼をひろげれた梟はルークが両腕を広げるよりもはるかに大きい。その身体では狭い場所は不利であろうと思ったが、器用に枝を避けて飛びまわり、執拗に後ろから首を狙う。梟の爪が首に当たる瞬間に捕えようと何度も試みるが、血の足りない身体では、梟の速度に、追いつけない。だんだんと目の前に霞がかかる。


 何度目かに、首の後ろを蹴られた時、ルークの目の前は闇に染まった。






 静かだった。月の光さえ届かない闇の中。川を遊ぶ水の音が、やけに大きく聞こえる。

 ルークは逃げ切れたのだろうか。どれだけ泣いても、不安は消えない。

 自分の非力さを、改めて自覚した。ここから一人で逃げるなど出来そうにない。考えても、考えても、答えなどでない。


「怖いなら、大人しくしていれば、いい」


 闇に響くデールの声。身体を固くするが、どこにいるのか、姿は見えない。


「アンタを傷つけるつもりは、ない。シュウと話をする間、そこに居てくれたらそれでいい」


 痛みを堪えるような声が、美羽の頭の上に降りてくる。


「ルークさん、は?」


「お前が、気にかけることはない」


 美羽の足では、逃げられない。わかっているが、このまま従うわけにはいかない。

 美羽の出した答えは、自分でもあきれるぐらいの方法だった。


「さあ、こちらへ」


 小枝を折る音が、近づく。



 美羽は、踵を返して走り出した。デールは一瞬戸惑ったようだが、すぐに梟に姿を変えて追ってきた。梟の足が美羽に迫る直前、川に飛び込んだ。


「なんて、こと」


 川の流れは早く、水は冷たく肌を刺す。美羽の細い身体は、水の流れに弄ばれて浮き沈みしている。梟の力では引き上げることもできない。


「自ら、命を捨てたか……」


 梟は、闇へと消えていく。



 痛い。苦しい。冷たい。

 美羽は流れに弄ばれて、上も下もわからなくなっている。酸素を求めてあがこうとする身体を必死で堪え、水の意のままに流されるように努めた。

 逃げ切れると思ったわけではない。それでも、いいように使われるのは嫌だった。

 シュウの邪魔になり、主である王女を裏切る手助けなんて、死ぬよりも嫌。

 ルークが、川にそっていけば、城下につくと言った。それなら、うまく流されれば誰かが見つけてくれるかもしれない。たとえ死体でも、シュウの邪魔にはならない。

 頭の中が、酸素を求めて脈打つのがわかる。それでも、足掻けばうまく流されなくなるかもしれないと思うと、足掻けない。美羽の意識は静かに暗闇に落ちて行った。





「気がついたかい?」


 目が覚めた美羽の隣には、真黒な狼。ルークでは、ない。やせ衰えた、いつかの魔女。

 暖炉では火が赤々と燃え、窓の外には太陽が上り始めていた。


「助けて、くれたんですか?」


 狼は楽しそうに笑って首を振る。


「眺めていただけさ。私は天命を動かすことはしない。生きていたのは、アンタがまだ天に還るときじゃないから。動けるんなら、ついておいで。その格好じゃ、どうにもならないだろう」


 狼は振り向きもせずに歩きだす。美羽は必死で立ち上がり、濡れて重くなった服を引きずるようにして、ついて行った。


「そこで服を脱いで、これを着な」


 狼の足元にあった衣は、紫の生地に細かい刺繍が施されていて、王女の着ているものと、よく似ていた。


「ほら、早く」


 狼にせかされて着替え終わると同時に、表から低い唸り声が聞こえた。とっさに隠れるところを探した美羽に狼が笑う。


「アンタを、探しに来たんだよ。わからないってのは、不便だねぇ」


「入るぞ」


 低い声で扉を開けたのは、シュウ。ひどい顔色をしている。


「シュ、ウ?」


 美羽が声をかけると、目をまるくして、その身体は動きを止めた。視線だけが部屋の中をさまよったが、美羽が脱ぎ捨てたルークの外衣を見つけると、美羽に向き直った。


「それ、どうした?なにが、あった?」

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