『もしもともしもでもしもしも』


 先生と呼ばれるのが羨ましい、と同僚の安達先生に言われた。

「そうですか?」

 教職という立場上、縁遠いものではないはず。

 その疑問に応えるように、職員室を覗いた女の子が、元気に手を振ってくる。

「あだっちー、今日のデートはどこ行くー?」

 デートと聞いて、私が言われたわけでもないのに一瞬、冷や汗が浮かんだ。

「行きません。算数の宿題明日までだからちゃんとやりましょうね」

「なにー」

 穏やかに拒否された女の子が片足で飛び跳ねて、でもすぐ諦めて笑顔になる。

「ばいばいあだっちー」

「先生ってたまには言おうね」

 そう言いながら、安達先生は笑顔で手を振って見送る。

 それから、こちらを向いてやや表情の趣向を変えて、困ったように眉を曲げた。

「このように」

「なるほど」

「島村さんが呼んでいたら、他の子たちもあだっちーと呼ぶようになってしまいました」

 こちらも軽く笑ってしまう。随分と微笑ましい関係のようだった。

 私と違って。

 …………………わたしとちがって。

「先生と呼ばれたのは新しいクラスの担当になってから三日くらいです」

「それだけ親しまれているんですよ」

「うーん……もう少し威厳というものを……」

「せー」

 たとえどれほどの音の中でも聞き分けられると確信する、その子の声。

びくっと腰が引けそうになる。

 甘く、丸く、柔らかく。

 まるで誘われるような、蠱惑的な……そんな風に勝手に感じる、幼い声。

「んー」

 呼びながら大股で飛び跳ねてきた女の子が、んーの段階で私の隣まで来てしまう。距離感を誤ったらしい。女の子はランドセルを揺らして迷うように目を泳がせてから。

「せぇー」

 私の足に勿体ないとばかりに体当たりしてきた。よろめきはしない、心以外は。

「戸川さん」

 表面上はさざ波すら起こらないように押さえつつ、内心、心臓が駆け足になる。

 ほら羨ましい、といった笑顔を残して安達先生が自分の机に戻っていく。

 私はそれに応えつつ、少し屈んで戸川さんを見下ろす。

 職員室の灯りを受けて仄かに光るような髪、艶の良い頬、純真の中に年齢不相応の熱を宿す瞳。そのすべてが光点となって、星座を描くように私の目の中で瞬く。

 直視しようとしても、目の中がぐらぐらと支点を失ったように転がった。

「どうかした?」

「せんせぇ、もっとしゃがんでー。それかおんぶしてー」

 甘えるようなおねだりの本命を聞かなかったことにして、膝をつくように屈む。

 そう、こんなにも小さい女の子なのだ。教え子の戸川さんは。

 だけど。

 戸川さんが、私の耳に顔を寄せる。

「つぎはいつおとまりに来てくれるの?」

 星座が、目を潰すほどに眩い。

 言葉を失い、職員室を思わず見回しそうになる。

 戸川さんの方はちょっとした悪戯を仕掛けただけのように、微笑んでいる。

「またいっしょにおふろ入ろうね」

 悪戯を重ねて、意識が遠のきそうになる。

 そんな私を置いて、「せんせぇ、またねー」と戸川さんが最高に楽しそうに職員室を出ていく。

「気をつけて、帰ってねー……」

 首から上だけがなんとか取り繕う。伸びるか不安だった膝をなんとか真っ直ぐにして、首の向きを固定して周囲の情報を遮断しながら自分の机に戻る。

 席に着く。手近にあったノートを開く。

 犯罪者犯罪者犯罪者、と三回刻み込んで、閉じて、大きく溜息をこぼす。

 色々と言い訳が巡りながらも、最後は同じ布団に入ったときを思い出し、目をつむる。

 瞼の暗闇に、焼き付いたものがちかちかと瞬き続けている。

 私も先生と呼ばれなくなる日も、遠くないかもしれない。

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