『それから』

※『人妻教師が教え子の女子高生にドはまりする話』本編のネタバレを含みます。3巻読了後にお読みください。




 彼女の形こそが私の幸せであり、それが飛んだり跳ねたり歩いたり抱き着いたりしてくれるだけですべては満たされるのだけど、それでも敢えて悩みを言うのなら、休日が合わないことだった。

 飲食店に勤務する私と、会社勤めの戸川さんでは土日の価値が異なる。

 私の勤める居酒屋の定休日は水曜日だった。

 だから今日も、土曜日にこうしてお休みの戸川さんと涙々に別れて仕事場に出てきている。

「なんだ、惚気話かい」

「なんでも悩みを相談してごらんって三回言われたんですけど……」

 料理の仕込みを手伝いながら、店長こと前川さんを一瞥する。

 私よりも年若いのに落ち着いた風格を感じるのは、私の人生の本質が二十七歳から始まったことが理由だろうか。私の精神的な年齢は恐らく未だ一桁であり、早熟の初恋に夢中だった。

 できればその恋は絶えることのない、永遠の火であってほしいと願う。

「お悩み相談なんて受けて、頼れる店長をやってみたかった」

「十分頼りにしています」

 その答えに満足したように前川さんが微笑む。

「こっちも先生が真面目だから助かっている。お酒持ってくるよ」

「大丈夫ですか?」

 頼れる店長は力仕事の面では、今までどうやっていたのだろうと思うほどか細い。

「ふふ」と前川さんが和服を捲り、力こぶを誇示するように腕を曲げる。

 木の枝が風に吹かれて曲がったようにしか見えなかった。

 なにも自慢できなかった前川さんがお店を出て、こちらも手を少し休める。

 手を止めて、店の隅を見つめるようにしながら戸川さんは一人なにをしているかなぁと考える。休みが合わず、二人で遠出はしづらい。でもアパートの中で一緒にいるだけで幸せかというと、大変幸せなのでまぁいいかなぁと私はぼんやり思ってしまう。

 鼻先に幸福を引っかけてうふふふしていると、視界の端でなにかが動いたのを見て取り、見下ろすと、パンダがいた。

 ……パンダ?

 正確には、パンダの着ぐるみ……パジャマ? を着た小さな女の子がいつの間にか入ってきて、そして知らない間にキュウリをぽりぽり齧っている。それはいいとして、よくないけれど、更に目を奪われるのはその髪。わずかに青みがかった白髪は光り輝き、淡い色合いの粒子を発散している。睫毛も同様の輝きを帯びて発光している。月の光をそのまま髪の毛に編んだようだった。

地球を連想するような大きな青色の瞳が私の視線に気づいて、こちらを見上げる。

「む」

 今初めて気づいたとばかりの短い反応が起こる。ついでにキュウリをぽりぽりする。

「やー」

 手を上げて挨拶された。未知の中にも友好的な意思は確認したので、やや安堵する。

「ど、どうも……前川樹です」

「うむ」

 頷いた後、わー、とパンダが食べかけのキュウリをもって走り去っていった。

 入ってきたときは開けた様子がなかったのに、帰りはちゃんと出入口を利用していった。

 入れ違うようにお酒を持ってきた前川さんが、その重さによろめきながら尋ねてくる。

「なにかあったかい?」

「謎のパンダさんがキュウリを食べて去りました」

「ああ、いいんだ。そういうものだから」

 どういうものだろう。お酒を奥に一旦置いた前川さんが腰を伸ばす。

「ここで働いていると時々見かけるだろうけど、そのときはキュウリをあげてくれたらいいよ」

「はぁ……」

「あの子が姿を見せた日は、不思議とお客が多いんだ」

 キュウリのお礼かな、と前川さんは穏やかに笑っている。

 時折見かける水色の髪の子も光っているけど、土地柄だろうか。

 ……どんな土地なのだろう?

 ちなみにその日の夜は本当に盛況で、それが偶然なのかキュウリの妖精? のお陰なのか私には分からなかった。キュウリの妖精が何故パンダなのかも、なにも分からなかった。



 目覚ましの代わりのように、包丁の音がした。

 包丁がまな板を叩く音。

 布団の外の時計を探すみたいに手を動かしながら起き上がる。既に布団の隣に戸川さんの姿はない。温もりは……まだ少し残っている、と手を重ねて確認してしまう。

 戸川さんから離れて僅かに宿る温もりにさえ、愛おしさを覚えてしまうのは何故だろう。

 何故だろうもなにも重症である、単なる。

「せんせぇ、おはよ」

 寝室から出ると、戸川さんが牛乳の入ったコップを運んでいるところだった。

「おはよう……朝ご飯?」

 運んでいく先を一瞥して尋ねると、コップを置いた戸川さんがこっちに駆けてくる。

「今日は、わたしが朝食を用意しました」

 頭が、身体が、すべてが私を覆うように近い。

 褒めて褒めてと近寄ってくる大型犬のようで、いひ、と頬が崩れる。

 何年経とうと、戸川さんの愛らしさには一切の陰りがない。

「えらいよぉ~」

 抱きしめていい子いい子と磨くように背を撫でると、「ひひーっ」と戸川さんの満足げな声がこちらの耳を撫で返してきた。それだけで、ああ、って感情の水位が満ちて喉に迫る。

 今も変わらず、私にとってこの子は恋人であり、妹であり、娘だった。

 愛らしく、愛しく、愛。

「きゃ~」

「無邪気な声あげながら胸を触らないでね」

 手の甲を軽く摘んで叱る。

「ぎゃ~」

 謎の悲鳴を上げながらくるくる回って離れた。朝から活発なその様子に、こちらもすっきりとした目覚めを分け与えてもらう。爽やかで、手触りのいい空気がお互いの間をすり抜けていく。その風が心まで撫でてきて、今日をがんばって生きていこうと、素直に思わせてくれるのだ。

 口をゆすいだ後、寝癖もそのままに食卓に着く。小さなテーブル、決して広くはない部屋。

 でも戸川さんと私が一緒にいる我が家。

 それ以上はなかった。

 焼いたパンにジャム。牛乳。ヨーグルト。おまけのチーズ。

 朝食の顔ぶれを見渡してから、んー? と笑顔で首を傾げる。

「包丁トントンしてなかった?」

「あれは演出です」

 いただきます、と二人で手を合わせる。

「戸川さんは町でキュウリの妖精に会ったことある?」

「え、カッパ?」

 他愛ない会話を挟みながら、戸川さんお手製の朝食を堪能する。今日は日曜日なので戸川さんは引き続きお休みで、私は出勤だ。窓の向こうは今日も快晴で、それが少し惜しく思う。

 食べ終えてからの後片付けは一緒に行う。正確には、は、じゃない。も、だ。

 この家の中は特にだし、外に二人で出かけるときもそうだけど、私たちは離れない。

 見えない手錠で繋がっているように、離れることを拒む。

 その後の歯磨きもそうで、狭くて不便なのに、歯を磨くときはいつも洗面所の前で隣り合う。

 鏡に映るそれぞれの姿へ目が動くことにお互い気づいて、笑うのだ。

 この家には合理性ではない、私たちが納得して暮らすためだけのルールがたくさんある。

 遠回りすることさえ楽しめる人生というのは、きっと充実しているのだろう。

「こら、悪戯しない」

 合間に脇や背中を突っついてくる戸川さんから楽しく逃げつつ、歯磨きと洗顔を済ませた。

 そうして朝の用事が終わってから、私が働きに出るまでの小さな隙間のような時間は、二人で温めるように寄り添って過ごす。私の足の間に座った戸川さんは、ただただ、嬉しそうに全幅の信頼を背中越しに預けてくる。

 私はそれを受け止めて、長く伸びた戸川さんの髪を指に載せては梳くようにこぼしていく。

 うっとり……そう、うっとりするのだ、それを眺めて。

 あまりに美しく育った戸川凜に、見惚れる。まばたきの度、惚れ直す。

 時計の針が進むごとに自分が生まれ変わり、一目惚れに翻弄されるようだった。

「まだ時々、不思議な気持ちになるの」

「なにが?」

「戸川さんと手を握って、こうして抱っこしても、なんにも問題ないんだって」

 繋いだ手を、肩の高さまで掲げる。

 幸せに肩まで浸ってぼぅっとしていると、一仕事を終えてお風呂に入っているときに気持ちが似ている。ああ、嵐は過ぎ去り、これからはなんの壁もない時間が流れるのだなぁと、段々と実感していく。あのときの静かなる高揚に似ているのだ。

 戸川さんが珍しく私の手を離して、前へ伸ばす。私はそれを、光を求めるように追いかけて重ねる。

 二人の伸びた指先をじっと眺めて、戸川凜と触れ合うことの意味を、ゆっくり理解し始める。

 私のすっかり緩くなった目尻を幸せが溶かすのも、もうすぐだった。

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