『宇宙さえ知らない』
学校から帰ると、廊下の脇にお猿が座っていた。
「おかえりなさーい」
「……ただいま」
こいつにそう返すのも違和感がなくなったのは、いつからだろう。ヤシロはただ座っているだけでなく、大きめの布を広げてその上になにかを並べていた。靴を脱ぎながらそっちを向くと、いつものようにニコニコしてわたしを待っているみたいだった。
今日はお猿の格好をしている。なにも通っていないはずの尻尾が生き物のそれみたいに左右に揺れていた。またなにを始めたのかと、その並べているものを覗いてみる。
「なにこれ」
パッと見て、石がたくさん並んでいる。同じような形と模様は一つとしてない。見比べると、目の中で引っかかりを覚えるような、特徴的な石もあった。
「バザールです」
ござーる、とお猿が何故か続けた。お猿さんってござると言うのだろうか。
「パパさんに習いました。このようになにかを売るのがバザールだそうです」
ござーる。
「こうして稼ぎ、おこづかいがあるとお菓子が買えてしまうのですぞ」
ワクワクするように、お猿の尻尾が踊る。
「はは……ま、そーね」
なにも考えていないようで、たまに謎の行動に出る。宇宙人の発想は飛躍に満ちている。
「で、石を売っていると」
「ほほほ、近所で拾ってきました」
「ははぁ、それはそれは」
お手軽なことで。本当にその辺の石かなと思いつつも少しくらい付き合ってみるか、と屈んで手前の石を取る。
「これはどこの石?」
表面がごつごつとした、灰色の石が手のひらを埋めている。砂浜で似たような石を昔、見た気がした。そんなノスタルジィーを石の向こうに垣間見ていると。
「月です」
「……なんて?」
石を掲げたまま、頭が左に傾く。
「さっき月に行って拾ってきました」
石の向こうで、お猿さんがいつものようににこーっとしていた。
「……月て」
わたしが知る月は、空に浮かぶあれしかない。上を指差すと、「あの月です」とヤシロがわたしの人差し指と別の方角を指す。壁と天井で確認できなくても、きっと、ヤシロの方が正確に月の位置を捉えているのだろうと思った。
月の石。持っているだけで不思議なパワーは感じないし、エボリューションする気配もない。だけどその月の石を持つ指が吸いつくように離れない。感動が鈍く、しかし確実にじわじわと押し寄せていた。到達するまでの長い時間を待つ間、残っている手で別の石を取る。
流線型のつるつるとした石だった。河原で、いくらでも拾えそうなやつだ。
「……こっちの石は?」
「それはその辺に浮かんでいた石です」
浮かぶ? 石ってその辺に浮かぶの?
「こっちは?」
平べったい石を指差す。
「それは釣り堀の近くで拾ったやつですな」
近所の幅が縦にも横にも広すぎる。どこかの海底の石、高い山の上の石、聞いたこともない星の石。ヤシロの売り物の紹介はシャボン玉を次々に浮かべるみたいに、ふわふわ、わたしの現実と夢の間を自由に浮かぶ。お猿に化かされているみたいだった。猿が人を化かすかは知らないけど。
「それじゃあ……この月の石を一つ」
「わー」
売れたのを喜ぶように、お猿が諸手を上げる。
そういえば、買おうと思ったけど肝心なところを聞いていない。
「これいくら?」
「百円ですぞ」
百円で買っちゃっていいのだろうか、こんなもの。
「……ちなみに、釣り堀の石のお値段は?」
「百円ですが」
値段つけるの下手か。ヤシロからしてみれば釣り堀も月も大差ないということなのだろう。
普段はうちでご飯食べて寝ているだけの生物なのに、時々、なぜここにいるのだろうと途方もない距離を感じさせる。
「ござーる」
どうでもいいけど、バザールってこれで合ってるんだろうか。
ヤシロのバザールはその日、四百円の売り上げを出した。
本人は大変満足したらしく、しばらくはそのお金を握りしめてうろうろ歩き回っていた。売れなかった石は明日、元の場所に返してくるらしい。到底簡単に行けそうもない場所がいくつもあったけれど、ヤシロなら行ってしまうのだろうなと思った。
3月の春になりきれていない夜風が頬に溶けるように張りつく。夜中、部屋の窓際に座り込んで夜空を見つめる。微かに開いた窓との隙間から届く、風の音が気持ちいい。
耳を傾けていると、すっと、心が軽くなる瞬間があった。
その日の夜は丁度、浮かぶ月が窓の向こうにあった。
月光を覗き見るように、窓枠の端から見上げて。
「で、あの月にあった、石」
わたしの手のひらにのっかるそれを、眩い月面に重ねた。月の石は輝くことなく、暗く、静かなものだった。
肘から先が、ずっしりと、実感を得始める。
……え、凄くない? 月の石、月面。恐らく大多数の人類が触れることの叶わないもの。
それを今、ぺたぺたと触って手のひらに置いている。
凄い。
拡散した感動が、体内を程よく満たす。焦るような気分にさえなる、そんな高揚があった。
本物なら、という前提はあるけどヤシロは嘘を吐かない。あれは、嘘を吐かないで生きていける。その時点でもう人間とはまた違う生き物なんだろうなぁって思う。
月を観測していたら、もしかしたら、月面を呑気に歩くヤシロの姿を見ることができたのかもしれない。そんな様子を想像しながら笑い、夜空を眺めながら伸ばす足の位置を変えると、夜に爪先をかけて、少しだけ高い場所を歩いているみたいだった。
はーすごいなー、って月の石と月を重ねながら眺めていると安易な感想がぽつぽつ漏れる。こんな簡単に宇宙に触れてしまっていいものか。いや普段から宇宙人のほっぺ引っ張ったり、肩車したりしているけど。まさか、月に触る日が来るなんて想像もしていなかった。
あの月に、今、わたしの手が届いている。
でも、自分で月に行ったら、そのときの感動はこんなものじゃないのだろうなとも思った。
宇宙飛行士は、とてもがんばって宇宙に行く。そしてわたしたちが一生知ることのできない世界を知っていく。それは素晴らしいことで、大してがんばっていないわたしの感慨がそこに届くわけもないのは当然で。
でも、と思う。
でも、とても高い場所にいる宇宙飛行士でも、安達は知らない。
この宇宙の果てにまで行っても、安達を知ることはできない。
そして安達は時折、この世界のどこに行っても見つからないものを、わたしに見せてくれる。
だから。
そう、なにかを続けようとして言葉は出てこなくて。
なにそれ、と変な対抗心なんだか自慢なんだか分からないものが芽生えて、笑ってしまう。
つまり、なんというか。
宇宙人よりも、月の石よりも、安達は。
「……………………………あはっ」
そうして、そうだ、と思いつく。
明日、安達にこの石を見せて自慢してみよう。
手のひらに収めた月の感触を、安達にも伝えよう。
さっそく楽しいことを見つけて、今日が終わっていくことにも悲観はなく、喜びさえある。
そういうのを、幸せと言うのだろうと思った。
『さてこちらが先日話題になった、問題の画像です』
『……なんですかこれ』
『そのままです。なんと月面に猿が観測されたというのだから、まさに衝撃的ですね』
『月に? ウサギじゃなくて?』
『月にウサギなんていませんよ、ファンシーな』
『猿もいないと思っていましたが』
『しかしこの後ろ姿は猿としか言えないでしょう。尻尾もついてますし』
『小さすぎて見づらいですよ』
『仕方ないですね、月は遠いので』
『でも月のお猿さんは随分と普通な後ろ姿なんですねぇ。子供が着ぐるみ姿で元気に飛び跳ねているようにしか見えませんね』
『仮に子供が飛び跳ねていても大事件なのですが……』
『正面からの画像はないのですか?』
『残念ながら』
『……これ合成じゃないんですか? 或いは見間違い』
『そういう可能性もなくはないでしょう。しかしもし存在するなら、地球外生命体ですよ、ちきゅーがいせーめーたい。凄すぎませんか』
『月で暮らしているならそのうち、地球にも旅行気分でやってくるかもしれませんね』
『いやもう既に平穏な町中にも……』
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
「ほほほ、そこに置いたらわたしが負けてしまいますぞしょーさん」
「なにを言っとるんだねきみは」
妹と朗らかにオセロを嗜んでいるやつをじーっと、じとーっと振り返って。
「…………………………ま、いっか」
なにも見なかったことにして、足を伸ばす。番組はすぐ次の話題に移っていた。
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