『1転』【再掲載】

※この作品は「入間の間」に過去掲載された小説の再掲載になります。



「まこくんたすけてー」

 まるで切羽詰まっていない救援が聞こえて、なになにとそちらを向く。娘とヤシロが走ってくる。娘は楽しそうで、ヤシロはよく分からないけど騒いでいる感じだ。娘のちょこまか動く足もとが実にかわいらしい。で、追ってくるのは布団を巻いたエリオだった。こっちもすててて、と決して短くはないはずの足なのに細かく動いている印象だった。コロネみたいな外見のやつが走ってくる様は実にシュールである。

「まてーぃ」

「きゃー」

 娘が回り込んで俺を壁にするように隠れる。ヤシロは途中で飽きたのか走るのをやめてずでっと寝転ぶ。床に潰れたほっぺたがむにゅっと盛り上がっていて柔らかそうだ。放っておくとそのまま寝かねない。ヤシロは本当にどこでも眠る。

 娘が以前、猫みたいと言っていたがそのものだった。

 それはさておき、お怒りのエリオさんが俺たちの前にそびえ立つ。

「イトコもちゃんと叱りなさい」

「んー、うん」

 ぷんぷん、と音が聞こえそうなエリオは見た目のせいかまったく迫力がない。

 そのエリオはさておいて、後ろに隠れる娘に聞いてみる。

「なにしたの?」

「ころがしたの」


 娘とヤシロがてってこと走っている。そして、居間に転がるエリオを発見する。

『もふー』

『えりちゃんだー』

『わー』

『もふ?』

『ころがせー』

『わー』

『わー』

 ころころころころ。二人で並んで転がす。壁際まで来たところでエリオの頭が出てくる。

『こらー』

『きゃー、えりちゃんがたったー』


 ということがあったらしい。聞いても反応は「はぁ」くらいしか出てこない。

 平和だなぁと思った。

「おかーさんを転がすとは何事ですか」

 なにごとなんだろう、と首を捻りそうになる。ほら叱って叱って、とエリオが足でつんつく押して催促してくる。どうすりゃいいの、と思いつつまぁ一応、要求に応えた。

「えっと、そのへんに寝転がっているお母さんを転がしては、いけないよ?」

「なんでー?」

「うーん……なんでかな」

そんな注意したこともないしされたこともない。お父さんにも分からないことくらいあるのだった。

「「なんで?」」

 娘と揃ってエリオに尋ねてみる。

「わからんのかー」

 座ってからじゃきんと両腕が出てきて、ぺちぺちとこっちの肩を叩いてくる。娘もちゃっかり人の背中を一緒にぺたぺたしてくる。

 しばらく親子の楽器になっていた。

「こっそりそり」

 この隙に台所へ向かおうとする、頭の白いやつの首根っこを掴みながら、しかしよく転がせたものだなと思う。いくらスマキンが丸みを帯びていても重さがある。娘の力で押して動かせるものだろうか。それとも一緒に転がしたヤシロが秘密パワーでも用いたのか。

 宇宙の秘密が凄い勢いで無駄遣いされた気がしないでもない。

 そのヤシロがじたばたと落ち着かなくて視覚的にすごく騒がしいので、頭の上に載せてみた。

「む?」

 人の頭の上で座り込んでくる。動物園で、岩に陣取る小猿と目が合ったときを思い出した。

「あ、やちーいいなー」

 娘が羨望の眼差しで見上げてくる。羨ましいかな、と思うけど娘は高い場所が好きだった。

 高い場所を求めていつか、もっともっと飛翔していくのかもしれない。

 母がかつて夢見た宇宙に、もしかしたら。

 ……それはともかく。

 ヤシロが怖いのは頭の上に乗っていても特に重さを感じないことだ。

 宇宙の秘密が凄い勢いで以下略。

 壮大な無駄遣いの中、じーっと正面でエリオが見つめている。

「分かった?」

「わかんない」

 素直に答えたらぺちぺちが再開した。娘も合わせてぺたぺたしてくる。

「へいわだな」

 小猿が頭の上で呟く。まるで人の頭の中を読み取ったように。

 得体の知れないただ飯喰らいの感想に、そうだけどさと同意する。

 概ね賑やかで楽しくて、まぁいいかって、なった。

 朝方、いつものように工房へ向かうと犬と人間がそれぞれ一匹ずつ転がっていた。

 緑川円子は山中で暮らす陶芸家である。女性であり、なかなかに整い澄ました顔立ちであるためかそういった方面でもそこそこ注目される。頭には大体の場合、タオルを三角巾のように巻いていた。

 山の朝は季節が暖色を示そうとも厳しい日もある。緑川は「さむっ」と独りぼやく。

 その緑川には弟子が一人いる。取ったわけではなく押しかけてきただけなのだが。以前にも弟子はいたのだが、そちらは陶芸のことを学ぶ様子もなく去って行った。

 入れ替わるように訪れた弟子、岩谷カナが工房の床に寝転がっていた。同じくいつの間にか住み着いた犬と共に、健康的な寝息を立てている。元より歳に似つかわしくない、幼い風貌は寝顔となると一層、稚気に富む。緑川と干支が一回りするほど差があると言っても信じられそうだが、カナは既に二十代である。緑川は出会った当初、女子中学生だと思っていた。

 なぜ、という疑問と、よく、という呆れが緑川の中で同居する。

 よく、こんなところで寝られるものだ。

 岩谷カナは緑川にとっての常識外の行動に出ることが多々あるが、これもその一つだろうか。

 放っておけばいずれ起きるだろう、と緑川は見なかったことにして椅子に腰かける。一本だけ脚の短い椅子は、少し重心をずらすとかたかたと傾く。その音を緑川は楽しむ。

 ものの五分でこの状況が終わると楽観していた。

 しかし、それから一時間が経過しても未だ工房の床を転がっているので、やむなく緑川が見て見ぬふりを諦める。どうするかと見下ろしながら逡巡し、その尻を蹴っ飛ばした。

「ふげっ」

 カナが肩をびくりと跳ねさせる。釣られるように犬も目覚めた。犬は緑川にはそこまで懐いていなくて、目が合うとそそくさ、工房の隅に歩いていく。緑川もまた、自分が人に好かれるような愛想に欠けていることを自覚している。そして改める気もなかった。

 緑川円子はそもそも、人間が苦手である。

「っは、ししょー」

 カナがようやく目を擦って起きる。髪飾りのつもりなのか、常にくっつけている『研修中』の名札が揺れる。のたのたと起き上がり、「おいっす」と犬に挨拶する。

「なんで……」

「なんでしょうかっ」

「いやなんで、寝てたのって」

 我ながら口べたすぎないか、と緑川も感じる。しかし、子供の相手は不向きだ。

「いえ早起きしてししょーを待ってたんです。最初は座っていたんですけど、楽な姿勢に流されていったらですね、転がって、気づいたら寝ちゃって……」

 声が小さくなると共に、工房の机の影へとカナが沈んでいく。

 終いには目もとだけを覗かせて緑川を窺うようになった。

「そう」

 ごにょごにょしているカナに、緑川が目を瞑る。

 これで成人済みというのだから、緑川としては恐れ入る。自分を大人だと感じたことはこれまでになかったが、比較すると大人やっているな、と緑川に思わせるには十分だった。

「ししょー、コーヒー淹れましょうか!」

 カナが勢いよく生える。貰おう、と言いかけて思い直し、立ち上がる。

「私が淹れるから」

 お前はそのへんで遊んでいろ、と緑川が犬を一瞥する。

 楽できてラッキー、というのが露骨に顔に出た後、カナがはっとする。

「ししょー、わたくし信用ないですか」

 ない。

『人間的には少し終わっているけれど、よろしくお願いします』

 カナの友人の挨拶は大げさだな、と緑川も最初は思った。しかしそれが言いすぎではないと、一緒に暮らし始めると早々に理解できるのだった。

 岩谷カナは基本、驚くほどなにもできなかった。

 なにをやらせてみてもおぼつかない。集中力に欠ける。もたもた、のたのたしている。

 今までどうやって生きてきたのだろうと不思議に思うほどだった。

 しかしこと物作りに関しては、器用さが前面に現れる。

 物体を立体的に捉えるという一点において、岩谷カナは鋭敏のようだった。

「そーいえば、この間じいちゃんに茶碗贈ったら喜んでたみたいっす」

 にまにましながらカナが言う。聞いていて、町での陶芸教室を思い出す。

「そう」

 よかったね、と返せばいいのだろうか。緑川は考えながら結局、それを口にしない。

 緑川は人付き合いというものに、苦痛さえ覚える人種だった。

 独りで生きていければ、とも脇道に逸れるように思ったりする。

 だけどきっと自分は、一人きりになればすべてがただ同じものをなぞるようになる。同じ線をなぞり続けて、しかしそれでも不思議なことに景色と共に掠れていく。そんな自分がありありと想像できた。

 そういう時間の使い方に、緑川は否定的だった。

 繰り返しにならないのは大事だ、と緑川は考える。陶芸も、生き方も。

 だから苦手でも、他人は必要なのだろうと思う。

 カップを用意して、ふと振り返るとカナが犬とじゃれていた。鼻を舐められている。

 緑川はその様子を眺めて目を細める。

「…………………………………」

 犬が二匹だなと思った。

 人が苦手な自分には丁度いいとも、思った。

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