『エビと犬と猫』【再掲載】

※この作品は「入間の間」に過去掲載された小説の再掲載になります。



 雪が降ると、空気を吸って感じた。

 氷の粒を含んだような冬の空気が真ん中をへこませるように冷え込むと、ああ、雪が来るというのが分かる。多分他の人に話しても首を捻るような感覚なのだろうけど。

 実家のある田舎と違い、夜が訪れても町には物音がある。明かりにも満ちている。坂を歩きながら夜空へと顔を上げると、そういった喧噪から少し離れることができた。

「…………………………………」

 空は見上げるといつでもそこからなにかが始まりそうで、でもいつまで待っていても身体が冷えていくだけだった。バカみたいに口を開けて、喉の奥まですっかり乾燥する。

 白い吐息を噛み砕くように、口を閉じて歩き出した。

 アパートに帰る。なぜか、無人のはずの部屋から灯りがこぼれていた。消し忘れの可能性を考えて、ないと判断してから階段を上がる。二階の外側に設置された通路を大股で、急ぐように歩いて扉の前に立つと、鍵を開ける前に、独りでに開いた。

 心臓が飛び跳ねる。

 まさか、と思いながら。

「クリスマー!」

「…………………………………」

 謎の生き物が跳ねた。センチメンタルを先端から握り潰される。

 ついでに纏っていた暖房の空気がこちらに流れてくる。

 飛び出してきたのは同じアパートの住人、猿子だった。

 大学生の時以来の友人である。名前に反した羊のようなもこもこ頭は健在だった。

 で、私と歳が変わらないはずのそれはパジャマにどてらを羽織っていた。

 両腕を左右に広げた影が、私を呑み込む。

「合ってるかな?」

「なにがでしょう」

 ほほほ、と独特の間の抜けた笑い声を上げる猿子に、肩をすくめる他なかった。

 そのまま和やかに浸りかけて、あれ、と気づく。

「ていうか鍵は?」

 部屋の鍵なんて預けたことはない。一緒に暮らすわけもないし。

「外れました」

「さらりとなに犯罪やってんの」

 こいつのお陰さ、と猿子が自慢げに手のひらのそれを掲げる。エビだった。またエビか、と目を細める。大学時代、ある時から猿子はいつもエビを連れている女として有名になった。このエビがまた尋常じゃないパワフル甲殻類で、キャンパスをうろついていた鳥と並走して追い抜くのを目撃したことがある。猿子同様、普通のエビではないらしい。飼い主に似たのだろうか。

 名前はバリスタだかロボコンだか、そんなのだった気がする。

「なんかガッカリしてる?」

「べつに」

 おとぼけばかりの癖に変なところで鋭い。見透かされて、素っ気なく否定した。

「室内は暖めておきました」

「暖房のスイッチ押しただけだけどね」

 靴を脱ぎ、鞄を置く。室内はやや過剰に温暖で、肌がちりちりとし始める。

「いやわたしも走り回って二酸化炭素で温暖化的ななにかをしたよ。ねぇブロンソン」

 ガッツポーズを取るように直立するエビが恐ろしい。なんだこのエビ。寿命とか大丈夫なのか。エビは長寿の象徴らしいから長生きなのかもしれない。詳しく調べたこともない。

「ああそうそう、合ってない」

「おん?」

「クリスマスはもっと先」

「あれれ」

 猿子の頭が傾き、さらさらした前髪が流れる。

「そうか。道理でケーキを買うときクリスマスらしくないと思った」

 テーブルの上の白い箱には賑やかな装飾もない。

 猿子は時々おかしいけど、いつものことだ。ちょっとなに言ってるか分かんない。

「まいっか。とりあえずケーキ食べようぜ」

 用意したフォークを握りしめて子供みたいに腕を上下させる。

 まぁ、ご馳走になろうかと肩をすくめる。ただだし。

 上着を脱いでから聞いてみる。

「コーヒーでいい?」

「あてし牛乳派」

 猿子がのたのた動くと、エビも後に続く。忠犬のようだ。猿子が。

 あとエビは茹でてもないのに、いやに赤い。

 猿子が勝手に他人様の冷蔵庫を開ける。頭を突っ込むようにして覗いている。

「ひやむぎはちょっと時期外れじゃない?」

「気にするな」

 猿子が牛乳パック片手にのたのた去って行く。エビも去る。私は冷蔵庫を一瞥した後、息を吸って、自分の分のコーヒーを用意し始める。一通り作業を終えるまで呼吸を止めて、走りきったように事を終えてから大きく、息を吐き出した。

 コーヒー片手にテーブルに向かうと、猿子がケーキを用意して待っていた。どちらも苺のショートケーキだった。猿子は本人の行動は概ね奇行だけど、嗜好は意外と普通だ。

「じゃ、いただくわ」

「クリスマー!」

 違うって。

「ブロンソンもどう?」

 猿子が苺と生クリームとスポンジをエビに勧める。おいおい。

「食べるの?」

「いけるくちよ」

 猿子の言葉通り、エビがフォークの先のそれをもしゃもしゃと食べ始める。

 食べるんだ……と、言葉を失ってしまう。

「どっちかっちゅーと、栗きんとんの方が好みみたいだけど」

「ついていけねぇ……」

「カナセンは今日もお仕事?」

「そりゃあ、平日だし」

 私は、色々あって学校の先生をやっているのだけど、子供たちにはカナセンと呼ばれている。カナエ先生の略称らしい。注意しても直る様子はない。

「舐められてるのかな」

「親しみやすいって言おうぜ!」

 トモダチトモダーチと飛び跳ねる。うるさいなこいつ。

「そういえばこの間なんだけどね」

「あんたのこの間っていつ?」

 クリスマス違いのように、猿子の時間の感覚は時々めちゃくちゃだ。自称する年齢も計算に合わないし、外見だってそもそもおかしい。大学をとっくに卒業したはずの猿子は未だあの頃と同じ容姿を保っていた。若作りとか童顔ではちょっと無理がある。

「んー、まぁとりあえずこの間」

「はいこの間」

「水色の子が来ましてね」

「水色?」

「髪と目が水色なの」

「……変わった髪だこと」

 水色と聞いて、虹色を思い出す。

「なんかあーだこーだ言って、まぁ泊めたんだけど」

「あんたも相当緩いよね」

 人のこと言えないけど。

「宇宙人だと思うんだよね、あの子」

 ひそひそ話のように言ってくる。他に誰が聞いているというのか。

「あのね、宇宙人さんはそんな簡単に世間を……歩いてるかもしれないけどさ」

「なにしろこのブロンソンの宇宙パワーをすぐ見抜いたからなぁ」

 ねぇ、と猿子が隣に転がるエビに同意を求める。エビもねぇ、って感じにくねる。

「実はわたくし、宇宙人に会ったことあるんだぜぇ?」

「ふーん」

 私もだよ、と心の中で答えた。

「食べたら早く帰りなさいよ」

「お、ご用事?」

「別に。お風呂入って明日の用意して寝る」

「真面目よのぉ。あ、カナエは長生きするのが目標だっけ?」

「まぁね」

 他に目指すものも特にないし。うそぶき、ケーキを食べ終える。

 口の中の甘さは、すぐに溶けてなくなってしまう。

「いいねー。日々健康。あてくしもほどほどにがんばってるよ」

「あんたは私より長生きすると思う」

 そうかな、と猿子が首を傾げる。

「わっかんないよー、先のことなんて」

 ねー、と猿子がエビに同意を求めると、そうそうとばかりにヒゲを振った。

 なにかそのやり取りに疑問を覚えないのか。

 覚えないんだろうな、と脱力する。

「……そうね。分かんないわ」

 笑いながら頬杖をついて、窓に向く。

 なにかが始まるような夜空をぼんやりと眺めて過ごす。

 全てに永遠がないのだとしたら、いつか別れにも終わりが来るのかもしれない。

 そんなことを、思う。

 想い続ける。



 隣の部屋が珍しく賑やかだった。聞こえる声は部屋の主のものではなく、別の女の声だ。

 聞き覚えがあった。なんというか丸みのある声で、すぐに分かった。

 こっちも同じアパートの住人だが、ありゃあやばいな。陸を走るエビを飼ってる。

 普通に走る犬とこっそり暮らしている俺の方が、幾ばくか健全だろう。

 外の空気が吸いたくなって部屋を出て、粗末な作りの通路から夜空を覗く。落下防止の柵に身体を預けながら、肌に張りつく夜に胴を震わせた。一緒に出て来た犬も最初は平気そうにしていたが、すぐに丸まって座り込んでしまう。早めに戻った方がよさそうだ。

 空気は、冬が一番気持ちいい。夏は厚ぼったく、秋は焼けた匂いが残り、春はざらざらしている。不純物の少ない厳寒のそれを吸い込むと、血管を通って指先までしゅんと冷える。

 その感覚が好きだった。

 犬には未だ名前をつけていない。親が自分の名前を本当に適当につけたと知っているからだろうか、かえって考えてしまう。エイリアンも、エイリアンで押し通して名前なんかなく。

 独りで生きていると、名前なんて不要になる。

 自分を含めて。

 吐息は白く、部屋から漏れる微かな灯りを纏う夜に映えた。

 けっこう前の夏、俺はエイリアンに出会った。そして寄生された。

 今思い返しても酷い話だ。

 そのエイリアンは地球を滅亡させるためにやってきて……確かそんな話だった。まぁなんやかんやとあって回避されたけど、寄生された俺の目にはそのエイリアンの姿がありありと残る。

 比喩とかではなく実際に。

 右目には常にエイリアンが見えていた。他のものはなにも見えない。目を瞑っても消えることはなく、それどころか夢を見る最中にも紛れ込む。最初は寝るときに邪魔だったが結局慣れた。傍から見て、俺の右目はどう動いているのだろう。顔の右側が微妙に、ガンメタルな輝きを帯びているのは気づいている。それはエイリアンの色だった。

 自分の身にあの夏、一体なにが起きたのか。すべて明かされることなくエイリアンはこの星を去った。正直、迷惑なやつなので戻ってきてもらっても困る。

 一緒に生活するのはせいぜい、やつの残した犬くらいで十分だ。

「お前、ぜんっぜん老けないよな……どうなってんの?」

 足もとにすり寄る犬を見下ろして呟く。出会った頃から、白髪の一つも増えている様子はない。白髪って表現が合っているか知らんが。

 最初、エイリアンに寄生されていたのは俺ではなく犬の方だ。共に暮らす中であのエイリアンに弄くられたとき、なにか細工されたのだろうか。下手すると俺より賢いし。

「……まぁ。病気とかにもならないし、いいけどな」

 弱っていく生き物なんて見て、楽しいわけがない。

「あいつは作られたとか言ってたし……いるんだな、宇宙人」

 今、広がる夜の、どこかに。

 すげぇなぁと適当に感動する。

 俺はきっと一度も宇宙に出ることなく死んでいくし、宇宙人には会えないし、ただただ重力に押し潰されていくだけのはずだった。それがなんだ、地球外生命体に会ってしまった。

 飯まで作ってもらった。

 でも俺は別に、出会う前とほとんど変わっていない。

 エイリアンがここに残したものは、本当に少ないからだ。

 とても大きなことが起きても日は巡り、季節は訪れ、消えていく。

 これからもそれを繰り返していく、一人で。

 部屋に戻ると、シャツと腹の間に犬が入り込んできた。振り向いて、小さく鳴く。

 あのはた迷惑なエイリアンの置いていった犬は、時々、俺を温もらせる。

「……ははは」

 尻尾が腹を撫でて、くすぐったかった。



 雪が降ると、地面を踏んでいるだけでも分かる冷たさだった。

 そうして屋根のある場所を探しながら進んだ先で出会った彼女には、右腕がなかった。

「こんにちは」

 声をかけるまで、しばらくかかった。喋り方を思い出すのが遅れた。

 向こうも同じだったようで、返事が遅い。

 突っ立っていると、足の裏に凍りつくような痛みが走って仰け反る。ぴちゃりと跳ねた水滴と、その流れを追いかけて理解する。崩壊した建物の隙間を縫うように、たくさんの水が流れて滝みたいになっていた。その余りがこちらへもやってきていたのだ。

「こんにち、は」

 彼女の声は掠れて、時々裏返る。お互いに喋り方を忘れていた。

 少し距離を開けたまま、正面から見つめ合う。

「奇遇?」

「奇遇で合ってる?」

「微妙なとこね」

「右腕は」

「世界が崩壊したときに」

「ああ……あれは、本当に大変だった」

「そうね。急だったから逃げられなくて……運が良かったわ」

「本当に、そう思ってる?」

「ううん、悪いと思っているときの方が多い。生き残ってしまって」

「僕もだ。どうしてこうなったって、寝る前にいつも考える」

「……思えば、子供の頃は失うことが少なかったわ。得るものばかりで、満たされて。それが少し大人になってみれば景色も、人も、夢もみんな失っていく」

「……そうかもしれない」

「人は不幸になるために生きているのかもしれない」

「……でも、ここまで生きているんだ」

「運悪く」

「お互いにね」

「ねぇ、一つ聞いていい?」

「なにかな」

「どうして死んだ猫なんて抱えているの?」

「友達だから」

「……そうなの。私も、猫好きよ」

「……気が合いそうだ」

「かもしれない」

「そうだ。出会えたお祝いに、いいことを教えようか?」

「あらどうも」

「今日、実はクリスマスなんだ」



「……へぇ、道理で、寒いと思った」

 気づけば。

 お互いに、たくさんの涙が溢れていた。

 泣き方も忘れたのか、涙の溜まりが過剰で、なかなか流れなくて。

 いつしか視界は雪にでも覆われるようにぼやけていた。

 それはまるで世界が洪水に呑まれたときのようで。

 少しだけ不安になって。

 でも、抱いた猫の温かさが、静かに心まで届く。

 その側に、僕の心臓が、そっと寄り添う。

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