『花咲太郎』外伝 『現(いま)を駆ける』【再掲載】
※この作品は「入間の間」に過去掲載された小説の再掲載になります。
「実は殺し屋につきまとわれちゃってさ、マジ参るよねー」
「奇遇だな、ぼくもそうなんだ」
そういうわけで扉を閉じて、鍵をかけて、寝るには中途半端な時間だなと頭をかく。
「あ、つれないな。つれないやつだな。いいのか、こっちもつれないことするぞ」
「どうぞどうぞ」
木曽川の声は甲高いので、寝ぼけた頭に響くと気疲れする。忘れがちだがこいつは殺し屋だからな、なんで仲良くしないといけないんだ。少し早いけど筋トレして、終わったら朝食の準備でもするかなぁと部屋に戻る。欠伸をかみ殺しつつ、布団を畳もうと側に屈む。
隣ではまだトウキが布団にくるまって眠っていた。かけ布団を内側に巻き込むようにして、隙間を減らして寝るのが彼女の癖だ。冬場は暖かいかもしれないけど、春先は暑いのか途中で蹴飛ばしていることも多い。今日はまだしっかりと布団の中にいた。
自分の敷き布団をめくりかけたところでなにか視界の外で動いたような気がして顔を上げると、思わず「うわっ」と目を見張る。
二階の窓に手が生えた。それからとんがり帽子の先端もひょこひょこと左右に動く。その時点で手の正体を理解する。僕の知り合いにそんな帽子をかぶるやつは一人しかいない。
足を何度か外しそうになりながらも手すりに引っかけて、窓の外の小さな物干し台に乗り上げてくる。そして「開けてくれー」と窓に張りついてきたので、やむなく鍵を開けてやる。こんなやつが蝉みたいに張りついているのをご近所さんに目撃されたら、どんな噂が立つか分からない。靴を脱いで脇に抱えながら入ってきた木曽川が、「はっはっは」と口だけ笑う。
「どうだ、つれなくしてみたぞ」
「意味が分からん」
あー疲れたと肩を回しながら、木曽川が人の布団の上に座り込む。畳もうとしたのに。足まで伸ばして退く気配がまったくない。今日の帽子はとんがった部分に赤い紐を巻いて、全体は深い紫色で殊の外、魔女の帽子だった。着ているスーツもそれに合わせてか落ち着いている。
その木曽川の目がトウキの寝顔に向いた。
「お、かわいい子が寝てんじゃん」
「出て行けロリコン」
「おめーに言われたかねえよ。……んー」
木曽川が前屈みになって、トウキをじろじろと不躾に眺める。
首根っこでも掴んで追い出してやろうかと思ったが、その前に木曽川が顔を上げてぼくを見る。
「女の子はやっぱりおっぱい大きい方がいいな!」
満面の笑顔でうちのお姫様を否定してきた。ぼくにとってはどうでもいい話だが、本人が聞いたら腕に噛みつくぐらいはやってのけただろう。幸い、寝返りを打つだけだった。
「ほっほっほ、若い者は寝顔が無邪気じゃのう」
「お前なにしに来たの?」
老人ごっこしている魔女もどきに用件を尋ねる。本当は聞きたくないが。
「言ったじゃないか。殺し屋に追われて逃げてきた。朝の四時から活動を開始するとか、そういう常識ないことはやめてほしいよな」
殺し屋という存在自体が非常識であることを踏まえて、白々しくそんなことを言ってくる。
「ま、朝飯食べたら帰るから」
「食っていく気かよ。なんで僕がお前の飯なんか作ってやらないといかんのだ」
帽子を取った木曽川が、年齢不相応な幼い笑みを浮かべる。
「そういう星の巡りなんだよ。ぼかぁ実家ではお坊ちゃんだからね」
「あん?」
「今帰ったら若とか呼ばれて……いや、今でも坊ちゃんだろうなぁ。印象ってそんなもんだ」
帽子を回しながら、木曽川が遠くを見るような目つきで言う。なんだ、案外いいとこの子供だったのか? 若なんて呼ばれると料亭の跡取りかなにかを想像してしまう。
「美容室のおにいさんにも、未だにきそ君って呼ばれちゃうからな」
「いやどうでもいいけど」
本当に食べないと帰らないようなので、やむなく朝食の準備に取りかかることにした。まだ普段より一時間は早いが、まぁいいか。さっさと食べてお帰り願おう。
冷蔵庫を覗いて、キャベツと鶏肉の味噌汁を作ることに決める。昨日は味噌炒めで、今日は味噌汁。味噌って便利。あとはサトウのごはんを温めておにぎりを作ればいいだろう。
鶏肉をぶつ切りにしていると、布団の捲れる音がした。それから、女の子の少し寝ぼけた声。
「あら?」
「おはようお姫様」
騒いでいたこともあってトウキが自分から目覚めたらしい。いつもはぼくが起こすのだが。
「朝早くから珍しい人がいるじゃない。ルイージは……あ、流し場だ。やっほー」
トウキが寝転んだまま転がって、流し場に顔を覗かせる。挨拶すると、すぐに首が引っ込んだ。その様子を眺めていて、胸がない方がああやって転がりやすくていいじゃないかと思う。
「よくルイージが入れてくれたわね」
「窓から入ってきちゃった☆」
「あれ、あなた殺し屋さんじゃなかった? いつ泥棒になったの」
「やだなぁ。僕は人の命は盗むけど物は盗まないよ」
嘘つけ。リラ○クマを誘拐していったことがあるだろ。
流し場からは部屋の様子が見られないので音でしか伝わってこないが、なんだかんだと話が弾んでいるようなので放っておくことにした。ご飯が出来るまでの間、トウキの話し相手になってもらおう。ただ飯を食べようというのだから本当はゴミ出しと掃除もしてほしいぐらいだ。
キャベツをざくざく切りながら、木曽川について考える。
殺し屋に追われているという話だが、本当なのかな。本当なら巻き込まれないよう、早めに出ていってもらわないといけない。しかし木曽川も一応殺し屋だからな、どれくらい強い態度に出ればいいのか。忘れがちだがぼくはしがない探偵である。なぜか荒事に巻き込まれることは多いが、超人的な活躍を持ってことを収めたことはない。喧嘩では敵わないだろう。
以前に自転車で競争したときは引き分けたが、あれはああいうお遊びだからで。実際、木曽川が本気でぼくたちを排除にかかったら苦もなくこなしてしまうはずだ。水族館での身のこなしを思い出して、無理無理とキャベツを切る。
「パパご飯まだー」
「まだー」
雛鳥みたいにぴーちくぱーちく言い出す。
「黙れ魔女の方」
トウキはよし。というかあの帽子、トウキの方が似合いそうなものだが。
定期的に催促してくる二人を適当にあしらいながら、少し急いで朝飯を作った。
慌ててもしょうがないというのに。
ふりかけおにぎりは一人二個の計算で六個作った。ふりかけ便利、とりたまそぼろ好き。それと味噌汁を三つ用意して部屋に戻る。誰が片づけたか知らないけど布団は畳まれて、部屋の中央にはテーブルも用意されていた。そしてトウキと木曽川がテーブルをべしべし叩いて催促してくる。普段から食べさせていない子みたいな反応を止めなさい。
「ここは太郎くんがいつも朝ご飯作るのかい」
味噌汁の椀を受け取りながら、木曽川が質問してくる。するとトウキが胸を張って答える。
「そうよ。いやー、わたしお姫様だし」
「あ、分かる分かる」
「よねー」とトウキと木曽川が人差し指の先端を突っつき合わせる。
こんな人と意気投合しないでくれ。空いている場所、トウキの近くに座る。木曽川は右手、玄関の方を向いた位置にいる。木曽川がおにぎりを掴んで、頬張る前に釘を刺しておいた。
「食べたら本当に帰れよ」
「帰るとも。……とはいえ、どこに帰ったものか」
ぼやきつつおにぎりを頬張る。まぁ追われているなら家には帰らないだろうな。
木曽川がまだ口をつけていない方のおにぎりを掲げて、きゃっきゃと声をあげる。
「おにぎり一個交換するー?」
「どれも一緒だよ」
「つまらん。返事が短い上に、つまらん。エンターテナーじゃない」
なんでお前を面白くしてやらないといけないのだ。一人、賑やかなやつだ。
現状に困っているようにはとても見えない。
「じゃルイージ、わたしのやつと交換する?」
「いいよー、しようしよう」
喜んでおにぎりを差し出す。それを受け取ったトウキがおにぎりの頭だけかじって、笑顔で突き返してきた。
「やっぱりやめたー」
「いやー、参っちゃったなぁ」
騙されてしまったー。てっぺんを失ったおにぎりを見てついつい笑ってしまう。
「はっはっは、傍から見ていてこっちも参っちゃうぜ。悪い意味で」
木曽川がなにか言っているが、聞こえなかったことにした。
そんな風に戯れていると、誰かが朝っぱらから扉をノックする。千客万来だな、今日は。歓迎してないけど。
ぼくは取りあえず立たない。トウキもおにぎりを頬張り、木曽川は味噌汁をすすっている。そうしていると今度は「木曽川」と名指しで呼び出してくる。しかも「おい木曽川ー」と友達を呼ぶような感覚だ。ちなみに声が高いので女だろう。
「木曽川さーん、呼んでますよ」
「気のせい気のせい」
何食わぬ顔で指にくっついた飯粒を取っている。やっぱり部屋に上げるんじゃなかった。
その後もノックが続いたので、木曽川が舌打ちをこぼしながら振り向く。
「しつこいやつだな。だからあいつは嫌いなんだ」
「窓から這い上がってこようとする前になんとかしてくれ」
「しょうがないなぁ、今回だけだぞ」
それはぼくの立場からの台詞だ。
ようやく箸を置いて立ち上がる。が、置いたその箸を思い直したように手にとってから玄関へ向かった。護身用のつもりだろうか。割り箸を渡しておいて助かったな、血生臭くなっては困る。そもそも玄関先で人殺しなんて勘弁してほしいのだが。ご近所で殺人なんて、昔のことを思い出してしまう。木曽川が箸を指揮棒のように振りながら、玄関の扉を開ける。
扉の向こうに立っていたのは女だ。ぼくからすれば単なる年寄りなので興味はないが、感じるものがある。粘っこく映る茶髪で、その一部が触覚のように立って伸びている。どういう理屈か知らないが虫の触角そのものに見えた。目もとがどこか胡乱で、木曽川を中央に捉えているかも判然としていない。そうした外的な要素もあるけどなによりぼくが感じたのは、性別や年齢も異なりながら、木曽川と同様の印象を抱くことだった。
これだけの距離がありながら、焦げ臭さのようなものを視覚で感じる。矛盾した感覚だが、小さく黒いひし形が時折、宙を舞うようだった。木曽川の言うとおり、あの女も殺し屋か。
その二人が玄関先で何事かを話し合っている。二人とも表立って凶器を見せびらかしたりすることはないが、隠し持っているのは確実だと思う。味噌汁をすすりながら、その動向を観察する。顔を合わせた瞬間に殴り合いなり刺し合いなりを始めることはないみたいで安心した。
ややあってから木曽川が戻ってくる。なぜか女を後ろに連れて。警戒していると木曽川は元の場所に座り直して、女はぼくと向かい合う位置に腰を下ろした。それからゴム紐を用意して前髪が額や目にかからないように頭の上でまとめて縛る。
なにこの人どうなっているの、と木曽川に目で問う。で、木曽川が淡々と答える。
「飯食ったら帰るってさ」
「おぅ」
おぅじゃねーよ。なんだこの女、木曽川と同レベルなのか。いやむしろ更に厚かましい。
呆れていると、女がテーブルをべしべしする。なんなんだその自然な踏襲は。打ち合わせもしていないだろうに、殺し屋さんのお約束なのか。渋々、箸を置いて流し場に行く。
相手が本当に殺し屋であるのなら、極力抵抗はしたくない。ぼくだけなら構わないがトウキもいる。殺し屋に命ではなく朝飯を要求されているというなら、ここは応じよう。
ぼくが席を離れている間に、トウキが気持ちぼくの場所に近寄って座っていた。向かい側に座った女から離れるためかもしれない。なんにせよ少しは頼られているようで悪い気はしない。
昼の弁当用に作っておいたおにぎりを差し出すと、女は本当に食べ始めた。もちゃもちゃと頬が膨らむ。ついでに結んだ前髪の束が左右にぷらぷら揺れる。そうしていると暢気な女子大生にしか見えない。女の目がきろきろと、ぼくたちの味噌汁茶碗を捉える。
「それちょっとよこせよ」
女が木曽川に味噌汁を催促する。味噌汁はさすがに余分に作っていないからな。
木曽川はこれ見よがしに味噌汁をすすった後、口を離して鼻を鳴らす。
「やだね」
「おぅおぅ、おぅ」
女が小刻みに動き出す。途端、木曽川も落ち着かなくなる。音がしているのでなんだろうとテーブルの下を覗くと、木曽川と蹴り合っているようだった。なんて低レベルな小競り合いだ。
緊張していたが、少し緩みそうになる。このまま徒労に終わってほしいものだが。
喉を通りづらくなった米粒を味噌汁で流し込んでいると、女の目がぼくを捉える。
しかし、捉えているはずのその目は瞳孔が波紋のように広がっては消えていくように、安定しないものだった。
「そっちの人、これと同業者?」
これ、と木曽川を箸で指す。それとは縁もゆかりもございません、と首を横に振った。
「ぼくはもっと普通の仕事をしている」
「こちら探偵さん」
せっかく具体的な内容をぼかしていたのに、木曽川があっさりとばらしてしまう。「探偵とか超かっちょいいじゃん」とうそぶく女が一番におにぎりを食べ終えた。指の腹についた米粒を、自分の指ごと噛みちぎるような勢いと力強さで噛みつぶした後にテーブルに突っ伏す。
腹が満たされたら、あとはもう用などないといった感じだ。
クラゲのように広がる髪を眺めていると会話する気も起きなくて、黙々と残りを食べ進めた。
使った食器を纏めた後、さて、じゃあ帰れよと殺し屋さん二人に目線を送る。しかし二人とも頬杖をついたり窓の外を眺めたりと、まったく対応する気配がない。木曽川はどう動くか迷い、女の方はそれに対応しようとこの場にとどまっているのが見て取れた。いい迷惑だ。
トウキは木曽川よりこの女の方を警戒しているみたいだ。それはぼくを取られるのではないかというヤキモチから来るもの……だったら最高なのだが、どう考えてもこの女の方が危険だからだった。雰囲気に危ういものがある。木曽川は少なくとも、表面上にはそれを隠そうと努めているのが伝わるが、この女はそういうところに回す神経が皆無のようだった。
「あ、そうだ。ゴミ出ししてこよーっと」
大声で宣言したトウキが小走りで部屋を出て行く。
あ、逃げた。普段はそんなこと率先してやらないのに、ゴミ袋を抱えてそそくさと出ていってしまった。ぼくも一緒に逃げたい。でもこいつらを二人きりにして殺し合いなど始めて、帰ってきたときには部屋中が血塗れになっていても困る。主に掃除が大変だ。
「さて、と」
木曽川が頬杖を外して顔を上げる。それに応じて、女が窓から木曽川へと注目先を変更する。お互いが一触即発のように見つめ合い、どちらも手をテーブルの下に隠している。牽制するような目線が飛び交い、木曽川と女、両方の唇が引きつるように歪む。
……あのなぁ。いいから、帰れってば。
部屋の中で剣呑な雰囲気を醸し出されても困る。ので、ここは介入する。
テーブルを押して立ち上がると、二人の視線がぼくに集った。
そしてぼくは言う。
「お茶を持ってこよう」
「おぅ」
「おぅ」
二人とも大人しくなる。なんでぼくがこんな連中を接待しなくてはいけないんだ。とはいえ言い出した役目は果たすつもりなので、食器を片づけながら流し場に立つ。麦茶でいいな。
というか、それ以外常備していないのだけど。
「黒田が独立して、新しい事務所を開業するんだって」
「へー。儲かってるんだね、羨ましいねー」
「ねー」
朗らかに業界話をしている場合なのか、こいつらは。関係がまったく掴めない。
さっきまでの物々しいにらみ合いはなんだったのか。
「あ、ケータイの待ち受け変えたんだー。うわぁリラ○クマ」
「うちのクマが一番かわいいだろ。うん間違いねぇ、誓ってもいい」
「私、キイロイト○の方が好きー」
「あいつもいいよねぇ。個人的にはコリ○ックマも……」
ようするに全部じゃねえか。
女子モドキの会話をしているんじゃない。本当は仲良しなんじゃないのか。とは一瞬思うが実際は声に反して、現場を覗けば穏やかな空気などまったく入り込む余地がないのだろうなぁ。
食器を軽く洗ってから麦茶を持っていく。受け取った二人がじゅるじゅるとすする。
「じゅるじゅる」
「じゅーじゅー」
効果音を口にも出す。楽しそうだなぁこいつらと冷めた目で眺めつつ、ぼくもじゅるじゅるする。それで一服したあと、姿勢を崩した木曽川が顎を上げて、肩肘張らないで声を出す。
普段の声の甲高さを一段、大人しくさせていた。
「僕たちの生活って忙しなくてさ。まぁ後ろめたいところもあるお仕事だからさ……いつもだれかに見られている、追われているっていう強迫観念との戦いが存外、背中を押すわけ。でもずっと忙しかったら骨は痛いし、身体もバラバラになっちゃいそうで……たまには、そういうのから逃げ切って、休む時間を作りたくなるわけだ」
そこまで語ってから、木曽川がぼくに微笑む。
そういうものを求めて、この部屋に来たとばかりに。……いや、なんでここなんだよ。
一服するなら喫茶店でいいだろうが。
「私は別に。仕事の時間以外、暇で仕方ないもの」
女が木曽川の持論をさらりと否定する。ついでに俯いて、「ねぇ」とか呟いた。
だれに向かって同意を求めているのだ。ぼくでないと助かる。
「そこは同意しろよ」と今度は木曽川からテーブルの下でじゃれつく。女がにぃっと快活かつ不気味に笑い、蹴り合いを受けて立つ。コップの水面を揺らしながら二人の大人が相手の足を蹴っている様を眺めて、ぼくは大人ってなんだろうと哲学に思いを馳せた。
殺し屋二人とテーブルを囲み、茶をすするという状況で波風を立てないようにするにはどうすればいいか。それを第一として行動を選択した結果、なにもしないという結論に行き着く。
つまり、いつもどおりだった。
それから両者は『ごにょにょ』と謎の話し合いを得て、ぼくたちのアパートから出て行くことに決めたようだった。一体どんな取り決めをしたのか、木曽川が先に走って、三十秒後に女がそれを追いかけるらしい。鬼ごっこかなにかをやっているつもりなのだろうか。
「いいか、三十秒経つまで絶対追ってくるなよ! 絶対だぞ」
小走りの木曽川が何度も振り返りながら念押す。女は手を振ってそれに応える。
「おぅおぅ。言っておくけど私、めっちゃ足速いぞ。覚悟しとけよー」
「知ってるよ、だから迷惑してるんだ!」
ぼくもお前らに迷惑かけられているけどなー。
「ごちそうさまー!」と走りながら叫んだ木曽川が遠くへ駆けていく。魔女帽子が頭から落ちないよう、手で押さえているので少し走りにくそうにしている。それを二階から脱力しながら見送るのがぼくで、道路のど真ん中に仁王立ちして見つめるのが女だった。
女が腕を組んだまま、首だけを巡らせてぼくを見上げてくる。
じーっと、見つめてくる。その目は空の一部としてぼくを映すように。
そう彼女は、空を見ている。そのときその瞳は真っ青に染まるようだった。
「……なにかご用で?」
「名前を聞いておけって姉さんが言うから。あんた、名前は?」
……姉さん? 姉さんって、だれ? いやむしろ、どこ?
この女が携帯電話等でだれかと連絡を取っていた様子はない。じゃあ、テレパシー?
カテゴリーFなのだろうか。
「山田剛」
いつものように偽名を名乗っておく。「ふぅん」と女は素っ気なく反応するが、この女にもいつか偽名を看破されてしまうのだろうか。ほぼ確実に見抜かれるからな、不思議なことに。
「私は……あー、長良川だから。仕事の依頼があったらぜひ、木曽川じゃなくて私にね」
「殺人にご縁がない、小市民な生き方を心得ているので」
心得ているだけで、現実は非情なものだが。
「あぁそれと、ごちそうさま。またお腹が空いたらあんたのことを思い出すようにするわ」
「……ははは、ご冗談を」
どうしてぼくは、殺し屋に居着かれるんだ? そういう星の巡りがあるのか?
言っちゃあなんだが、こんなババ……結婚適齢期から外れた女など門前払いしたい。
挨拶を済ませてから十秒後、数え終えた三十秒の溜めを爆発させるように女、長良川の足が爆ぜる。両腕を羽のように広げて地面を蹴っていく。自己申告のとおり確かに速い。跳ねるような走り方で非効率的に見えるが、ぐんぐん加速していく。おいおい、こりゃあ本当に追いつかれるんじゃないか、木曽川。三十秒の倍はハンデを貰うべきだっただろう。
殺し屋二人が走り去っていく。本当に朝ご飯を食べに来ただけで、帰って行く。
しかも仲良く追いかけっこだ。本気で殺す気があるのやら、ないのやら。
「……どっちもただのアホじゃないか」
呆れるほかなかった。呆れすぎて、少し笑ってしまうほどに。
二人の追いかけっこはどうなるのやら。木曽川が殺されてしまうのだろうか。少し考えて、いやぁそれはないだろうと思う。なんとなく木曽川は生き残るし、これからも何事もなかったようにぼくの前に現れる気がした。それどころか意図の分からんメールもばんばん送りつけてきそうな気さえする。この間は河川敷でラグビーの練習をしているおじさん方の勇姿を撮影して、メールに送付してきた。本文不在なので、本当に意味が分からない。
ま、殺し屋の心理などぼくに推理できるはずもなく。そもそもぼくは閃かない探偵であり。
相応に、自分のできることをこなしていくだけだ。
手すりに肘を載せて、ゴミ収集場所からひっそりと走って戻ってくるトウキを眺める。みんな走っているな、と笑いながら彼女が階段を上ってくるのを待つ。空は少し寒々しく感じるような薄い青色に染まり、その下を雲が駆け抜けていく。今日は風が強くなるのだろうか、やたらに雲も急いでいる。夢うつつに微睡んでいることもできそうにない、忙しない日だ。
人の一生が定められた時間の中でしかないなら、せかせかと生きることがなによりも、時間を有効に使っているということかもしれない。ゆっくりしているから寿命が延びるわけもなく。
常にすり減っていく人生に余っている時間というものはない。
だからぼくも、今日は走ってみようと思った。
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