『代走王』【再掲載】
※この小説は、過去「入間の間」に掲載されたものです。
追いかける。追いかける。そして、追われる。
いつ立場が入れ替わるか不透明な、浮き沈みのある命が躍動する。薄く広がって胴を締め付けるように、心臓が伸びきっていた。制止する声も振り切り、短剣の柄頭に手を添えて対象へ一気に距離を詰める。走り続けていると視野が狭まり、不思議と草の匂いが鼻についた。
豹柄の獣は前足に突き刺さった矢など厭わないように、俺を正確に目で追う。その怪我を考慮して右斜めから接近しながら、俺は強く自分を称える。確信する。信じ込む。
俺の方が、速い。
やつの足が届く範囲の寸前で、こちらも足を伸ばして地面へ滑り込み、肩を抱くように水平の姿勢を取る。直後、斜めから降り注ぐ猛獣の爪が肩を灼くようにえぐったが、浅い。致命傷ではない。鮮血が滲むより速く駆け巡る激痛を背負いながら、目を逸らさない。近距離で仕留め損ねることの意味は獣も理解しているらしく、身構えるように、どこか覚悟するように口もとを引き締めた。
倒れ込みながら、その締まった喉元へ、短剣を突き刺す。地面に激突して跳ねた身体を敢えて押さえず派手に飛び上がり、体重をかけて全身で押し込む。
押し込んだら血が噴き出すより先に捻る。同時にえぐられたこちらの肩からも激しく血が噴き出すのを温度差で感じた。気に留めている余裕はなく、奥へ、懐へ潜り込む。獣の暴れ狂う前足が俺の致命傷に届かないように密着する必要があった。二度、三度と背中を引き裂かれても短剣を離さず、獣の不快な吐息を浴びながら何度も、何度も刃を捻り込む。
強靱な獣の肉体による抵抗は、こちらの腕や脇もちぎれるかのようだった。
やがて獣の口から逆流した血が溢れだして、俺の背中に流れる体液と混ざり合う。獣の血は自前のそれより遙かに臭う。そのまま獣の反抗は勢いを失い、四肢が弛緩する。横へと倒れ込む獣と共に、俺も地面に伏せた。それでも親父が寄ってくるまでずっと、短剣を突き刺して身じろぎはしなかった。死んだフリをしている危険も、十分にあったからだ。
普段からは考えられない、大型の獣を仕留めた日のことだった。
喉から引き抜いた短剣は骨との接触で刃こぼれして、使いものにならなくなっていた。
解体は集落の近くまで運んで行うこととなり、親父たちと一緒に獣の死体を運んで戻ることになった。その最中に集落の他の連中は俺を褒めたたえたが、親父は『無茶をするな』と頭を叩いてきた。
肩と背中の傷ぐらいで大物を仕留められたのだから、無茶どころか実に効率的ではないか。無茶というのは五人、六人でかかって返り討ちに遭うことだ。
反論したら、今度は殴られた。痛くはないが、不思議だった。
大型の獣には腰が引けているのに、殺した俺には偉そうに振る舞えるのだなと。
俺が怖くないのだろうか。自分より速いやつを、恐れないのか。
襲われたら逃げられないっていうのに。
それに無茶をするなと言われてもそれは難しい。
身体は自然に動いたから。
七つのときに集落が獣の群れに襲われて、母親を食い殺されたのが原因かもしれない。食い散らかされた母の腕を手にとって、なにかしらの感傷めいたものを覚えたのは否定しない。復讐ともまた違うけれど、あれ以来、殺生や獣への恐怖が薄らいだ。
他に優先するべき感情が、俺の中に芽生えたんだろう。
とにもかくにも、大物を仕留めた。俺はここにいていいんだと、誇示する。
降りかかった獣の血に、飲んだこともない酒のように酔う。
道をなぞるのではなく、走るという行為そのものが己の道を作る。
それはこの世界に来てからも変わらないのだった。
汗ばむ鼻を親指の腹で拭う。呼吸の間隔を目の前の人間に合わせる。相手も当然、警戒している。代わりに出てきたやつなんだから、やるべきことは一つしかないと筒抜けだ。
その上で、与えられた期待に応える。読み取って、間隙を突く。
二度、牽制されるのをやり過ごす。前にも対峙したことがあっただろうか、必要以上に警戒されているのが球の勢いから伝わる。初球は外してくるかもしれない。
だから敢えて、一球目から行く。
出番が来るまでずっと観察は続けていた。持ちうる情報はこちらの方が多い。
己を鼓舞する。そして、律する。
失敗したら自分は死ぬと強く言い聞かせて、恐怖で心臓を打ち叩く。
他の誰よりも真剣に、そして、速く。
投手の短いモーションと同期して、地面を蹴る。
振った肘で空気を裂いて、その隙間へと身体をねじ込むように。
そして身体が抵抗なく一歩目に移行できたとき、勝ちを確信する。
完璧だった。足が風を踏むように、身体を軽快に運ぶ。
良いスタートを切れたときは、加速というものを鋭敏に感じられるのだった。足から腰、腕へと一本の線が綺麗に繋がり、ひしゃげることもなく全身を連動させる。肘が軽い、背中がないもののように軽い。なにもかもを振り切って一人、どこまでも走って行けそうだった。
滑り込む必要さえなく悠々、二塁に到達する。普段よりずっと短く感じた。
球を受けた捕手は二塁へと投げてさえいない。中途半端に伸びた腕を調整して、投手へと球を返す。
今日の調子なら三塁も狙えるかもしれないが、指示がない限り実行には移さなかった。
それから、盗塁は成功したがバッターが連続三振でそれ以上の進展はなくこの回が終わる。
走ったところでどのみち一緒だった。だが無駄足とは思わない。俺はこれだけ走ることができるのだと示せば十分で、極端に言うと勝敗さえどうでもいいのだった。
グラウンドを横断するように自陣のベンチへ戻って、これで俺の仕事は終わりだ。後は試合終了までベンチの隅に座っているだけ。できれば誰にも話しかけられないのが理想だ。
しかしベンチに戻った途端、他の部員に話しかけられる。
「お前の走っているときの顔って、すげーよな」
「ん、おぉ」
小さく頷く。俺の態度は仲間に向けるものとしては少々、愛想に欠けるだろうか。
しかし踏み込まれても困るものがある。結果、どこか朴訥に済ますしかなかった。
……だが、顔? 顔か、と頬に指を添える。
指摘されるほどなにかおかしかっただろうか。
部員が離れてからは俯き、誰とも目を合わさないようにして過ごす。他の部員のように応援しろと監督に尻を蹴り上げられないのは、俺が不気味だからか、事情を考慮しているのか。
どちらにせよありがたいことだった。
長くいながら、まだ喋ることに自信はない。
さながら海から上がった生物が陸上に適応するために、長い時間をかけるように。
俺にはまだ、適応する時間が必要だった。
別の世界からこちらへ漂流して四年。
代走専門の野球部員には、課題が多い。
身の丈を超える怪鳥が空を飛び交い、森に足を踏み入れれば猛獣が影から獲物を狙おうと潜む。そのクチバシや爪に何度、心臓を撫でられるような恐怖を味わったか。集落に帰還しても夜が来れば見張りを立てずに眠ることなどできなかったし、火を絶やせば人と獣、住処と森の区別など失われて、力なきモノは弱々しく食べやすい肉の塊と成り果てる。
そんな世界に、俺は生まれた。
『こちら側』ではそうした世界を、ファンタジーと呼称するらしい。意味は空想、或いは幻想。こちら側からすればそうした精神的な領域にのみ成り立つ世界観なのだろう。或いは、世界の誰かの意識が別世界に繋がる経験があって、それが語り継がれてきたのかもしれなかった。
八つの頃から狩りの訓練を行い、実践するべく駆り出されたのは十になる前だった。とにもかくにも人手が足りなかった。なにしろ食糧の都合で、大人は三十代に差しかかる頃には寿命を迎えるような環境だったからだ。当時は当たり前だったが、こちらに来てからはそれが栄養失調というものだったことを知った。つまり、本来の人間はもう少し長く生きるのだ。
それとこちら側の人間の方が、圧倒的に背丈があって最初はその威圧感に馴染めなかった。背の高い木々が頭上で蠢き、陰を作るようだった。これも彼らの言うところの『いいもの』を食っているからなのだろう。血を見ることなく肉が得られるというのは、実に素晴らしい。
俺のいた世界では考えられないことだった。
命は賭けなければ、糧を得られない。大事にしてばかりはいられなかった。
獲物を素早く仕留めて、別の獣に襲われる前に迅速に離れる。そのために必要なのは技術と、周りを観察する冷静さ、そして地を駆ける強靱な足だった。集落の子供の中で一番足が速かったのは俺で、だから有無を言わさずに狩りの担当を負わされた。実物と対峙したことはなかったが獣のうなり声、怪鳥の叫びは幾度となく耳にしていた。それに立ち向かえと言われているわけで、恐怖を感じなかったといえば嘘になる。
しかし他に道はない。集落を離れたところで生活など成り立たない。
大樹から離れた葉は腐るか踏まれる定めでしかない。
まぁ、腐れば養分にもなるのだが。俺はまだ、他人の養分になるつもりはなかった。
それに役割を早期に与えられるというのは不本意だが幸運なことでもあった。狩りにも参加できず力仕事も不得手でなんて子供まで保護して養っておけるほど、集落に余裕はなかった。だから、役割を与えることさえできない子供がどう扱われるかなんて、考えるまでもない。
怪物たちが住処を餌場と思わないように、ずっと離れた場所まで連れて行って、放置する。
そうすれば少しでも、集落から離れて活動してくれるんじゃないかって期待して。
それが、役に立たない子供の最初で最後の仕事だった。
大人たちはそうしたものを子供に隠そうとしなかった。むしろ見せつけるようでもあった。隠したところで塞ぎきれない現実の綻びを気に懸ける余裕は大人にもなかったのだ。
だから俺たちは、他の大人に混じって必死だった。あるのは背丈の違いぐらいで、大人も、子供も生き残りたいという意思は変わらない。そのために俺は、走り続けた。
そんな生活が二年ほど続いて、終わりは特に予兆もなく訪れた。
森へ向かう途中、怪鳥の大群に襲われた俺たちは呆気なく全滅。
俺はその中でも一番の巨体を誇る鳥に、頭から食われた。
そう、確かに食われてしまったはずなのだ。
だけど気づいたときには、俺はここにいた。
食われた先は鳥の胃液に満ちた腹の中ではなく、冷たくも硬い地面の上だった。
それが土ではなく、コンクリートと呼ばれることを暫く経ってから学ぶ。
夜の密度が薄く、遠くに火よりも明るい灯りが見えた。獣の毟られた毛の匂いはなく、代わりに嗅いだことのない刺激的な香りがした。座り込んでいる自分を避ける、大勢の人の群れはあまりに大きく、巨人たちの移動にも見えた。なにが起きたのか、なんにも分からなかった。
俺が行き着いた先は、道路の真ん中。連絡を受けてやってきた警官に保護されて、最初は疑われた。なにしろ手には短剣を握りしめて、言葉は通じず、ボロ切れを纏うような格好と来る。異国の子供と解釈されてそのうえ、なにか事件性があるのではとも思われたようだった。
まぁそんなに間違ってはいない。
戸籍もなければ国籍もない。あるはずもない。幸いなのは髪と肌がかけ離れた色合いでなかったことぐらいか。少なくとも異世界ではなく、別の国ぐらいの子供だと誤解してもらえたのだから。とはいえ、身分というものを一切持たない俺の扱いには困ったようだった。
話に聞くところの海というものを渡った別の島というわけでもなく、ここが純粋に異世界であると理解するのには結構な時間が必要だった。いや、その解釈で正しいのか未だ持って確証はないのだが……しかしこちらへ転移して最初に発見されたとき、理解が追いつかないので口を噤んでいたのは思えば最大級の偶然にして幸運だったと言える。別世界の言語を口走っていたら、より大きな摩擦が起こり、俺は世間に馴染むことなく燃え尽きていただろう。
やがてしばらくして、色々な場所をたらい回しにされた後になにを喋っているか分からない大柄な人間が俺を引き取った。俺から見ればほとんどの人間は巨人だ。その男が親父の代わり、いわゆる保護者となった。俺を引き取り、居場所を与えたのは鍛えていそうもないのに、集落の誰よりも恰幅のある偉丈夫だった。後で振り返ると、俺を引き取るなんていうのは珍しいというか物好きというか、よほどのお人好しでなければあり得ないようだった。
引き取られた先は、犬の多い家だった。その犬の中に俺が紛れる。そういう感覚で人間の子供を拾うような男と、その妻だった。それでもまず、俺に言葉を学ばせてはくれた。
意思疎通ができなければ話にならないと思ったのだろう。
狩りの獲物と向き合うときと同様、歯を食いしばり、死に物狂いで勉強した。事態を早期に把握しなければいけないと強く思ったからだった。その時の俺は森の奥深くに丸裸で放り出されたようなもので、生きている気がしなかった。全身が沸騰したように滾り、生きるために一秒でも早く学び取ろうと貪欲な姿勢で知識を欲した。そうした姿勢を引取先が評価してくれたらしく、俺は見切りを付けられて放り捨てられることもなくこの世界に馴染むことができた。
様々な事柄を数年の間に学習して、当たり前の疑問に行き着く。
俺は、食われて死んだのだろうか?
もしかするとここは死後の世界というやつかもしれない。
だが俺は成長している。周囲は時を刻んでいる。
変化があるのなら、あの世も捨てたものではない。
俺も今まで色々な肉を食って、血に溶かして生きている。それと同じだ。
食われた後に生きているのは、なんら不思議じゃなかった。
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