2-5 そして朝…

 結局、一睡もできなかった……


 結論から言うと、目隠し布は何の意味もなさなかった。応急処置的に取り付けた洗濯ばさみは、厚手の布地の重さに耐えきれず、午前1時半頃にバサリという音を立てて落下した。

 壁にぽっかり空いた穴の奥には、出窓から入り込んだ月と街灯の明かりに照らされて家具のシルエットが見えた。

 かなり大きめな音だったにもかかわらず、サツキさんは起きる様子もない。スー…スー……という寝息だけが、ダイレクトにこちらの部屋にも入ってくる。その呼吸音は、6歳年上の美人さんがすぐ近くで寝ているという事実を、僕に強く意識させた。

 彼女を起こして、目隠しを付け直そうかとも思ったけど、身体が動かない。彼女の寝姿を想像するだけで何も考えられなくなってしまう……。


(むしろなんで、あんな平気に寝られるんだ……?)


 それが大人の余裕というやつなのか、僕が自分が思ってる以上に思春期というやつなのか……。午前2時を過ぎたあたりで寝るのは諦め、LDRギアを着けてSEEF世界へダイブ避難した。



      *     *     *



「あちゃー! 目隠し外れちゃってたかぁー!?」


 やたらと快活な朝の挨拶が聞こえたのは7時前。


「おはようシノくん! 」

「おはよう……ございます」


 サツキさんは穴からひょこりと顔を出して。僕の部屋を覗き込む。一晩中、僕ができなかった行為を平然とやってしまうんだな、と思うと、なぜか知らないが、自分がとても情けない人間に思えてきた。


「あぁ~!もしかして夜ふかししてたの? ダメじゃん、学校で寝ちゃうよ?」


 外したばかりのLDRギアを見咎みとがめて言う。誰のせいだと思ってんですか……?


「アタシこれから着替えてお化粧するから覗かないでね♪」

「しませんよそんな事……」


 そんな事ができる度胸があったら、この数時間の間にいくらでもチャンスあったっての……。しかし、朝からテンション高い人だな…… 。

 一晩中SEEFにいて流石に脳が疲れている僕は、仏頂面で冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに移した。




      *     *     *



 朝の支度を終えて、玄関のドアを開けるとほぼ同時にサツキさんも出てきた。


「……どうも」

「あはっ!タイミングいいね。どうせだし途中まで一緒にいこうか」

「そうですね」


 サツキさんは昨夜のラフなTシャツ姿とは真逆の、カッチリとしたスーツ姿だった。濃紺の上下に、薄いブルーのブラウス。部屋ではまとめていた髪は下ろされ、肩にかかるくらいの長さだったことが判明した。

 化粧もしっかりとしているし、それにかすかだけどいい香りもする。香水をつけているのだろうか?

 昨日の爆発にうろたえる姿とも、その後の無防備すぎる姿からも遠い、いかにも「出来るビジネスパーソン」といった出で立ちのサツキさんがそこにいた。


「そういえば、朝に顔合わすのって初めてですよね?」

「あーそうだね。っていうか、隣さんがどんな人かすらアタシ知らなかった」

「それは僕もです」


 隣人がいるらしいということは知っていたけど、挨拶もしていなかったし、これまでちゃんと顔を見たことすらなかった。まして朝に玄関のドアが同時に開くなんて一度もない。隣の気配がわかると、朝の準備のペースも同調してしまうものなのだろうか?


「いつからあの部屋にいるんです?」

「うーん…アタシが上京してからだから、もう4年になるのかな」


 そんなに。僕よりも早くからあのアパートに住んでいたのか。


「本当は、ちょっと前に引き払って実家に戻ろうかと思ってたんだけどね。そんなときに今の仕事見つけて、もう少しだけいることにしたの」

「ああ、そういえばそんなこと言ってましたね」


 安定して給料が出る仕事。それで家賃の滞納がなくなれば、晴れて部屋の壁も塞がれるわけだ。それまで、あんな心臓に悪い暮らしをしないといけないのか…?


「シノくん。こっち学校に通うために一人暮らししてるんだよね。ご実家は?」

「ああ、僕は……」


 とりとめもなく、そんな身の上話をしているうちに駅に着く。


「シノくんは何番線?」

「3番線です。東京方面の各停」

「なんだ、じゃあ同じ電車だ!」


 というわけで車内でも会話は続く。


「そういえばなんで、あんな安物LDR買ったんです?」

「いや、それがね。今の仕事でちょっと必要になりそうだったから、急いで用意したんだけど…… もうちょっとちゃんと調べればよかったよね」

「ですね。よかったら僕、何か適当なマシン探しましょうか? 一応くわしいんで」

「ホント!? 助かる~~! あ、でも……」

「ああ、そうですね。なるべく安いやつを探します」

「うう……ありがとございます」


 電車に揺られて3駅、ヴァンドーム学園の最寄り駅に到着する。


「あ、僕はこの駅なんで…」


 そう言って、軽く頭を下げてからドアに向かおうとすると…


「え、うそ?」


 サツキさんの目が丸くなる。


「アタシも次降りるんだけど……?」




 おいおいおい……


 その後も通学路をピッタリとサツキさんがついてくる。いや、僕がサツキさんの通勤路についていってるのか?

 LDRギアが必要な仕事ってもしかして……。いやまさか……? 一歩足を前へ出すごとに、疑問とその打ち消しが交互に訪れる。けど次第に、その疑問は確信へ変わっていく。


「………」


 駅を出るまであんなに饒舌じょうぜつだったサツキさんも何も言わない。ただ気まずそうに僕の隣を歩いている。

 このあたりは住宅地だ。入学以来、ほぼ毎日この道を歩いているが、カッチリとスーツに身を包んで働くような場所があるような地区ではなかった。ただ一箇所を除いては……。


 同じ方向へ向かって進む、同級生たちも多くなってきた。心なしか、その中の一部の視線が、自分たちに刺さっているように感じる。僕たち二人は黙々と、彼らと同じ道を歩いていく。


「あー、アタシの職場、こっちだから……」


 ようやくサツキさんがそういったのは、長いレンガ造りの壁の前だった。指差した方向には私立ヴァンドーム学園芸能科の正門がある。そして僕のつま先の方向には同学園の普通科の正門が。


「はは……まさか……」

「ウチの先生だったんですね……」

「シノくんこそ、ウチの生徒なら早く言ってよぉ……」





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