2-4 年上美人の音

「おちつけ……そうだ、とりあえず落ち着くんだ」


 水を流す音が絶え間なく聞こえる。ボロ物件とはいえ、隣人の生活音が聞こえてくるような部屋じゃなかった。けどそれは、壁に直径1メートルもの大穴が開いてなければ、の話だ。


 自室に戻ってから程なく、この音が聞こえ始めた。なんの音かなんて考えるまでもない。


「シャワー浴びなきゃ」


 このセリフが全てだ。頭の中でサツキさんのセリフが、唇の動きが、克明に思い出される。今SEEF世界にダイブしたら、たぶん僕も〈ソウ〉を使えるだろう。「隣人の唇の動きを再現する」というなんの使いみちもない〈ソウ〉だけども……


 いや、あるいは……


 想像が飛躍する。突然抱きついてきたその時の感触はまだ、身体にしっかりと残っている。6歳年上、23歳の女性の身体が接触した場所はほんのりと熱を帯びているように感じていた。

 この感触を頼りに、大穴の奥から聞こえてくるこの音の発生源の情景も再現できるのでは……?


「馬鹿野郎! 何考えてんだこの野郎!?」


 煩悩ぼんのうを追い払うべく、首をブンブンと振り回す。本当に落ち着けよお前。とりあえず頭冷やせ。僕は僕自身にそう言い聞かせる。そうだ。僕もシャワーを浴びて頭を冷やそう。

 穴の方を見ないように、首と視線を不自然に傾けながら、玄関脇のドアに向かう。ドアを開けると洗濯機置き場 兼 脱衣所だ。

 変な汗をかきまくってぐっしょりになったTシャツとハーフパンツ、下着を脱ぎ、洗濯機に放り込む。背後のガラス戸を引き開けてユニットバスに入る。と、そこで……


 水の音が消えた。


 あれ?


 冷静になるべく入ったユニットバス。けど……なにかとんでもない間違いを犯してしまったのではないか、コレ?


(フ~~ン フフ~~ン)


 鼻歌。そして何かシャカシャカと泡立てているような音。いやいや馬鹿な、そんなかすかな音がこの壁越しに聞こえるはずがないだろ……。いやでも、あの壁の穴を回り込んで聞こえやすくなっていると言うことも……?


(フフフ~ン)


 ああ、やっぱり聞こえる……。

 鼻歌はどこかで聞いたことがあるようなメロディだった。なんだっけコレ? 思い出せない。そんな場合じゃない。やはり僕はとんでもないことをしてしまっている。


さっき行ったときに気がついた。お隣の部屋は、うちと線対称となるような間取りになっている。たぶん、水道管や電線を通すときにそうした方が都合がいいのだろう。水道管を挟んで線対称の部屋ということはつまり、お隣の風呂場とは壁一枚隔てただけの位置にあることになる。


 要するに、僕、織部信乃は今、隣人、邑井むらいサツキさんのすぐ横にいる。下着ひとつ着けてていない状態で。そしておそらくは、サツキさんも何も身に着けていない。その事実に固まる。


 壁は数センチの厚さがある。そんな事関係ない。2メートル以内……下手したら1メートルも距離を隔てていない場所に、自分と同じ格好の年上美人がいる。その事実は、健全な17歳の思考能力を、通常の1%以下にまで削り取るだけの力があった。


「~~~~~~ッッッッ!!??」


 何も…なにもかんがえられない。えっと…なんだこれ……どうしたらいいの……?あの感触は、まだ残っている。熱を持っている。彼女の声も表情も、髪の毛の匂いも全て克明に覚えている。そりゃそうだ、まだ10分も経ってないんだ。そんな中でのこの状況……っ!!


 悶々としているうちに再び水を流す音が聞こえ始めた。その間、僕は身体を動かせない。こんな音、聞いてはいけない! これは聴覚的な出歯亀行為だ!! そうだ。僕もシャワーを出して、この音をかき消さないと……

 いやダメだ! いま蛇口をひねれば、隣人もシャワーを使い始めたことがサツキさんにバレてしまう。そうしたら僕は何だ? 隣のお姉さんとタイミングを合わせてシャワーを浴び始める変態野郎じゃないか!?

 

 万事休す……!!


 僕はユニットバスの入り口に足をかけたまま、石像のように微動だにせずに無限とも言えるようなときを過ごした。死ぬほど情けない石像だ。ということはあの人はメデューサか? いや、にらみもせずに僕を石にしてしまったんだからメデューサ以上の魔力だな……。

 そんなくだらないことを考えて、胸の奥底で暴走する様々な思いを必死で押さえつける。


 やがて隣のシャワーの音が止まり。ゴソゴソと音がした後に、ようやく足音は居間の方へと遠ざかっていった。僕の呪縛もそこで解けた。


「はぁ……」


 僕は、疲れ切った腕でシャワーの蛇口をひねった。



      *     *     *



「あ、シノくん!」


 ぐったりした状態で、新しいTシャツとハーフパンツを履き、居間に戻ると、サツキさんが穴から顔を出して僕に呼びかけてきた。


「え……? あ……な、なんですか?」


 風呂場で聞き耳立てていた事について、何か言われるのではないかと思い、背筋が凍りつく。


「コレなんだけど」


 そんな最悪の事態は避けられた。サツキさんは穴の奥から大きな布を引っ張って僕に見せてくる。


「流石に何かで目隠ししておかないと、お互い不便でしょ? 昔、自分で服をつくろうと思って、そのままにしちゃってるヤツなんだけど……?」


 白地に鮮やかな青のストライプが入った、厚手の生地だった。サツキさんがどんな服を作ろうと思ったのかはわからないが、ストライプの線は太く、かなり派手な柄になるなと思った。

 そんなことはともかく、目隠しには丁度いい厚さとサイズ感だった。


「ええ、いいと思いますよ」

「ホント? よかった! じゃあ、コレをこうして……」


  サツキさんは、布の上辺にいくつかバネの効いた洗濯ばさみを取り付けた。そして、自分の部屋の壁に取り付けたフックに洗濯ばさみを引っ掛けて、布を垂らした。穴は見事に塞がれ、僕の部屋からは青と白の縞模様のだけが見えるようになった。


「とりあえずこれで応急処置はOKかな。明日ちゃんとした道具を買ってきて取り付け直すから」

「あ、はい。お願いします」

「はぁ~ 今日は疲れちゃったよ。明日も仕事だしそろそろ寝ないとね」


 時計を見る。確かにもう午前0時をまわっていた。


「キミも学校があるんでしょ?」

「はい。僕も、もう寝ます」

「うん。それじゃ、おやすみ~~」


 目隠し布からかすかに透けていた明かりが消える。僕もベッドに横たわり照明を消した。





………



………




…………





………………






……………………………………………………寝られるわけないだろ

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る