★22★ 商人が金で買えないもの。
アデラが退出していったドアを恨めしげに見つめていたクラリッサが、ようやくこちらを振り向いた……かと思えば放たれた第一声は「ヴィルヘルム、何故貴男がここにいるの?」という、まだ常よりやや涸れた不機嫌そうな声だ。
これは普通にこちらの流れに乗せて交渉に入るよりも、クラリッサの負けん気に賭けた方が良いかもしれないと、商人である勘が告げている。
「そっちが金を受け取りに来ないからだろう。あんたが助けたのはノイマン商会の長男だ。安くはない報酬金を捨てられるほど、この領地の資金繰りが好転したという話は耳にしないが?」
試しにそんな言葉を投げかければ、すぐに「資金繰りについてはその通りだけれど……あんな目にあったのに、相変わらず口のきき方がなっていないのね? それに私は別にお金目当てで助けに行ったわけじゃないわ」と返ってくる。
――ああ、ほらな、やっぱりだ。
金に糸目をつけず、命を危険に晒さなければ手に入らないような情報も簡単に手に入れられる能力を持ちながら、根が素直なクラリッサはつくづく交渉事に向いていない。簡単につけ込まれる隙を言葉に作ってしまう。
だがここからが勝負の賭けどころだ。結果を焦って本気でクラリッサの機嫌を損ねるのは愚策。じっくり、ゆっくり、彼女の答えを誘導していかなければ。
「じゃあ、何が狙いであんな危ない真似をした? 俺は商人だ。ああいうことは昔からままあったし、これからもあるだろう。でもあんたは違う。貴族の一人娘がやらかしていいことじゃない」
こちらがそう言うとクラリッサは一瞬だけ目蓋を完全に持ち上げて、琥珀色の瞳を無防備に晒す。だがその瞳はすぐに、常のように降りてきた目蓋に半分隠れてしまった。
「商人だからよくて、貴族の娘だから駄目ですって? どちらも同じよ」
「まさかとは思うが、命の重さは一律だとかいう綺麗事でも言うつもりか? だとしたら興醒めだ」
彼女らしい返答を鼻で嗤ってわざと怒りを誘うと、その美術品のように美しい顔が僅かに歪む。やりすぎるな、加減をしろと自分に言い聞かせながらクラリッサの顔色を窺う。……頼むから心を揺らしてくれと、ガラにもなく願った。
「貴男そんなに馬鹿だったかしら? 貴族の娘だろうが、商人の息子だろうが、自分の責任は自分で取るものでしょう。第一相棒だと言い出したのはそっちが先だわ。私はそれに“是”と応えた。だったら貴男の失敗は、貴男を相棒に選んだ私の失敗でもあるわ」
顎を上げて呆れたような半眼から覗く琥珀色の瞳に、緊張で乾いた唇を舐める。さて、落ち着け、落ち着け――。
出逢い方は俺のせいで最悪だった。あの時は肩書きが欲しくて……ただただ肩書きだけが欲しくて、そこに相手の意志など必要ないとすら思っていた。しかし今さらになって“そんなわけがあるか”と思う。
「貴男が何を言いたいのかはともかく、せっかくアデラがお茶を持ってきてくれたのだから、一度座って。落ち着いて話をしましょう。頭に血が上っていてはまともな会話にならないわ」
そう溜息混じりに椅子を勧める彼女が少し憎らしいと感じるのは、俺の身勝手だ。最初から【成り上がり】と嘲らないクラリッサに、苛立ちと憧憬を抱いていたのは俺の方だった。そんな彼女に今から自分が持ちかけようとしている“契約”の正体を、汚い行いだと詰られようと、考え直そうだなどという気持ちはまるでない。
高熱で混濁した意識の中で、クラリッサがレジーナ達と一緒にベッドに上がり込んできたのは、驚きからか割と鮮明に憶えている。
おそらく寒い時期の猫達にとって、熱の高い人間が魅力的だったのだろう。しかし時折額や頬を舐めてくるクラリッサとレジーナには、他の猫からよりも多少の情を感じた……と、思いたい。
あの時のことを“同衾した”と言って“責任を取る”と押し込む手も考えたが、あまりに小狡すぎる。クラリッサが記憶にないと言ったところで、うちの従業員や医者も目撃していたのだから言い逃れはできない。ただ少し意外だったのは、クラリッサ命のアデラが引き剥がさなかったことだろう。
彼女が何を思ってそのままにしておいてくれたのか分からんが、それ故にあの時のことを引き合いに出す気にはなれなかった。であれば、ここは当初通り商人らしい正攻法で勝負するしかない。
「いや、実はな……誘拐されている間に、新しく手を広げた貿易に関して執り行われるはずだった商談が、俺がいなかったせいで半分ほど流れた」
勧められた椅子に腰をおろし、正面に座ったクラリッサの表情を窺いながらそう口にすれば、彼女は形の良い眉を寄せて「それはお気の毒だけれど……商談相手の方は、よほど貴男と手を組みたかったのね」と、僅かに口許を緩めた。
その様子に意識を払いながら、何気なさを装って「そう思うか?」と訊ねる声が、常のものよりも高くなる。
「――ええ。どうせ貴男のことだからもしもの時のために備えて、商談に向かわせる部下くらい用意していたのでしょう? それをお相手が断ったのであれば、貴男でなければ話にならないと思ったのよ」
カチャリと小さな音を立てて手前に差し出された甘い香りのするお茶に、二、三度口をつけて心を落ち着かせる。
「他人事のように言うがな、俺の顧客ならあんたの顧客でもあるんだぞ? 商談を纏めるまでに使った経費を考えたら結構な損失だ。相棒なら損失を負うのは二人一緒だろ」
――勿論嘘だった。はっきり言ってクラリッサはこの件に関して全く無関係だ。
そんな損失分はすでに摘発されて虫の息だったクソ野郎の店を吸収合併し、あいつがうちのデザインを盗んだ上で立ち上げていた、安価な値段の宝飾ブランドを叩き直して得た収入と――。
贈り物として渡した商品化されていない一点物の宝飾品を、よりにもよって商売敵に横流ししたライナ嬢の後ろ盾……ミッテンベルク子爵家からの賠償金で、何とか半分は打ち消せたのだ。
だが当然そのことで俺達の婚約話は解消。ライナ嬢の企てと母親のことがミッテンベルク子爵に露見した。しかし流石にあのまま彼女が放り出されては寝覚めが悪い。そう思って口添えを少々と、新しく“訳あり”な婚約者候補との仲介を勤めたところ、むしろかなり喜ばれた。
仲介先のお相手は……幼い娘のいる伯爵様。あちらからすれば【成り上がり】の男爵家よりもかなり上等だったのだろう。両家から追加でもらった謝礼金で、損失分は晴れて帳消しになった。
それにこちらからしても、クラリッサが後から交際をし直したいと申し出ないとも限らない。その退路を潰しておく必要があったのだから、そこに親切心など一片もない。打算と野心。どこまでいってもそれこそが商人の本質だ。
けれどそんなことは知る由もないクラリッサは、生真面目にも「それは……そうね。賠償金額にもよるけれど、二言はないわ」と素直に頷く。その姿に良心の呵責がないわけではない。でも駄目だ。手に入れたい。
「流石は俺の相棒だ。頼もしいね」
「またそうやって軽口ばかり。だけどその方が良いわ。そんなことをわざわざ言いに訪れる元気が戻ったということだもの。それで……黒蛇様はこの魔女にどんな快気祝いの情報をお望みかしら?」
ティーカップを上品に持ち上げる彼女がどこか楽しげに見えるのは、きっと俺がそう感じたいからだろう。
「情報は勿論だが、こちらも先立つ物がいるんでね。どうせ一括では支払えないだろうから、今から渡す“契約書”に一枚ずつ
――さて、いよいよだ。
若干不安そうにしているクラリッサの目の前へ、用意してきた無駄にびっしりと大した内容でもない言葉を書き連ねた“契約書”を差し出す。枚数にして優に百枚はある。
内心この大勝負にらしくもなく心臓が騒がしい俺と、珍しく目に見えてうんざりとした表情をするクラリッサ。それでも生真面目な彼女は「分かったわ」と口にすると、大量の“契約書”を自分の方へと引き寄せ、こちらが用意しておいたインク壷とペンを受け取る。
そうして俺が見守る前で、熱心に一枚ずつ“契約書”をめくっては署名をしていってくれるのだが――……。
五十枚ほどめくったところで不意にその手が止まり、こちらの企みがバレたかと焦って「どうした?」と訊ねれば、眉根を寄せて顔を上げたクラリッサが「この書類……同じ内容しか書いてないじゃない」と唇を尖らせた。
彼女の言葉に危うく笑みを浮かべかけたものの、口の内側を噛んで耐える。シレッと「俺達の使う“契約書”は大抵そんなもんだ」と答えたものの、今度は“しっかり目を通せ”とは、敢えて言わない。
諦めたように溜息をついた彼女は、さらに一枚、二枚と署名した“契約書”を隣に重ねていく。半眼から覗く琥珀色の瞳が書類の文字を追う速度が速くなり、文字が滑っていくのが分かる。
いつの間にかすっかり冷めた甘いお茶を口にしながら、彼女がついに最後の一枚に署名したのを確認した。それと同時に読み直されたりしないよう「それじゃ、これは預からせてもらうぞ」と、疲弊したクラリッサの隣からさっさと“契約書”を自分の方へと引き寄せて、持ってきた鞄の中にきっちりとしまい込む。
そんな見ようによっては不審極まる俺の様子を見た彼女は、お人好しにも今度ははっきりそれと分かるような“微笑み”を浮かべて。
「もう……すっかりお茶が冷めてしまったわ。今度はアデラも呼んで、三人で一緒に温かいお茶を飲みながら話しましょう?」
叶うことなら、どうか。次に俺がここを訪れた時にも、この柔らかく微笑む顔を見せて欲しいものだと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます