◇幕間◇お嬢様はお猫様。


 お嬢様が捜索の途中で精神を獣に飲み込まれながらも、高熱にうなされるノイマン様の元を離れることを嫌がったため、わたし達がキルヒアイス領に戻ったのは事件から四日後のこと。


 事前にノイマン商会からの連絡を受け取って待機していた旦那様は、戻ったお嬢様の状況を確認した後、使用人達を全員エントランスに呼び寄せると、これからお嬢様が正気を取り戻されるまでの間の扱いに関して言及された。


 特に男性使用人達に『皆を信じてはいる。だがしかし――』と、悩ましげに言葉を区切ってでもお嬢様への接近を禁じたのは、男親としては当然のことだ。それというのもすっかり猫っぽくなってしまったお嬢様は、キルヒアイスのお屋敷内に勤めている全ての人間に対しての危機感が皆無だった。


 老若男女を問わず飛びついては、遠吠えのせいで涸れた喉を健気に鳴らしてすりより、遊んで欲しい、頭を撫でてと催促する。おまけに一度ぺったりとくっついてしまえば、構ってもらうまで離れない。


 いつもは伏し目がちな琥珀色の双眸をパッチリと開いて対象者を見上げ、子猫さながらにふにゃりと相好を崩す様は、筆舌に尽くしがたいほどの可愛らしさで。


 だからこそ如何に忠誠を誓っている使用人達であろうとも、下手な気を起こしかねないと危惧した旦那様のお考えは、使用人達に全面的に受け入れられのだ。


 ちなみにこれ以前でわたしの知るお嬢様の変化は、十歳の頃に鳥類に傾かれた時。あの当時も小首を傾げて瞬きしたり、ちょこちょこと後をついて来る可愛らしさに悶えた記憶がある。ただ動物の特色がそのまま移るから、二階のバルコニーから飛び降りようとした時は心底肝が冷えたわ……。


 男性使用人達は遠目にいつもは気難しげな表情のお嬢様の無邪気な姿を愛で、屋敷内でお嬢様が怪我をしないように危なそうな場所を重点的に封鎖し、近付いてくる場合はその筋の手練れの如き速歩で遠ざかった。


 あとは四日に一度ほどの間隔で、ノイマン商会からお嬢様の動向を訊ねる手紙が届いたものの、それに返信するのはわたしの仕事ではなく旦那様のお役目なのでその内容は分からない。


 だけど三度に一通の割合でわたし宛に、ノイマン様の弟君の世話役である彫金師の彼から、装飾品のデザイン画の意見を求められたりもした。正直わたしに訊いたところで都会の流行りに沿うとは思えないのに、それでも何度も送られてくるデザイン画は不思議とわたしの好みに合うものばかりで。


 デザイン画を見ていると、あのややタレ気味の穏やかそうな焦げ茶色の瞳と、同色のツンツンとした短髪で、彫金師にしてはあまり垢抜けない彼の姿が脳裏に浮かんだ。


 前回会った時はあまりお互いに良い印象を持てるような間柄ではなかったけれど、それでも商品になってこちらに流れてくることがあれば、お嬢様とお揃いで一点くらい購入しても良さそうだとは思えた。


 男性使用人の代わりにわたし達女性の使用人達は、ここぞとばかりにお嬢様を構い、時に遊んで差し上げる順番を決めるのに本気で揉めたりもした。


 ただ男性で唯一近付ける存在の旦那様は、何故か他の男性使用人達と同じように一定の距離を保たれ、わたしがそのことを疑問に思って訊ねれば――、


『ああ、いや……クラリッサが幼い頃一度犬に傾いた時、散々ボールで遊んだんだがね。正気に戻った後、恥ずかしがってしばらくはろくに口もきいてくれなくなったものだから』


 と、何とも切ない失敗談を聞かせて下さったので、わたしは節度を持って接しようと心に決め、少しでも暇ができれば羽根ハタキをちらつかせて遊び、お嬢様が眠そうに欠伸をすれば毛布を持って近付く毎日。


 他の女性使用人達は眠るお嬢様の髪を梳いたり、本物の猫が好みそうなお手製のオモチャを作ってきたり、人肌に温めた牛乳をスプーンで飲ませたり、眉間や喉を撫でてゴロゴロいわせたりと、思い思いに可愛がったのだけれど……そんなわたし達の楽しい蜜月にもついに終わりがやってきた。


「……アデラ……今日まで私が何をしていたのか、教えてくれるかしら?」


 長らく獣の精神に引っ張られていたお嬢様が正気を取り戻したのは、幸いにもわたしの膝の上で毛糸玉を弄んでいる最中だった。


 毛糸玉を手に入れてご機嫌にパッチリと開かれた両目に、ふと知性の光が宿ったと感じた直後に低く絞り出された声。その声を耳にして、この幸せな時間が終わってしまうことをちょっとだけ嘆く。特に今回はわたしだけでなく他の使用人達にも大人気であっただけに惜しい。


 けれどそんなことを言い出せるはずもなく「大したことは致しておりませんわぁ」と、その場では当たり障りのない返答をした。


 しかしそこはわたしとの付き合いが長いお嬢様。こちらがそんな返答をすることはお見通しだった様子で、その日は何も仰らずにソッと毛糸玉を手放して、旦那様に正気に戻ったことの報告へと向かわれたのだけれど――。


「ねぇ、やっぱり皆の様子がおかしいわ。特に男性使用人の皆が変なのよ。声をかけても走って逃げたりはしないのだけれど、なんだかよそよそしいというか……とにかく変なの」


 翌日にはわたしが仕事をしている間に、ご自分で調べてきたらしい疑問をぶつけてこられた。


 困惑しているらしいその姿が微笑ましいせいで、少し悪戯心が頭をもたげて「お嬢様、世の中には知らない方が良いこともございますわぁ」と、はぐらかせば「……やっぱり私が何かしたんじゃない」とさらに眉根を寄せる。


 わたしの言動に頬を膨らませるお嬢様の姿は、それはもうお可愛らしい。ご本人が全く理解していないだけで、その神秘的な琥珀色の瞳は一定の人種の心を捕らえて離さない魅力を持っている。


 何となくもうすぐそこまでこの魅力を知る人物が迫っている気がして。けれど今回最後まで甘えられていたのが自分だということが、わたしはとても誇らしかった。



***



 ふと、一週間前に感じた物事が正夢になってしまったのだと感じて、あんなことを考えなければ良かったと苦笑する。


 お嬢様は突然連絡もなく現れたノイマン様の姿に、一瞬だけ伏し目がちな目蓋を見開いた。それは今まで長年お遣えさせて頂いているわたしにしか分からないような、微妙な変化。


 この表情を独り占めできるのは恐らく今日で最後になるのだろう。ずっと一番近くで成長を見守ってきた自負からくる感慨深い思いと、わたし以外にお嬢様の魅力に気付いてくれる人物が現れたことへの歓喜。


 そんなわたしの内心に気付かず、今の今まで肩に擦り付けられていた額を離して、隠れるようにしてわたしの背後に回ってしまうお嬢様。今度は分かりやすい照れからくる逃げの構えに思わず忍び笑いを漏らせば、背後から「裏切ったわね」という小さな声が聞こえた。


 その声に「あら、人聞きが悪いですわねぇ?」と答えて振り返ると、そこには頬をほんのりと染めたお嬢様の姿があって。不安気に揺れる琥珀色の瞳には少しの怯えと、少しの安堵が見て取れたから。


「う~ん……お嬢様と一緒に修道院に行くのも大変魅力的ですけれど、そのお話は今日の夜にでもゆっくりお聞かせ下さいませ。アデラはお嬢様がどんな答えを出そうとも、ずっとお傍におりますわぁ」


 ご本人が憶えていないとはいえ、目の前にいるノイマン様が寝込んだ四日間のお嬢様の行動を思えば今のわたしができるのは、かつて小さかったその背中を、ソッと押して差し上げることくらい。

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