*21* 家猫になりたいとは思ったけど。
――ヴィルヘルムの救出に成功したあの夜から、すでに一ヶ月半。
ヴィルヘルムを攫った犯人の顔は、後日新聞に載ったので目にしたのだけれど、そこに描かれていたのは件の夜会で見た小太りな商人で。やはりというべきか前々からきな臭い商売をしていた人物だったようで、あの隠れ家も人身売買のために使用されていたのだとか。
けれどその紙面にノイマン商会の長男の名前や誘拐の文字は一つもない。それはもう、不自然なほどに一文字もないのだ。代わりにあんなに大きな騒ぎを起こした割には人死には一人も出なかったことと、犬に噛みつかれて大怪我を負ったり、顔面を猫に切り裂かれたりという不思議な傷を負った犯人が多かったことが、事件の謎を深めていたと締めくくられていた。
そしてそんな建物内から救助された彼は酷く衰弱していて、あの後すぐに商会に運び込まれたものの、四日間高熱にうなされ続けた
何故
私は野良犬達に混じってヴィルヘルムを拐かした人物の隠れ家に駆け、一緒に中に入ろうとしたところで《
少し遅れて猫達が合流してきた後は、レジーナ達と一緒に乱戦状態になっている建物内を横切って、開きっぱなしになっていた隠し通路のドアをくぐって階下に急いだ……はずなのだけれど……。そこからの記憶がぽっかりと抜け落ちている。故に
事前に私が獣の感覚に引っ張られることがあれば、引き戻して欲しいと頼んでおいたアデラには『お嬢様、世の中には知らない方が良いこともございますわぁ』とやんわり説明を拒否される始末で。
ノイマン商会からは後日私の功績を大袈裟に讃え、お礼を支払いたいが郵便物に入れる小切手の額面としては少々問題があるので、私に受取りに来て欲しいという、無礼なのか義理堅いのか判断しにくい手紙が届いていた。
この時点ですでに結構不穏である。けれどさらなる不安を感じたのは、事件からようやく正気を取り戻し始めた一週間前。屋敷中の女性使用人達が、何かしら猫の喜びそうなオモチャを持ち歩いていたことからだ。
しかも皆私と目が合うとそれを振って遊んでくれようとするし、執事含む男性使用人達はこちらの姿をみとめるなり、走らないだけマシという勢いで遠ざかっていくんだもの……。
アデラに男性使用人達のことを訊いたら、これにはあっさり『お嬢様が屋敷の者達にとっても心を許して下さっていることが分かったので、旦那様が男性使用人に限り接近禁止命令を出されたのですわぁ』と教えてくれた。あの父がそんな命令を出すこと自体初めてのことなので、これは絶対に何かしたに違いない。
誰も教えてくれないことが怖いのだけれど、他に問題をあげるなら、小鳥達が窓辺にすら寄ってきてくれなくなっていること。アデラによれば私がおかしくなっていた間も、ご飯はキチンと毎日あげてくれていたようだった。なのに寄り付いてこないということは……考えるに難くない。
たぶん猫の生態に寄ってしまった私が迷惑をかけたのだと思う。これについては正気に戻ってから毎日窓を開けて謝っているから、そのうちまた寄ってきてくれる……はずよ。
ただ父は一ヶ月以上もの間私がそんな状態だったものだから、婚約者候補であったメルダース様に“娘が体調を崩していつ回復するか現状では不明のため、交際を続けることが難しい。こちらの都合で誠に申し訳ない”というような内容の手紙を、すでに送ってしまっていた。
あちら側からは私の体調を労る言葉と、交際解消の了承が明記された手紙に加え、とても立派なお見舞の品が届けられたけれど、これでまた婚約者探しは振り出しに戻ってしまう。落ち込みはしたものの、今の私にゾフィーが懐いてくれることはないだろうし、これで良かったのだと何度も自分に言い聞かせる。
けれど伝書鳩で再三私を招きたいという旨の手紙を送ってくるのは、ヴィルヘルムの弟やノイマン男爵ばかりで。相棒だと思っていた当のヴィルヘルムからは未だ一通も手紙がこない。
きっとあの夜に彼を怖がらせるようなことをしてしまったのだろう。次からの婚約者探しは、また私とアデラの二人だけに戻りそうだ。だからというわけではないのだけれど、私はお金の受取りにノイマン商会に出向く気はない。
勿論向こうが私の“予知”で得た情報で確立した商売の売上から、毎月幾らかは今まで通り私が死ぬまで受け取るけれど、それだけの関係になるだろう。まぁ、でも振り込まれる額面は全部足せばそれなりの金額になる。だから彼と出逢えたことは無駄ではなかった。
そんな風に自分を納得させながら久し振りに刺す刺繍は、以前彼に教えてもらった成果が出たのか、なかなか良い感じに合鴨が仕上がっていく。思わぬ副産物に少しだけ気をよくしていると――。
『お嬢様? 喉に優しいマルメロシロップの蜂蜜割をお持ちしましたわぁ』
高い場所から鈴を落としたように弾む声に刺繍をしていた手を止めて、音を立てないようにソッと足音を忍ばせて隣室を覗き込む。視線の先では猫が好みそうな羽根ハタキをエプロンに挟んだアデラが、クローゼットを開いて中を覗き込んでいるところだった。
思わず小さく溜息をついて「何故一番最初にクローゼットを捜すのよ」と声をかければ、こちらを振り返ったアデラは悪意なく「十日前はベッドの下に潜り込んでおられたもので、つい」と優しく微笑む。その言葉には返事をせずに近付き、エプロンに挟んだ羽根ハタキを没収する。
アデラはそんな私に「用心深いお嬢様が戻ってきてしまって嬉しいような、残念なような……複雑ですわぁ」と、おどけて見せるから。それが彼女なりの慰め方だと知っている私は「別に甘えないとは言っていないわよ?」と答え、アデラの肩口に猫のように額を押し付ける。
ワゴンの上では彼女が私のために用意してくれたマルメロシロップの蜂蜜割が、甘い香りを漂わせて鼻腔をくすぐる。この一ヶ月半私が憶えていない時期も含めて、このアデラお手製の甘いお薬が遠吠えで痛めた喉を癒してくれた。今日はカップが二客用意されているから、アデラも一緒に休憩できるみたいで嬉しい。
何も言わないでもこんな風に物思いに沈んでいる時には察してくれる。アデラも含め、今世の私の周囲にはそんな存在がいるのだ。
「ねぇ、アデラ。私もう婚活にも疲れてしまったし……かといってそれを止めてしまうと今度こそ家猫になってしまうわ。この際お父様には遠縁の中から養子を取るように勧めて、一足飛びで修道院にでも行こうかと思うのだけれど、どうかしら?」
勿論、ただの冗談である。キルヒアイス領は未だ財政難だから、そもそも一族の人間も嫌がって手を挙げてはくれないだろう。何よりアデラなら私がたまに口にする下手な冗談を理解してくれる。そう思っていたからこその身内ジョークであり、実際アデラも「あらまぁ」と微笑んでくれたのだけれど……。
「それは笑えない冗談だな。こっちはそれ込みで欲しくて体調が回復してから色々と走り回ったってのに、肝心のあんたが爵位を放棄するとか勿体ないだろ?」
昼下がりの和やかな空気をぶち壊しにしたのは、そんな聞き馴染んだ皮肉気な物言いをする人物と、困惑する私を見て
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