★20★ 理解が追いつかないんだが?
食事の時間だと思っていたところに嫌味な老いぼれが現れた後、さらに数時間ほどしてからようやく食事の時間になったのだが――……あの男が立ち去る間際に残した言葉通り、最早食事と言える量ではなくなっていた。
そのせいでついに体温調節が上手く働かなくなったのか、睡魔というよりは衰弱の類の眠気に襲われて意識を手放し、次に目覚めたのはただごとではなさそうな勢いで地面を駆け回る鼠の足音と、パラパラと上から降ってくる埃や建材の破片のせいだった。
目隠しのせいで聴覚が発達したのは確かであるものの、鼠の足音がいつもの倍以上に聞こえるのは純粋に数の問題だろう。何かから逃げ出すように必死に走る音に、動物の持つ本能的な怯えが勝る。それに上階の方も何やら騒ぎが大きくなってきている気配がしていた。
いったい何の騒ぎかは分からないが、これでもしも運良くここを発見されたらと期待する一方で、ただの商人同士の抗争とかだと最悪上階の連中は皆殺しに合い、この地下のことは誰も気付かずに俺はここで干からびる結末が見える。
可能性は限りなく低いが、もしもこれがうちの商会の連中であれば……とも考えたものの、それはあまりにも甘えた考えだと打ち消す。親父は根っからの商人で、昔も何度か誘拐されたが、結局どれも自分で何とかした。
しかし当時のガキの身体であれば油断も誘えただろうが、今のガタイでは最初から隙のない警戒態勢で、情けないかな何ともならん。
流石にまだ死にたくはない。とはいえ身動き出来ないこの状況ではどうしようもない。天命という言い方は嫌いだが、これを運だと言い換えれば受け止め方も変わる。運は商人の大切な才能だ。ここで死ぬのなら、俺に商人としての才能はなかったということだろう。
半ば諦めの境地ではあったものの、せめて身体だけでも起こすかともがいていると、階上から鼠の足音とは違う荒れた人間の足音が聞こえてきた。
その後を追ってきているのか、穀物の入った袋を地面に置くときのような音がかなりの数聞こえてくる。人間の足音ではないのか、バラけた音は不気味に不規則なリズムを刻む。途中からはくぐもった悲鳴と怒号が入り混じり、かなり不穏な気配を含んでいる。
――……これはやはりショバを荒らした同業者の報復の線が濃厚そうだな。
その音に急かされるように身体を壁際に寄せて背中を押し付け、何とか身体を起こそうとしていると、余裕のない足音が石の階段を駆け下りてくる音がした。
足音は乱れているが三人分か? この内の一人は嫌でも分かるとして、後は護衛だろう。
どうやら最後に幸運の女神は俺に微笑まなかったらしい。三人分の足音は俺のいる部屋の前で止まると、性急に鍵穴を引っ掻き回し、蝶番を弾けさせる勢いでドアを開けた。
俺から目隠しを引き剥がしたクソ野郎が「さっさとコイツを立たせて船に運べ! この隠れ家は捨てる!」と喚き、護衛二人が俺を無理やり引きずり立たせるも、膝に力が入らないせいで崩おれる。
立たせることを早々に放棄した護衛二人は腋の下に手を入れると、肩を担ぎ上げる要領でこっちの爪先が擦れるのも気にせず廊下に飛び出し、先に逃げている奴の背中を追ってさらに奥へと駆け出した。
爪先が石床で擦れるのも気にせず周囲に視線をやれば、ここがどうやら非合法の人身売買に使用されていたのだと分かる。いくつも俺のいたような部屋があり、今はどの部屋も無人だが意外と広い。それを考えれば上で暴れている連中は強制捜査の役人か?
ぼんやりとする頭でそう仮説を立てたところで目的地に辿り着いた。そこは川に面して半地下になった船着場で、用意されていた船にはすでにクソ野郎が乗り込んでいる。しきりに背後を気にしている護衛が「早く乗れ!」と担いでいた腕を抜く――……その隙を待っていた。
ふらつく身体を奮い立たせ、護衛のうち一人に体当たりを食らわせてクソ野郎の乗った船に落とし、もう一人の手が捕らえようと伸ばされたところで足払いを食らわせ、今辿ってきた方向に身体を反転させる。
逃げきれると思うほど楽天家ではないが、やられっぱなしも腹が立つ。その程度の考えでしかなかったものの、衰弱してもつれる足で走った――が、両腕を後ろ手に縛られたままで走ることは思ったよりも難しく、肩から石床に倒れ込んで強かに右側頭部を打ち付けた。
鈍い音に痛みよりも先に熱さを感じて呻けば、直後に背後から馬乗りになられて殴られる。
グラグラする頭と強烈な寒気と吐き気に意識を手放しかけた、その時だ。急に背中が軽くなったかと思うと背後で悲鳴が上がり、すぐに静かになった。
身を捩って後ろを見る気力もなく、額から流れた血で開かない右目の代わりに左目で見つめた暗い廊下の先で、
エメラルド色の双眸に「痛ぇよ」と力なく笑えば、真っ白な老猫は《ウナァアン》と甘く鳴いた。しかし再び猫達のいる方へと視線を向けた先に、女性靴の爪先が映る。レジーナはその脚に纏わりついて《ナオォーゥン》と一声鳴くと、ご機嫌に喉を鳴らした。
場違いなものにゆっくりと顎を逸らして見上げた先で、見慣れた琥珀色の半眼が冷ややかにこちらを見下ろしている視線とかち合う。ここで「は?」と声が漏れたのは仕方がないことだとは思うが、どうにも様子がおかしい。
クラリッサはそのまま急にペタリと俺の前に座り込み、レジーナがしたのと同じ様に……つまり、俺の額の傷を舐めた。当然だがザラザラの猫の舌ではなく、至って普通の人間の舌だ。傷口に染みはするが、くすぐったい方が先に立つ。
それに何よりも問題なのは――……だ。監禁されている間に気付いてしまった想いのせいで、この状況がひどく居たたまれないことだろう。熱心に傷口を舐めてくれるクラリッサには申し訳ないが、絶対にこれは正気ではない。もっと言うなれば、そんなことにあたふたしていられる状況でもない。
「待て待て待て、クラリッサ? 俺は今だいぶ薄汚れてるんだ。腹を壊す前に止めろっつーか、どうしてこんなところにあんたが……って、真面目な話をしてんだろ、正気に戻れ」
案の定さっき船に突き落とした護衛が「どこだ畜生、虚仮にしやがって!」と、雑魚丸出しの台詞を口に駆けてくる騒がしい足音が聞こえる。しかし――その声を耳にした途端、彼女の琥珀色の双眸は本当にただの宝石のように感情を失い、作り物めいた輝きを持った。
急な変化に言いようのない不安が的中したと分かったのは、直後に彼女の唇から紡ぎ出された蛇の威嚇音のような声だ。
彼女のその声に周囲の猫達が同調していき、それはすぐに
続くようにトトトッと軽い足取りでうちの倉庫にいた猫達が後を追い――……振り返ることの出来ない俺の背後で《フシャアアァア゛アアー!!!》という烈しい猫達の威嚇と、追っ手の悲鳴が響きわたる。
芋虫のように冷たい床に転がったまま、奥で何が起こっているのか確かめようにも確かめられないもどかしさに身動ぐ俺の耳に、階段から駆け下りてくる新たな人物の足音が聞こえたかと思った瞬間、その人物は「お待ち下さいませお嬢様!!」との声を残して、あっさりと俺の上を飛び越えていく。
いったい何なんだ……いよいよこれは熱が見せる悪夢なのかと訝しみ始めたところで、ようやく「ご無事ですかヴィルヘルム様!?」という、とても普通の言葉を耳にしたことで、ついに限界を迎えていた肉体は意識を手放して。安堵からか疲労からか、俺は真っ暗な闇へと堕ちていった。
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