*19* 一晩だけ、獣になるわ。
「お待たせいたしました、キルヒアイス様。ご注文の品が集まりましたので、これより第一倉庫で確認の方をお願いできますかな?」
商品を揃えてもらう間、客間に用意されたお茶を飲みながら待っていた私達を呼びにきたのは、意外にも商会の主人であるノイマン男爵その人だった。
彼の後に続きアデラと共に倉庫に案内してもらうと、そこにはすでに注文したものがまるで供物のように山と積まれ、アデラが「悔しいですけれど、流石ですわねぇ」と耳打ちしてくる声に頷き返す。
「高級牛のステーキ肉二頭分、秋鮭の燻製をふやかしたもの六十尾、小魚を五キロ、雑穀の大袋が三袋で約三十キロ分と、白パンを五十個、他には店で雇っている護衛を全員……で、間違いありませんでしょうか?」
「ええ、確かに。さすがはノイマン商会ですわね。たった二時間でここまでの量と質の品物を集められるだなんて。素晴らしいわ」
「いえいえ、この程度は他の商会にも容易いでしょう。あとは敷地内で鳥の寝床になっている木と、この店の倉庫と中庭を貸し出すとのことでしたが、この商品は全てここに? それとも仕分けますかな?」
その言葉から何となくノイマン男爵がこちらの意図を探りつつ、こちらの秘密を暴こうとしていることが窺える。ただしそれはヴィルヘルムの言っていたところの“新しいもの好き”という姿そのもので。こんな時でも子供のような探求心に妙な関心をしてしまった。
嫌な気配も感じないし、何より私とアデラではこの量の商品を動かす力はないので、その言葉に甘える形で鳥の寝床になっている木の下に雑穀の大袋と白パンを。
秋鮭の燻製をふやかしたものと小魚を、五棟ある倉庫の中で一番年老いた猫のいる第三倉庫に。高級牛のステーキ肉二頭分を、店の裏手に建てられた母屋の中庭に運んでもらうように指示を出す。
準備をしてもらっている間にまた先ほどの客間で軽く食事をとらせてもらい、設営を全て終えたと呼ばれた頃にはもう周囲はとっぷりと闇に浸した夜に覆われ、敷地内でも建物の陰はランプを持っていなければ危ないほどだった。
手伝ってくれた従業員達に労いの言葉をかければ、彼等は一様に“若を助けて下さい”と言うだけに留まらず、こんな奇妙な注文を出した私達に深々と頭を下げ、人によっては膝をついてまでヴィルヘルムの身柄を見つけてくれと乞われる。
最初は少し驚いたものの、それだけ彼が身内に優しかったことを私も知っているから。彼等の言葉に頷き返して短く「必ず見つけるわ」と言葉をかけた。
仕分けの終了を見届けたノイマン男爵に「家人には今から屋敷中のカーテンを閉め切って、明かりは必要最低限に。何があっても外に出てこないように言って下さいませ」と注意をしたけれど。
彼は私の発言に目を細めて「秘密をこの目に出来ぬことは残念ですが……キルヒアイス様。どうか、愚息を――」と。一度だけ深く、深く腰を折って頭を下げたノイマン男爵に、私も自分ができる最良のカーテシーを返した。
ノイマン男爵達が屋敷の中に消えると、それぞれの窓にカーテンが引かれ、一つ、また一つと明かりが落とされていく。しばらくすると、ノイマン商会の敷地内はほぼ闇に飲み込まれ、そこには私達の持つランプの明かりしかなくなった。
その仄かに闇を溶かすだけの明かりを頼りに、アデラと二人手を繋いでまず最初に向かったのは、鳥の寝床になっているポプラの木の下。私が木を見上げる形で立てば、アデラがランプを翳してくれる。
一番下の枝にいる小鳥が《
下から伝達を受けた上部の小鳥達からは《
ここで使える時間は少ないので木の下にある報酬を匂わせ、手短にヴィルヘルムの説明をした後、最近どこかで人目を気にして行動している人間を見なかったかと訊ねる。すると木はまたブワリと大きく膨らみ、百羽近く羽を休めているであろう小鳥達が、銘々に話し出す。
もうその音量たるや、隣でランプを掲げてくれているアデラが眉根を寄せるくらいで。私は彼女の両耳を塞ぎながら、小鳥達の言葉が一つに纏まって降りてくるのを待った。
結果としては《
若干肩透かしだったものの一応礼を述べ、明るい時間に食べられるように雑穀の大袋に従業員から借りたナイフを突き立てて裂き、ある程度中身を周辺にばらまいておく。
次に向かった先は第三倉庫。防犯のために最低限の明かりをつけた倉庫内には一日の仕事を終えた猫達が集まっており、若い猫達がご馳走に近付こうとするのを、古参である大型の猫達が威嚇して牽制しているところだった。
そこに足を踏み入れた私達へと一斉に向けられた、緑や金の宝石のような瞳。その中心が割れたかと思うと、ご馳走の山の上から雪のように白い一匹の大型猫が降り立つ。
《
目の前に座った真っ白な老猫は、私に向かいそう言った。その声に私も頷き《
『こいつがうちで一番古株のレジーナだ。元は俺の母親が拾ってきた猫で、かれこれ十七年ほど生きてる。婆さんだが、うちの倉庫内やこの街のことならこいつが一番詳しいだろうな』
と、自慢気に教えてくれた姿を思い出した。彼の膝の上で喉を鳴らして目を細めていたあの日の姿から、一回り小さくなった気がするのはきっと気のせいではない。私は彼女に今夜の作戦を説明し、彼女はその案を承諾してくれた。
彼女の口からご馳走は作戦が成功した時の報酬だから、まだ触るなと厳しく叱責された若い猫達の落ち込む様は可哀想だったけど、耳を垂れてシュンとする姿はとても可愛かったわ。
これで用件のうちの二つが済んだ。最後は中庭……なのだけれど。そこでしようと思っていることは今世では初めての試みであり、仮に成功したとしても、今までの“私”でいられるかに不安があった。
ランプを掲げて明るいうちに教えてもらった道を、アデラが先導してくれる。その背中に向かって「ねぇ、アデラ。私一晩だけ人間を辞めるわ。だから……私を人間に戻してね?」と告げる声が、微かに震えた。
すると先を歩いていたアデラがふと振り返って「勿論ですわぁ、お嬢様。その大役仰せつかりましたこと、光栄に思います」と。安心させるようにそう微笑んでくれたから。
「もしも……もしもよ? 私がこれまで色んな生き物に転生してきたから、このおかしな能力を得たのだと言ったら……アデラは信じてくれるかしら?」
困らせるだけの質問だと分かっていた。分かっていたけれど、押し潰されそうな不安からさらに、これまでずっと誰にも打ち明けられなかったことを訊ねてしまったのだと思う。
だけど彼女は気が触れていると思われても仕方のない私の問いかけに、やっぱりフワリと口許を綻ばせて「あらあら、うふふ……そんなことでしたら、当然ですわぁ。むしろこんなに素晴らしい存在が、一種一生限りの生きようで生まれるわけがございませんもの」と笑ってくれたのだわ。
そんな優しいアデラの言葉に鼻の奥がツンとして、今回の一件でこの後何があっても胸を張ろうと思えた。
中庭まで案内してくれた彼女に「貴女はここまでで良いわ。中に戻って誰かが様子を見に来ないように見張っていて頂戴」と言付ければ、一緒にいると言い出すかと思われた彼女は「御意に。ですがどうか……ご無理だけはなさりませんよう」と艶やかな微笑みを残して、屋敷の中へと戻っていく。
アデラにランプを持って戻るように言った私は、真っ暗な中庭に一人立つ。冬のキンと冷えた空気が夜の静寂を引き立たせ、月と星が見える空には、かつてのいつか、どこかの“私”が見上げた記憶が蘇る。
いつだか私は鳥であり。
いつだか私は猫であり。
いつだか私は馬であり。
いつだか私は犬であり。
いつだか私は鼠であり。
今世の私は
これは誠に遺憾であり、屈辱であり、来世が松であるということだけが人間の今世を乗り切る支えだった。何故ならいつでも私は人間に酷い目に合わされてきたし、何なら人間に転生してもそうだったもの。
これからやろうとしていることは、今まで
成功しても、失敗しても、遡る記憶に意識を持っていかれないとも限らない。最悪深層心理が焼き切れて、人間の人格に戻ってこられないことも考えられる。
――その裏技とは……遠吠え。幼い頃に面白半分にやって大変なことになってからは、ずっと封印してきた。
それも猫や小鳥とのように日常会話はできないし、手紙というよりは伝言のようにぶつ切りの情報量しか持たない。そのうえ意識が乗っ取られる可能性が高いし、一度使うとしばらくは声が出せない良いとこなしな能力。
「だけど……あの人は私を相棒だと言ったわ」
心ない、大嫌いな“人間達”から気狂いと囁かれたことも多い、この私を。
「そんな手のかかる相棒のために、一晩だけ正気を手放すわ」
スウッと胸一杯に冬の冷えた空気を吸い込んで、肺を満たす。見つめるのは、空にポッカリと空いた孔のように浮かぶ白い月。
喉の奥で《ウルル、》と小さく唸りを温め、口の両側に音が散らないように手を添える。身体をできる限り弓形に逸らして、喉を空に向けるようにさらけ出し――……。
《
届け、届け、届け、遠く、遠く、遠く――……早く。
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