★18★ 今更だとは思えども。
固く目蓋を閉ざして五感の一切を切り離したつもりでいても、自分の体内でやかましく鳴く腹の虫までは切り離せない。カビ臭く冷たい石牢に後ろ手を縛られ、ご丁寧に目隠しと猿ぐつわまで噛まされて転がされて……今日で何日経ったのやら。
ここに放り込まれてから……たぶん一日に一食……だと思いたいが、固いパンと薄い塩味のスープしか与えられていない。食事の時だけは目隠しと猿ぐつわを外されるが、窓のないこの場所では昼か夜かの区別もないうえに、恐らく時間も意図的にばらけさせているだろうから、一日一食説は楽観的すぎるか。
おまけに手は後ろ手に縛られたまま這いつくばっての犬喰いだ。礼儀作法に厳しい母上が見たら卒倒する光景だろう。
そして季節的にも石牢は辛い。座ろうが寝転ぼうが容赦なく体力を削っていく。直接的な暴力を受けて痛めつけられたのは拐かしにあった初日だけで、ここを出た際に仕返しをする連中がどこの商会の連中かも、粗方目星がついている。
――尤も、ここから出られる可能性が今のところ極めて低いのが問題だが。
攫った側にこちらを暴力で痛めつける気がないのは、奴等が商人としての矜持を持っているからではなく、単に手を汚すのが嫌なことと、衰弱していく様が愉快だという悪趣味な理由からだろう。
食事を終えて目隠しだけし直され、猿ぐつわを噛まされる前に毎回悪趣味野郎からの指示を受けた食事係が、ある同じ質問をしてくる。
その都度適当にはぐらかしては次回からの食事量を減らされ続けて、今ではパンもスープも一口で食べきれる量になった。それに恐らくここは河の近くなのだろうが、絶えず水の音と風の音がどこからか聞こえてくる。空腹に加えて寒々しさが増す演出まで添えてくれるとは粋な計らいだ。
それにしても――……。
初めてライナ嬢を見た瞬間に感じたのは、商人らしく“如何にも御しやすそうな娘”だった。癖のない金髪に瑠璃色の瞳。顔も整っていて貴族らしい風貌と言えなくもない。ただし全体的に庇護欲をそそる娘ではあるが、我が弱そうでオドオドと落ち着きのない様子は何かしら引っかかった。
そうして案の定、商人が感じるその手の引っかかりというのは嫌なぐらいよく当たるもので。
彼女は病身の母親のために、かつて母親が情を交わした子爵家の中に入り込み、自分に与えられた備品をバレないように売り捌いて、その金を母親に送っていたようだった。
実際クラリッサと知り合う前からの伝手を使って調べさせたところ、彼女に会う度に俺が渡していた装飾品は、その後一切身に着けられることなく売り捌かれ彼女の母親の手に渡っていた――……だけなら、まだ良かった。
実際はうちの商売敵である商会にそのまま持ち込まれ、まだ商品化していなかったデザインを盗まれた挙げ句、緻密なデザインを粗悪に模倣されて安価に売り出されたのだ。商人ではない彼女には、それがどんなに大事なのか理解出来なかったのだろう。
それに商人の世界でそういうことは珍しくもない。確かに小鳥とスグリをあしらったあのデザインは、露店を商っていた頃から気に入っていたのかアクスルの代表的なモチーフだ。鳥や植物を好んで使う職人は多くいるため、デザインが似通うことはある。
同時に似たものを思いついただけだと言われ、先に量産体制を整えて商品にしたもの勝ちだ。腹立ちはしても、次回から類似品を売り出した店を警戒するようにすればいい。
今更のことではあるがシラを切るライナ嬢を怒らせるためとはいえ、
『貴女は俺を成り上がりのロクデナシと軽蔑するが、母親を日陰者にした男の家に身を寄せてまで金品を漁る貴女と、爵位欲しさに婚姻関係を結ぼうとする俺にどれほどの違いがある?』
――と煽ってまで、どこの誰の入れ知恵か問い詰めることなどせずに、そのまま泳がせていた方がよかったのだろう。お陰で頬にいいのを一発食らうわ泣かれるわ……後日単独で探りを入れに出て襲われるわ、散々だ。
そもそもの問題として盗まれたデザインに思い入れがあるなど、こうなるまで自分でも気付かなかった。そうしてそのことに気付いた瞬間、それがもうどうしようもない物事だと知る。
あのデザインが特別だったのか、あの記憶が特別だったのか。どちらにせよ今更真実を知ったところで惨めすぎる。
――と、そんなことを考えていたらどうやら食事の時間がきたようだ。コツコツと石の表面を叩く靴音が響き、湿気で錆びた蝶番の立てる軋んだ音がしたかと思うと、目隠しされた状態で寝転がっていた鼻先にいつもの見張りとは違った、品の良い靴磨き油の香りがした。
ようやく真打ちのご登場か。今日で死ぬのかもしれない。どこかぼんやりと他人事のように感じはしても、ここにいるのが弟ではなくて良かったと思うだけだ。
目隠しの下で一度強く目蓋を閉ざせば、疲弊した脳は何故かノイマン商会の自室や倉庫ではなく、あの不細工な刺繍を見た暖かなサンルームを思い描いた。
しかしそのことを自嘲する前に鼻先で気配が動き、咄嗟に衝撃に備えて身体を固くするが……むしり取るように乱暴に目隠しを剥がされた先には、あの忌々しい夜会で見た中年商人の姿があった。
こちらの顔を照らすために掲げられたランプの明かりに、一瞬ここのところ弱っていた目をやられるが、何とか睨み付けるように顔をしかめて堪える。
だが相手はそんな俺の反応を鼻で嗤うと「どうだノイマンの
「は……馬鹿か、
罵倒してやろうにもこの環境下で痛めつけられた喉では、迫力に欠けた情けない声しか出ない。案の定、俺が上げた憔悴した声はクズ野郎を喜ばせただけで。
「ふっふっ――……これはこれは。この期に及んでまだ刃向かう気概があるのは結構なことだがね、自分の立場をよぅく考えたまえ。もう減らせる食事も僅かだ」
再び目隠しを巻き付けられ、猿ぐつわを噛まされた俺の耳に届いたのは、弱者を小馬鹿にしきったクズの心底楽しげな声だった。
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