*16* 正論ほど腹立たしいのよ。

 ヴィルヘルムとの連絡手段が伝書鳩になってから、婚活や商人の仕事で忙しくしている私達が直接顔を合わせる機会は少なく済むようになった。けれどその分今までの多少遠慮が見られた注文が、嘘のように頻繁に入ることになったのは……正直微妙かしらね。


 常に猫か小鳥と話をしなければならないから、最近急に屋敷の使用人に話しかけられても「にゃうん何かしら?」や「チュピピどうしたの?」といった風に、人語以外の言葉で返してしまうことが増えたのだ。


 一瞬でも“あら? 私は人間に転生したのよね?”と感じることがある子爵令嬢だなんて、どうかと思う。困った風に笑ってくれる使用人達の中で、唯一アデラだけは私の失敗に合わせようとしてくれて、時々「にゃううん、にゃにゃん頭冷たくない?」というような、チグハグな返事を返してくれる。


 アデラのそんな面白い誤変換は聞いていて楽しいけれど、できれば彼女には人間でいてもらいたいところだわ。


 暦の上で過ごしやすい秋が半分ほど去り、そろそろ外でのお茶を楽しむには肌寒い日が少しずつ増えてきた。とは言っても、朝にはちゃんと四阿に出向いて小鳥達にパン屑や雑穀をやり、その日の耳寄り情報を教えてもらう日課は変わらない。


 今朝もそんないつも通りの日課から『チュチュチチ今日は振られ男がチチチチュピ来るかもしれないね?』という伝言は受け取っていたのよ。だからこそ、心穏やかに趣味の刺繍を楽しめるサンルームにアデラと二人でいる時に、


「刺繍をしているのは理解出来るんだが……それは何を刺しているんだ?」


 ――と、突然そんな無遠慮な発言と共に現れた人物にもすかさず「あら? いきなりいらっしゃったかと思えば、開口一番ご冗談をノイマン様。一目で分かるではありませんか。可愛らしい合鴨ですわぁ」だなんて、アデラが噛み付けたのだわ。


 けれど彼女のそんな献身的な姿が嬉しい反面、胸に痛い。実際に指摘された刺繍はどこからどう見ても肉団子で、これを一目で合鴨だと言い当てられる人間は、屋敷の中でも父とアデラの他には乳母と執事しかいなさそうだもの。


「……合鴨。その赤茶色の謎の球体がか。何だってまた合鴨を刺繍にしようと思ったんだ? もっと可愛らしい鳥くらいいるだろう。それともクラリッサの好物なのか?」


 若干自分でもこれ以上この作品を刺し続けたところで、合鴨に見えることはないだろうという諦めの境地には達していた。そこでもう肉付きは充分に足りている合鴨をテーブルの上に伏せ、失礼な来客に向かって表情に乏しい半眼を向ける。


「お久しぶりね、ヴィルヘルム。貴男は刺繍で好物を刺す令嬢がお知り合いにいるのかしら?」


「そんな変わり者がいるわけないだろう。俺は少なくともクラリッサくらいしか知らん」


 今更とはいえかなり砕けた口調で遠慮というものをまるでなくした彼は、せっかく私が伏せて置いた刺繍枠をひっくり返して渋い顔をする。


 正直な感想を述べようか、褒める部分を探そうか考えあぐねているその手から刺繍枠を奪い取り、今度こそ膝の上にしっかりと伏せた。


「そちらこそ、随分と鮮やかで可愛らしい楓を頬にお持ちね?」


「……いや、まぁな。芸術のお裾分けだとでも思ってくれ。クラリッサの方は婚約者殿と上手くやっているのか?」


 小鳥達が教えてくれたのはこのことだったのだ。やっぱりこちらの心配は的中していたみたいね……。


「それなりよ。貴男こそ……ライナ様とはその後どうかしら?」


 表情は乏しくとも、こちらの含みのある物言いに苦笑した彼は「さては小鳥共か? 相変わらず情報が早いな。始めはこんなもんだろう。気長にやるさ」と零してから、私の向かいの席に腰を下ろす。


 近くでみればより鮮やかな小さい手形は、きっと誰もが腫れ物のように扱っているライナ様に求婚して、私の時のように余計な一言を言ったせいに違いない。


 その様子にアデラが「色男様は出涸らした薄い紅茶と、煮出したように濃い紅茶。どちらがお好みです?」と微笑み、胡散臭い微笑みで頷き返した彼は「両方もらおう。足せば普通の紅茶だろう」と極論に走った。


 そのまま放っておいても面白そうだとは思ったものの、一応大切な運命共同体なので「アデラが淹れる紅茶はどれも美味しいけれど、私と同じものを出してあげて」と口を挟めば、彼女は輝くような微笑みを浮かべてくれる。


 いそいそとお茶の準備を始めてくれた彼女から、視線を真向かいの無礼な相手に向けた。


「悪かったからそう睨むな。得手不得手は誰にでもある。真面目に練習さえすればそれが合鴨に見える日もくるだろうさ」


「……睨んでいるように見えるのは私が半眼だからよ。指が十本あるのは久し振りで勝手がつかめないの。それよりも次に会う約束はまだ先でしょう? 人の趣味の時間を邪魔してまでお越しなのだから、さぞかし大切なご用件でもあるのよね?」 


 慰めのつもりなのだろうか。人の神経を逆撫でする発言に内心ムッとしていると、紅茶を蒸らしているアデラが「ノイマン様。お嬢様は五歳の頃より奥方様とご一緒に刺繍を嗜まれるのが日課だったのです。どうです・・・・かぁ、可愛らしい合鴨・・・・・・・でございましょう?」と、何かと圧を感じさせる風に笑う。


 その言葉を耳にして長い脚を組みながらヒョイと肩を竦めて笑う姿に、もう片側の頬にも同じ痕をつけてやろうかしらと半ば本気で思ってしまった。


「どんな言い訳だと言いたいところだが……確かにこの刺し方だと十本の指のうち、何本かは常に怪我をして使えんだろうからな。それにしてもつれないな、クラリッサ。相棒の顔を見に来ることは用件には入らないのか?」


「そうね……時間給が発生するなら貴男の相手をしても良いわよ」


「それは残念だな、生憎今は持ち合わせがない。だが来てすぐに帰るのも芸がないからな。代わりにそれ・・がいくらかマシになる技術を伝授してやろう。繕いものが出来ないと結婚してから苦労するからな」


 今までの飄々とした掴み所のない笑みから一転、今度は本気でこちらを気遣うように眉根を寄せて見せる彼の口許が、実はまだ去りきっていない笑いで軽くひくついているのが分かった。


 それでも実際耳に痛い助言ではあったので、妙な意地はこの際捨てて「では教えて下さいますか、先生?」と。素直に余っていた刺繍枠を手渡した私に向かい、ふと目許を和らげる彼の雰囲気は相棒として嫌いでない。


 しかし彼は「たぶんあんたに教えるのにやって見せるのは無駄だ」と言い放ち、私の後ろに回り込んで、まだモチーフの下書きを済ませただけの布をかませた刺繍枠を持たせた。


 困惑する私とアデラを無視して「それじゃあまずは糸選びからだな」との声が頭上から降り、旋毛の髪を微かに揺らす。指が十本あるのに慣れないだなんて、馬鹿なことを言わなければ良かったと思ったものの、後悔は先に立たないもので――。


***


 突然ヴィルヘルムによる刺繍レッスンの開始からすでに三時間。途中で他の仕事を頼まれたアデラが『変なことをされそうになったら、針で思い切り目を突いて差し上げれば良いですわぁ』と言い残して去ってしまった。


 そのせいでサンルームには私と彼の二人だけになり、アデラの目から逃れた彼の刺繍レッスンは厳しさを増したのだ。これでも転生してからは、ずっと真面目に刺繍に取り組んできたはずなのに、飛んでくるのは的確すぎる駄目出しの嵐。


 『下手くそほど長く糸を取ろうとする』に始まり、『刺繍針の長さを確認しろ』『枠を握りしめるな、布がずれる』『時々は裏返して糸の始末を見ろ』などなど、本当にいちいちためになるわ。


「だから、何でそこで力いっぱい糸を引っ張る必要があるんだ。ここの布地を押さえて、ゆっくり形を整えながら引っ張れば良いと言ってるだろう?」


 そしていつの間にこの形に収まったのか、今の私は後ろから刺繍枠を持っている左手を支えられ、針を持つ右手をがっちりと固定されている。ああ……いつもやっているように、思いっきり糸を引っ張りたい……。


 そんな誘惑に耐えながら優しく糸を引く。すると普段なら布地を突き破って裏にきてしまう縫い目は、ふっくらとした赤い花の一筋に姿を変えた。ほぼ出来上がったように見える小花の花束を模した刺繍に緊張が緩む。


「よし、良い調子だ。あんまり強く引っ張るとせっかくのノットが潰れる。ここのステッチだって途中までは良かった。色選びも良いし、運針自体は悪くない。堪え性が足りんのだ」


 せっかくの良い気分に水を差されて「でも、早くお父様やアデラや、他の使用人の皆に渡したいのだもの」と反論すれば、彼は「だったら次は綺麗なやつを仕立てるんだな。今の腕前だとお相手の子供に泣かれるぞ」と喉の奥で笑う。


 それからさらにまた少し刺し、ようやく完成した花束のモチーフに達成感を持って振り返ると、ヴィルヘルムはささやかな拍手をくれた。


 二人してすっかり冷めた紅茶を飲みながら「貴男が刺繍を出来るだなんて思ってもみなかった。どこで習ったの?」と訊ねれば、彼は不細工な肉団子を刺した刺繍枠を手許で弄りながら「うちに商品を卸してくれる職人から教わった。俺はどんな商品でも作業の内容に見合った金額を渡したい。技術に報酬を払うんだ」と教えてくれる。


 本当に残りの時間を私と一緒に刺繍を刺しただけの彼は、帰り際にふと思い出したように懐を漁って「これやるよ」と、無造作に私の掌を上向けて小さな包みを二つ置いた。


 すぐに開けるのははしたないと思いつつ、その場でアデラと並んで開いた包みの中からは、猫と木苺のモチーフをあしらったペンダントトップが二つ現れて。その可愛らしい意匠の中に見知った職人の面影を見た私とアデラは、ヴィルヘルムに心からのお礼を述べた。


 ――まさか一週間後にヴィルヘルムがあんなことになるとは、この時まったく思いもせずに。

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