第20話 逃亡
幻聴、幻覚、多幸感、万能感、過剰な活力、あらゆる感覚の鋭敏化。
それがエリクサーという薬物の作用だ。
それでいて強烈な依存性を伴い、
一度でも手を出せば決して抜け出せないという。
「ひっ」
光の矢を受け、また一人地に伏した。
逃げたい一心で走り出したが故に注意を惹いてしまったのだ。
最近明らかになったことだが、
魔術の資質があるものはエリクサーに違った反応を示す。
精神の暴走と言うべきか。
魔術をぶっ放しまくり、破壊の限りを尽くし、
最後は昏倒する。
感覚の鋭敏化がマナへの感応性を高め、
意識の混濁も相まって制御不能に陥るようだ。
さながら今まさに暴れ狂っている魔術師、エルネストのように。
「おいエル! 落ち着け!……ダメじゃなこりゃ」
モニカの声は届かない。
エルネストは白目を剥きながら”魔術の矢”を乱射していた。
その腕には短剣が突き刺さっていたが、
これを為した男は矢を受けて絶命済みだ。
短剣を受けながら、
それでも意味不明な言葉で詠唱を続ける様は狂人という他なかった。
ウィンターはこの街におけるエリクサーの販路を担っている。
そのウィンターにとっても、これは初めての経験だった。
聞けば薬によって暴走した魔術師や司祭は、
最大威力で魔術をぶっ放すため、
破壊力はあってもせいぜい数発で昏倒するはずなのだ。
事実、エリクサー中毒者であるマーシャは、
達人でこそあったが短時間で立つことができなくなった。
ウィンターがテーブルの下に身を隠してから、
聞こえてくる破壊音は数発どころではない。
「なんなんだアイツは! 化け物か! おい、守らんかクズが!!」
用心棒の一人をウィンターが罵る。
獣のような声を上げながら破壊の力を行使する魔術師に、
たかが盗賊上がりの手下ではなす術がない。
一番腕が立つ大男も魔術で瞬殺されてしまったのだ。
あらゆるものを盾にして嵐が過ぎ去るのを待つしかあるまい。
「まったくヤンチャな司祭じゃのー。 しかたない、マーシャや! エルを止めてくれ。
ありゃ? マーシャ? 死んどるのか」
モニカに呼びかけられたマーシャから返答はない。
浅い呼吸だけが見て取れる。
その目は混濁としており意識が正常でないのは明白だ。
「はー使えないのぅ、賭博神のザコ司祭は」
堕神の罵倒に奮起して賭博神バクラトの奇跡が起こる。
などという都合のいい話はなかった。
「とかなんとか言いつつもワシも気分が悪くなってきたのう。
エルのやつ、不遜にもワシから勝手に力を引き出しておるな…。
少し懲らしめてやるわ」
エルネストを睨むモニカ。それはただの視線ではない。
”神の威光”。
堕神であるモニカが強く意志をもって対象に気配を送ることで、
対象の心理状態を描き乱すことができる。
「グッ? ギ……ガァァァァァ!!」
一瞬エルネストの動きが鈍ったが、すぐに立て直した。
そもそも理性が飛んでいるようなので効果が薄いのかもしれない。
モニカは思案する。
エルネストは逃げ道だか打開策をもっているようだった。
さっき見せた妙な魔法――異常な出力の”矢”――を打つまでは順調だったようだ。
しかしエルネストの精神力が切れ、
マーシャがそれを庇って負傷したことで躓いた。
マーシャを置いて進めばいいものを、
どういうわけかエルネストが怪しい薬を飲んで発狂したのだ。
(ワシだけ逃げるとすると…)
混乱に乗じて入り口から出られるだろうか。
相変わらず入り口前にはウィンターの手下が陣取っている。
しかしエルネストの狂乱を目にして逃げ腰だ。
神の威光なり”魔術の矢”なりで脅せば通れるかもしれない。
しれない、が……
「まぁ、たまには信者に救いの手を差し伸べるのも悪くなかろ。
エルもせっかく育ってきたところだしの」
マーシャに刺さった短剣を握ると、
雑に引き抜くモニカ。
呻くマーシャに構わず傷口に手を当てる。
その掌がわずかに光を帯びる。
「<<治癒>>」
神自ら奇跡が行使される。
その効果は覿面であり、
マーシャの傷口は瞬く間に塞がった。
「おいマーシャ、治ったぞい。
さっさとエルのバカをどうにかせい。
…マーシャ聞いとるか?」
「……モニカちゃん、あんた、司祭だったの?
ていうかエルくんヤバイことになってるね」
ゆっくり立ち上がったマーシャだが、
その足取りはおぼつかない。
「まぁそんなとこじゃな、はよ何とかせぇ。
ワシもなんだか眠くなってきおった」
モニカが眠気を感じるのはいつぶりのことだろう。
睡眠は神にとって人間ほど頻繁に必要ではない生理現象だ。
「ごめん、じつはクスリのやりすぎで体にガタがきててさ。
治してもらって悪いんだけど、そっちでも限界。
あと一回キメればどうにか動けるかもだけど」
「お主まで暴れられてはお手上げなんじゃが」
「そこは大丈夫、薬ていうか毒には耐性あるから、あたし…」
蓋開けて、と差し出された小瓶を開けマーシャに返すモニカ。
神がこれを飲んだらどうなるだろう、と興味が頭をよぎる。
「ここをどうにかしてくれたら後のことはどうにかしてやる。
じゃから頼んだ」
「モニカちゃんて結構鬼畜」
薄く笑んだマーシャはエリクサーを飲み干す。
途端目を見開いて深く息を吸った。
鉛のように重かった体に血が通ったようだ。
それが偽りの活力だとしても十分だとマーシャは考える。
「でもね、ここから出たあたしの面倒は見てくれなくていいよ。
そもそもあたし、死ぬ気だったしね」
「それはどういう」とモニカが口にしたときには、マーシャはそこにいない。
マーシャは狂ったエルネストに対峙すると挙動を観察する。
光や動くものに反応して魔術を放ちまくっているようだ。
魔術師も司祭と同じように魔法を発現させるが、
同じく詠唱を必要とする。
エリクサーで狂った魔術師や司祭が、
詠唱抜きで魔法を使えるのは何故なのか。
「おっと」
飛来した矢を避けつつエルネストに近づいていく。
”魔術の矢”を見るのは初めてじゃないし、
マーシャの動体視力なら捌くことは可能だった。
しかしこの魔術師、隠し玉をもっている。
「<<感覚剥奪>>……!」
(来た!)
エルの口から呪文が零れるのと同時、
マーシャの体を異変が襲う。
エリクサーによって戻っていた四肢の感覚が、
また遠くなっていく。
禁断症状のときは身体が重かった。
しかしエルネストのこれは、
まるで身体を“奪われる”ように感じる。
(いや、これは魔術じゃないな。 まさか…?)
腹に力を込め魔法への抵抗力を高める。
肉体の内なるマナと、外のマナを繋ぐ精神。
奇跡を行使するときは逆に、
外からのマナを堰き止めるイメージで集中する。
マーシャはかつて、宗教騎士として過酷な経験を積んでいた。
その中で一度だけ、同じ魔法を身に受けたことがある。
独特な感覚だ。忘れるはずもない。
しかし何故、こんな青年が。
何よりも、何故魔術師が、奇跡を行使できる?
(しかもこの威力…!)
どす黒い重圧。
粘度をもった闇が被さってくるようだ。
過去に受けたそれとは比較にならない威力だった。
階級で言えば司祭長級は超えている。
エリクサーで増強されているとしても破格だ。
並みの人間では容易に飲み込まれるだろう。
「っっしゃオラァァァ!」
喝とともにエルネストの奇跡を弾き返した。
マーシャの精神力が上回ったのだ。
その勢いのままマーシャは駆ける。
そして顎に拳を一発。
前のめりに崩れ落ちるエルネストを担ぎ上げた。
「はい確保―。 モニカちゃんおいで」
「お、おぅ、ご苦労」
呆気にとられた様子のモニカを引き連れると、
マーシャは壁伝いに歩き出す。
居合わせた客とウィンター、その手下。
誰もが破壊の爪痕に委縮し、追ってこない。
壁に触れるマーシャの指が、ある地点で壁に吸い込まれた。
壁の形はあれど、壁は無し。
魔術で隠蔽された出入り口だ。
「おい待て!」
遠く、ウィンターの虚勢が聞こえてきた。
マーシャは中指を立てて答える。
こうして3人は地下酒場を後にしたのであった。
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