第4話 うごめく針と運命の古書店

 針はわき腹から腸の中を進むように動いている。激しい吐き気が襲ってきた。と同時にブツリと音がし、太い針がわき腹からずるずるゆっくりと出てきた。ポトリと運転席に針が落ちると、穴からどろりと血が流れる。


 そしてまたそのすぐそばに激痛が走った。同じくグイグイと肌を持ち上げてはブツッと皮膚を突き破り足元にカチャン、と落ちる。


 痛みに耐えかね車のドアを開けて嘔吐した。背中は汗でびっしょりで、白いワイシャツには血が滲みだしている。


 わき腹、そして胸の真横。それは徐々に上に上がってきた。次はわきの下を硬い先端が付き上げる。そしてそのまま皮膚を突き破ってきた。


ブツリ カチャン


ブツリ カチャン


首の真横の皮膚を突き破ったときに、絶叫と共にジョンは気を失った。首から少し覗いていた針は自分の意志のような動きで、ずるり、とはい出てきた。



*****



ジョンの妻ケイトは優しく高齢の母の家にトムと一緒に暮らしていた。母親のサラゴールドバーグは夫を亡くし、残された家と年金でつつましく暮らしていた。2ベッドルームの家は暖かく居心地が良い。


今日はトムを預けて親友のマリーマッケンジーとオープンスタイルのカフェで待ち合わせをしていた。外の席ではなく少し奥に座り、アイスティーをかき混ぜながらぼうっと通りを見ていた。


今日はジョンの誕生日だが電話をする気もなかった。トムの5歳の誕生日にもリリーと会っていたのだ。今日だって一緒にバースデーを祝っているかもしれない。



1か月前にマリーからジョンと病院の受付のリリーの話を聞くまでは、本気で浮気を信じていたわけではなかった。信じたくなかった。


ディオールのパフュームの香りがした時も、ケイトの使っていないシャネルのルージュのレシートが出てきた時も


「まいったな、しつこくハグを繰り返されたんだ、こんなにシャツに香りが付いたよ、悪いけど洗ってくれる?」


「ああ、同僚のバースデーギフトなんだ。少しパーソナルだったかもしれないね、口紅は」と言い訳をした。


心から納得したわけではなかったけれど、何も証拠がなかった。あの日までは。思い出すと今でも涙が滲んでくる。


「ケイト!ケイティー!会いたかった!どうしてた?大丈夫?」性格と同じようなカラフルな帽子をかぶったマリーが走ってテーブルに向ってきた。


「マリー!来てくれて嬉しいわ、ありがとう」


「心配してたのよ、あれからどうしたのかって。私が余計なことを言ったんじゃないかって、ずっと後悔していたの。言わなければよかったんじゃないかって」ウエイターにフラプチーノの注文をしながら、ケイトの手を握って目を覗き込んだ。


「ううん、話してくれてよかった。気にしないで、本当に」


「いやだ、痩せたわよ、ケイト。食事をしているの?まだ苦しんでいるのね」と自分のことのように口元を震わせた。


「もうだいぶ落ち着いたのよ。これからどうしていいかわからなくて。しばらくは離れたまま、というか。もう戻らないと思うわ」


「たった1回の浮気でそれはやりすぎじゃない?許せないのはわかるけど、ジョンも魔が差したと……」言い終わらないうちにケイトは


「1回じゃない。絶対に1回じゃないのよ。証拠はなかったけど、遅く帰る日も多くて仕事だと信じていたの。何回もあったのよ。見て見ないふりをしてた。でもこの1か月でいろいろ調べて……」と見る見る目に涙が溜まってきていた。


マリーは大きなため息をついた。「当り前よね、1回のわけないわ。あのバカ男は私にまで言い寄ってきたのだから」と考えた。もちろんそのことだけはケイトに言えなかった。もうだいぶ前のことになるけれど、ケイトに内緒でどうだろうと誘われたことがあり、思い切りひっぱたいたことがあった。


ジョンは病気だ。セックスアディクションだと思う。全くケイトはどうしてあんな男と結婚したのか。聡明なケイトが。ジョンは巧妙に隠していると信じていたけれど、あちこちで噂になっていた。あの日、ジョンは街中でリリーにキスをしてアパートメントに消えていった。いやらしくヒップをまさぐっていた。本当に腹が立つ。


 「ねえ、元気出して。これからの事はゆっくり考えたらいいよ。お母さんの家にまだいるの?良かったらうちに来る?」


 「うん、ありがとう。でも母の家が良いの。すごく落ち着くし、トムもいつも見てもらえるしね」


 地味な外見だが美しかったケイトは見るも無残にやつれている。後ろにとかしつけたブルネットの髪には幾筋も幾筋も白髪が混じっている。


今日は時間があるのだからゆっくりとショッピングでも楽しもうと飲みかけのドリンクをテイクアウトし、2人はLAの明るい空の下を歩きだした。


 この太陽のように明るいマリーといてもケイトの心は晴れなかった。デパートメントで洋服や靴を見ても思い出すのはブロンドのリリーの事だった。彼女が履くような派手なエナメルのハイヒールを見たときにはたまらなくなった。


 「ねえ、悪いけど私やっぱり帰るわ、今日はまだ無理みたい」


 「ケイティーったら、ほら、下を向かないで。ああ、そうだ。ケイトが好きそうな面白い本屋を見つけたの。古本大好きでしょう?」


 週に何冊も本を読むケイトはそれならいいかもとマリーに連れられて路地から少し離れた一軒の小さな趣のある本屋に入った。


 小さな古本屋で外国の本ばかり売っている変わった本屋だった。カランとベルのついた扉を開けるとぷんとかび臭い匂いがした。


 ショーウインドウに飾ってあった黄色くボロボロになった本が目に入った。ケイトはすぐにその本を手に取った。手書きのようだ。たくさんの図解が書かれている。


 「それはとても貴重な本だよ、200年以上前のものなんだ」うしろから店主の黒人女性が話しかけてきた。大きなアフリカの模様の服を着てターバンを巻いていた。


 「この皮の表紙も中の図解もとても素敵。ラテン語はあまり読めないけど、すごく雰囲気がありますね」と店主に言った。


 「ねえ、ケイトこんな汚い古い本買わないでしょう?なんだか、手が汚れそう」眉の間にしわを寄せてマリーはケイトにささやいた。


 「なんだか、とっても気になるのよ。これ手書きじゃないかしら?こんなの珍しいわよ、見たこともない不思議な皮の表紙だし」結局その本と学校で使うための外国の絵本を数冊持ってレジに向かった。


 「これはいいものを手に入れたよ。本に選ばれたんだ。今にきっとわかる」


 マリーはやれやれというように目をぐるっと回し


 「まあね、ケイトが気に入ったのなら良いけどね」とつぶやいた。


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